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先生、おやすみなさい  作者: けもの
高校二年生
68/85

阿部くんの意図



 あれから俺と教頭先生で別々に阿部くんと面談をした。

 俺からは件の話題は出さず、学校生活や一年間の総括的な感想と、二年次への目標を訊ねた。


「引き続き勉強を頑張っていきたいです。後は、少し痩せようと思います」


 阿部君はそう言って頬を掻いた。

 普段の生活では孤立しているように見えるが、体育でペアを組む時などは、三笠くんを当然のように呼びつけていたということだった。

 三笠くんは年明けからは堂島くんと江田くんと行動を共にしていたけれど、三人グループということもあってか、その呼びつけに文句も言わず応じている。

 教頭先生の聞き取りでも、特別俺に対しての敵意はないと言ったそうだ。

 クラスで孤立している自覚もあるが、誰かと行動を共にするよりも、自分の都合で動ける今が心地がいいらしい。

 人の死に関わる話をああしてクラス全員の前で持ち出したことについては、「みんなも知りたいことだと思った」そうだ。

 俺がどういう気持ちになるかについても想像できていたようで、教頭先生は難しい顔をしたが、それはいい知らせだ。





「中屋先生」

「はい、阿部くん」

 あれから一週間後のホームルーム。

 教室の空気が一瞬で緊張し、阿部くんは立ち上がらずに言葉を続けた。

「先生はいつごろから次の奥さんを探すつもりがありますか」

「おい阿部! お前いい加減にしろよ!」

 椅子を鳴らして立ち上がった大木くんのところへ駆け寄った。

「落ち着いて」

 大木くんを座らせたものの、俺自身、向き合った阿部くんに近付いたらいいのか、離れていた方がいいのか判断が付かなかった。

 阿部くんの近くの生徒が絶句したように身を引いている。

 阿部くんのお父さんの仕事の都合がつかず、面談はまだ叶っていない。

 生徒達も普段通りにしていてくれていた。阿部くんも、今、この瞬間までは。

「どうしてそれが気になるの?」

 彼に何が起こってるんだろう。

 突然噴き出す間欠泉のように、静かな間があることが余計に言動を際立たせている。

「俺は気にならないけど、気になる人もいるのかなと思って」

 阿部くんの視線は真っすぐに俺を見ている。

「何言ってんだよ!」

 すぐ横で大木くんが吐き捨てるように言った。

「まだ分からないんだ、はっきり答えてあげられなくてごめんね」

「そうですか」

 阿部くんはまた急に興味が失せたように沈黙した。


 

「今回は強く注意をしました。もうしませんとは言いましたけどね」

 教頭先生がメガネを押し上げて手帳を開いた。

「教科担任の先生方にも意見を貰いましたが、特段目についたことはないと。授業妨害をするような生徒ではなかったですしね」

 学年主任の滝藤先生が首を振る。

 俺以外の人に対して、プライバシーを暴いたり傷つけるような言動が無かったのは良かったが、そうなると、やはり起因するのは俺なのではないだろうか。きっとこの二人もそう感じているだろう。

 高瀬の時も俺を目的にしていたんだとしたら……。

 心を守る肉壁が、ひと匙こそげ取られたような痛みを感じた。

「後はご両親と面談をして、家庭で何かないかを確認してみて、ですね」

「面談はいつ頃になるんでしょうか」

「来週の木曜の放課後に揃って来ていただけるようです」

「そうですか」

「他の生徒たちはどうですか」

「我慢してくれていますけど、不安そうではあります」

「中屋先生は?」

「私は大丈夫です」

 二人のメガネレンズが揃って光り、何だか心を見透かされたような気になったけれど、大丈夫という言葉に嘘はない。

 衝撃は衝撃だが、高瀬とのあの日のやり取りほどには俺の心を乱していなかった。それよりも、阿部くんの胸中が知りたかった。

「小学校からも気になる引継ぎは無かったですしね」

 結局来週の木曜日まで待つより他ないだろうということで、銘々席を立った。

 何か見落としていることはないんだろうか。


 

