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先生、おやすみなさい  作者: けもの
高校三年生
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先生の後悔



 微かに初夏の空気を感じて目を覚ました。

 身じろぎもせず天井を見つめながら、初夏と呼ぶにはまだ少し気が早いな、と考え直した。

 

 雀の鳴く声が微かに聞こえてくる。その活発なさえずりに励まされて、さあと自分を起こそうと試みたけれど、金縛りにあったように身体はピクリとも動かなかった。


 起きなくちゃ。起きて早く仕事に向かいたい。


 窓を開けて、空気を入れ替えながら朝の支度をして、いつもの時間のいつものバスに乗って、人いきれに満ちた校舎で集団に紛れ、生徒のことだけを一心に考えて、自分が何かの役に立つ人間だと思いたい。

 余計なことは全て忘れて、働くためだけに存在するアンドロイドのようになりたい。


 もうずっと自分のためには何もしたいと思わない。食事も、シャワーを浴びるのも、眠るために服を脱ぐのさえ億劫だ。

 できることなら職員室の自分の席でスリープモードになって、朝になったら誰かにちょっと揺り動かされて目を覚まし、そこからまたエネルギーが切れるまで働く。そんな風に自分を作り変えてしまいたい。


 馬鹿らしいことを考えていると、雀がどこかへ飛んで行ったのが分かった。

 一体いつまでこんな気持ちが続くんだろう。心が渇いている。どうやって潤せばいいのか分からない。

 誰かと寝れば良いかな。

 思ってようやく自分を笑った。

 腹が鳴って、仕方なくベッドから起き上がった。

 こんな生活でも三大欲求だけは回復していた。

 シャワーを浴び、お湯を沸かしている間に服を着て、食パンを齧りながらコーヒーを飲む。半分に切ったリンゴも齧って残りの身支度を整え、昨日まとめたごみを持って部屋を出た。


 鍵を掛けていると二軒隣の部屋から女性が出てきたところだった。初めて見る人だ。

 前は単身赴任と思われる男性が住んでいたはずだけど、いつの間に入れ替わったんだろう。

 社会人だとは思うが俺よりは少し若い、と思う。女性の年齢は年々判別しにくくなっている。

 目が合って軽く会釈すると、向こうも「あ」というように頭が揺れた。

 俺が前を、彼女が後ろを歩いて階段を下る。

「あの」

 幾つか下ったところで声を掛けられた。

「はい」

「今日は紙ごみの日じゃありませんでしたか?」

 不安そうな表情の女性は、自分の手にある紙ごみの入った袋を持ち上げつつ、俺が持つペットボトルの詰まった袋に視線を注いだ。

「ええ、今日は紙ごみの収集日で間違いありませんよ。これは物置に置いておこうと思って」

「あ、そうでしたか! すみません、間違えたかと思ってしまって」

 艶やかな唇が微笑みの形に変わった。

「気にしないでください」


 前を向く一瞬、女性の見せた表情が煩わしい気持ちを生んだ。


 別に山ほどモテてきたわけではないけれど、分かりやすい目線というものはある。特に自分に自信がある女性に限って好意を隠さない。自分に好かれることが迷惑になるはずがないとどこかで思っているんじゃないだろうか。

 複雑な香水の香り、柔らかく波打つ髪、艶のある肌と、印象的に彩られた眼差し。

 全てが払いのけたくなるほど鼻につく。

 階段を下りきって、「それでは」と会釈すると、彼女は少し驚いてみせ、「はい、また」と、ふんわり花の香りが漂う笑みを残して出勤して行った。

 物置の鍵を開け、ペットボトルのゴミと紙ごみを入れ替える。

 ゴミを捨てて、さっきの女性との距離があるのを確認して歩き出した。


 思わず自分を笑った。

 全部勝手な思い込みだ。

 煩わしく思うのは目を奪われてしまう自分自身にだ。

 心が渇いていると自己中心的で驕った思考になるのかな。いや、これが俺の本性か。

 湿った空気に蓋をするような曇り空を見上げた。

 天気予報を見るのを忘れた。学校に折りたたみ傘を置いてはあるが、着くまでに降らないといいけど。



 あれも勘違いだったらよかった。



 突発的に襲ってくる胸の痛みに堪らず眉間に皺が寄る。まるで羞恥心に似て、頭皮や頬をざわざわとさせる。


 あれ以降、俺の心にはもう一人の俺が住みついている。

 いつまでもあの時のことをぐずぐずと考え続けている俺だ。

 あれとはもちろん、高瀬からの告白だ。


 二月の終わり、これまでの嘘の謝罪と、絵美の死について話そうと思って高瀬をコンビニの外で待ち伏せた。

 でも高瀬は様子をおかしくして、ついには泣きだしてしまった。距離を置くのは俺が関係してると言って。

 

 先生は俺の気持ちが分かってるの?


 あの言葉を告げられる前に、初めて高瀬から抱き返された腕の強さで分かった。

 触らないでと言われた意味も、距離を取る理由も。

 分からないふりをした俺に拒絶されたと受け取った高瀬は、腕の中で声を上げて泣いた。


 高瀬が声を上げるたび、しゃくりあげるたびに胸が痛んだ。

 分かっていると言いたかった。あのまま連れ去りたかった。俺の全部をあげたかった。俺も高瀬が欲しかった。

 そう思う一方で、俺の心には大人がいた。

 高瀬を散々利用してきたことを後悔している大人、寂しさに任せて教え子に邪な心を持ったことを責める大人、絵美をまだ思い出せてもいないのに正常な判断ができているわけがないと言う大人、高瀬はまだ未成年だと言う大人、高瀬はゲイで、俺はゲイじゃないと言う大人。


 そうして心の隅に追いやられた一人の俺が、ずっとあの日のことを後悔している。



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