「私のせいかもしれないです」

 翌日の昼休み、阿部くんの件でと声を掛けてきた九重さんが、思い切ったようにそう言った。

「どうしてそう思うの?」

 九重さんは唇を閉じ、ほんのわずか躊躇ってから、「私が阿部くんに先生ことを調べさせたんだと思うんです」と告白した。

 させたと思う、という言葉には大いに疑問を感じた。

 させるという使役の助動詞が、思うが付くことで意図せず阿部くんの行動を誘導してしまったということになる。

「どういうことかな」

「私、先生に憧れてて」

 すっと背筋を伸ばした九重さんが、真っすぐこちらを見上げて言う。

「友達になりたいって言ってくれてたね」

「あれは、建前ってやつです」

「そうだったんだ。じゃあ憧れ、だね。それで?」

「まずはこれを返します」

 九重さんがポケットから見慣れたハンカチを取り出した。無くしていた高瀬から貰ったハンカチだった。

「九重さんが持ってたんだ」

 思いがけないところから思いがけないものが出てきて、胸が熱くなった。受け取ってよくよく眺める。

「先生が教室に忘れていったのを盗んだんです」

「おっと」

「すみませんでした」

 九重さんは頭を下げた。

「憧れの気持ちがやってしまったのかな」

「はい、多分」

 顔を上げた九重さんは、肩に乗ったポニーテールを手の甲でサッと後ろに叩いた。

「大切な物だったから失くしてちょっとショックだったんだけど、返ってきて嬉しいよ。それで、このハンカチが何か関係があるの?」

「これを持ってるのを阿部くんに見られて、先生が好きなのかって聞かれたんです。しょうがなく認めたら、じゃあ俺が先生を調べてやろうかって阿部くんが言ったんです」

「調べる」

「調べるってどうするのって聞いたら、SNSとかで先生の前の学校の生徒を当たれば、誰かは何かを教えてくれるって。そういうのは得意だからって言ってた。なんでって聞いたら、あいつの……じゃなかった、阿部くんの父親の浮気を母親が疑ってるらしくて、母親に言われて父親の身辺を調べたりしてるって言ったんです」

「え?」

 驚いた声が漏れてしまった。九重さんもそんな俺を見て頷いた。

「私もひいちゃって、浮気してる証拠はあるの? って聞いたら、無いけど母親は絶対そうだって言ってるって。証拠がないならそんなの言いがかりかもしれないじゃないですか、子どもにそんなことさせる母親がおかしいんじゃないのって言ったら、俺のママはおかしくないって怒り始めて、私、ママってのにもひいちゃって、調べてくれなくていいから話しかけないでって言って逃げたんです」

「なるほど」

「一週間くらい経って、話しかけないでって言ったからか、手紙を渡してきて、きっと先生のことだって思ったけど、読まずに阿部くんの目の前で破いて捨てました。それで、だから……ああやってみんなの前で言ったんじゃないかと思って」

「そうか」

「あのあと腹が立って、なんであんなことしたんだって怒ったんです。先生を傷付けないでよって、それで――」

 九重さんは表情を暗くして、摘まみあう自分の指先を見つめる。

「それで?」

「……気持ち悪いとか、デブとか言ったんです」

「それは、中々辛辣だったね」

「昨日のあれも、きっと私への当てつけです。本当にすみませんでした」

 もう一度頭を下げようとする九重さんを慌てて止めた。

「まだそれが理由かは分からないよ。でも、阿部くんに謝る機会を作ろうね」

「……はい」

 阿部くんは痩せようと思うと言ってたから、おそらく気にはしてるんだろう。


 九重さんと別れ、職員室に戻る道すがら、さっきの話を振り返る。

 確かに俺を調べるきっかけは九重さんにあったのかもしれない。でも阿部くんのお母さんがさせていることの方がどう考えても問題がある。これを父親の前で確認するのか?

 俺はおそらく自分がその場に居なくて済むだろうことに、無責任にもホッとしてしまった。


 それからの数日間をいささか緊張して過ごした。




 木曜日の放課後、俺は阿部くんと一緒に進路相談室に居た。

 隣の応接室では、阿部くんのご両親と教頭先生、学年主任の滝藤先生が面談をしている。

 声が所々漏れ聞こえるけれど、はっきりとは聞き取れない。

「滝藤先生の声が一番大きいね」

 俺が言うと、阿部くんは「うん」と静かに頷いた。

 今は一緒に高等部の部活動紹介の資料なんかを引っ張り出して、ぽつぽつと会話をしながら、向こうの話が終わるのを待っている状態だ。

 担任なのに関われないのは歯がゆいだろうと思ったのか、教頭先生がこの状況を指示した。


「九重さんからハンカチが返ってきたよ」

「ああ、あれちゃんと洗った方がいいよ、頬ずりしてたから」

 突然の真実に思わず項垂れたが、なんとか気を取り直して、「知っていることの全てを言わなくてもいいと思うよ」と言うと、「そっか」と阿部くんは眉を上げた。

 クラスでは普通に見えたけど、今は少しだけ元気が無いように見える。やっぱり家庭に気掛かりがあるのだろうか。

「何か、悩み事はある?」

「……別に」

「じゃあ、俺に聞きたいことは?」

 つぶらな目がチラッと俺に注目して、「何聞いてもいいの?」と窺う。

「いいよ」

 俺は居住いを正して阿部くんの質問に備えた。


「奥さんが死んじゃって悲しかった?」

「凄くね」

「一番悲しいことはなに?」

「彼女がこの世からいなくなってしまったことかな」

「お墓参りには行く?」

「命日には」

「事故の現場に行った?」

「行ってない、勇気が無くて」

 阿部くんは俺の黒目を追うようにじっと視線を合わせてきた。

「俺、行ったんだよ」

「え、事故現場に?」

「うん」

 さすがに身じろぎしてしまった。

「興味本位じゃないよ」

「じゃあなぜ?」

 阿部くんは机に置かれた資料の辺りで視線を彷徨わせ、少しの間黙った。

 どういった答えが来るのか想像もつかない。

 絵美の事故現場にまで?

 これをクラスで言っていたら、俺はどうフォローしていいか分からなかっただろう。


「図書館で事故の記事を見たけど、凄く小さかった。ただ事実だけが書いてあって、物足りなかった」

「物足りない?」

「俺のばあちゃんが死んだときもそうだった。訃報の欄に名前と年齢が書かれてるだけ。母さんも父さんも、母さんの兄弟とか親戚とか、友達とか近所の知り合いとか、みんな凄く泣いたのに、新聞にはただ名前と年齢が載ってるだけだった。大塚スエ、79」

 突然おばあさんが登場して、完全に予測は不可能になった。

 俺は基本的な聞く姿勢に立ち返ることにした。

「どんなおばあさんだったの?」

 俺の質問に、阿部くんは嬉しそうに身体を揺らした。

「ばあちゃんは物知りだった。そこら辺に咲く花とか虫、雲の名前とか、雨にもたくさん名前があるのを教えてくれた。世界情勢にも詳しかったから、一緒にニュースを見ると面白かった。あと山にも詳しかったな。ばあちゃんの父さんの影響だって言ってた。テレビに映った山がどこの山か一発で当てるんだ。それから星座にも詳しかった。自分はもう見えないからって俺が代わりに探して、よく一緒に空を見上げた」

「仲が良かったんだね、それにとっても物知りで素敵なおばあさんだ」

「うん。色々教わったけど全部じゃない。ばあちゃんが死んだとき、ばあちゃんの見てきた全てが消えたんだって思った。ばあちゃんの知識はほとんど何かの役に立つようなもんじゃなかったけど、でも役に立たない知識が人生を豊かにするって言ってた。昔は働くので精一杯だったけど、今自分が若い娘だったら、世界中の山に登ってやるのにっていつも言ってた」

 絵美のことが思い出された。

 準備されたリュック、集合時間の書かれたカレンダー、待ち遠しそうな鼻歌。

「俺の奥さんは、山登りが好きな人だったよ」

「そうなの?」

「完全なアウトドア派でね、釣りも好きだったし、ロッククライミングもしてた。山岳スキーをしに、ぴゅって海外に飛んで行っちゃう人だったんだ」

「へえ、ばあちゃんに会わせたかったな。先生も一緒に行ったの?」

「いいや、俺はインドア派。高いところも苦手だし、奥さんのお母さんとのんびり留守番してたよ」

「そうなん?」

 阿部くんが眉を寄せてくすくすと笑った。

「でも魚を捌くのは得意になったよ、山も人よりは詳しいと思う」

「登らないのに?」

「奥さんから話を聞くからね」

「ばあちゃんと一緒だ。ばあちゃんもお父さんに聞いた話だけで詳しくなったって言ってた」

 阿部くんが頬を盛り上がらせて、俺もつられて笑顔になった。


 絵美が死んで悲しいと初めて告げる相手が阿部くんだとは思わなかった。事故現場に行っていないということも。

「何でもない交差点だったって、奥さんのお父さんが言ってた。そうだった?」

 訊ねると阿部くんから笑顔が消え、何度か頷いて俺の質問を肯定した。

「全然そんなことがあったって感じはしなかった。新聞にあった通り、見通しのいい河川敷沿いの片側一車線道路」

 俺も何度か絵美と散歩に出掛けた場所だ。相変わらず記憶はぼんやりとしているけど。

「だから俺、花屋に行って花を買ったんだ」

「え?」

「白いガーベラを一本、押しボタンが付いてる電柱の下のところに置いた。そしたら急に先生の奥さんが生きてたんだって思えた。しゃがんで手を合わせたら、もっとその感覚がはっきりした。通り過ぎる人がなんとも言えない顔で見るんだ。車も速度を落としてさ、知らないおじいさんが話しかけてきて一緒に手を合わせてくれた。そうしてたら、なんでかは分かんないけど、ばあちゃんのことも思い出して――」

 ああ、なんでだろう。

「先生、泣いてるの?」

「なんでかな」

「俺のしたことが悲しかった?」

「ううん逆だよ、阿部くんが奥さんのことを感じてくれて嬉しいなって」

「ほんと? 怒られると思ったけど」

「そんなことない」

 俺はまだ行けてもいないのに、花を添えて手まで合わせてくれた。興味が強いとは思うけど、そんなことはどうでも良かった。

「人の死について考えてたの?」

 阿部くんは黙ってから、ゆっくり頭を左右に傾けた。

「死んだ後に残るものが少なすぎると思ったんだ。俺、先生の奥さんがいたことをみんなに知らせたかった。それでみんなの前で言った。そうしたら、みんなが先生を見た時に奥さんのことも感じられるんじゃないかって思った。それが奥さんの魂の慰め? になるんじゃないかって」

 俺が絵美の白いガーベラか。

「慰めが必要だと思った?」

 阿部くんはまたゆっくり首を傾げた。

「もうみんなばあちゃんの話はしない。仏壇に手は合わせるけどさ。忘れられるって、凄く寂しい気がしたんだ」

「……そうだね」

「でも勝手なことした。可哀想だって思われるのが辛くて先生は学校を変えたんだって、三笠に怒られた」

「三笠くんに?」

「うん……」

「いいんだ、大丈夫だよ」


 悪意なんてなかった。九重さんのためでもなかった。想像していた家庭の事情でもなかった。

 大好きだったおばあさんの死を乗り越えようとしていただけだった。たった一人で。

 俺はこれから阿部くんを見るたびに、博識なおばあさんのことを思い出すだろう。そしてそれが、大好きなおばあさんを亡くした阿部くんへの慰めになる。


 ポケットから高瀬のハンカチを取り出して目を拭った。頬に流れた涙にハンカチを押し当てると、阿部くんがあっという顔をした。

「九重もそうやってハンカチをほっぺたに押し当ててた」

 やっぱり言ってしまう阿部くんに笑ってしまった。


「お前はまだそんなことを言ってるのか!」


 突然声が上がって、二人で応接室に続くドアを見た。

 すりガラスの向こうからはっきりと聞こえたのは、滝藤先生の声でも教頭先生の声でもなかった。

「お父さん?」

 阿部くんは暗い顔でうんと頷いた。

 部屋を出た方がいいだろうか。この状況で両親の言い合いは聞かせたくない。

「ばあちゃんは」

 阿部くんが口を開いて、俺はハッとしてもう一度阿部くんに向き合った。

「なんだい?」

「ばあちゃんは、かあさんの方のばあちゃんだったんだけど、一昨年ばあちゃんが死んで、母さんはそこら辺から父さんの浮気を疑うようになったんだ」

「どうしてだろうね」

 阿部くんは、「んー」と声を漏らして爪で頬を掻いた。

「ばあちゃんは俺にはいいばあちゃんだったけど、母さんにはあんまりいいばあちゃんじゃなかったんだ」

「どういうこと?」

 阿部くんは皺の寄ったブレザーの裾を引っ張って、「支配的だった」と言った。

 返す言葉が出てこなかった。

「自分ができなかったことを母さんにやらせたいんだろうって母さんのお兄さんが言ってた。お兄さんたちには自由にさせるのに、昔から女の母さんにだけ、ばあちゃんはあれこれ言うんだって」

「あれこれ言うおばあさんがいなくなって、お母さんはどう変わった?」

「母さんは元から俺にあれこれ言ってた。ばあちゃんみたいに。だから、変わったのは心配性になったとこかな」

 隣の部屋からは阿部くんのお父さんの声が不明瞭ながら聞こえ続けている。それでも一方的ではなく、お母さんの声もぽつぽつと聞こえてはくる。

 二人の会話が長く続いて、教頭先生と滝藤先生は黙って二人のやり取りを聞いているようだった。

 すると阿部くんが立ちあがって、応接室の方へ向かった。

 どうするのかと見ていると、阿部くんはドアに背を向けて座り込んだ。

「何してるの?」

「ここなら聞こえる。先生も気になるでしょ」

 言われて少し躊躇ったが、自分も席を立って阿部くんの隣に座った。


 ドアを挟んだすぐそこで、二人は浮気の疑惑についての言い合いをしていた。

 お母さんが疑い、それをお父さんが馬鹿らしいと否定している。深刻そうなやり取りではなく、完全な痴話げんかで、正直目の前で聞くのは堪えられない内容だ。阿部くんの話はどこに行ってしまったんだ。きっと向こうで黙っている先生たちもそう思っているだろう。


「二人は家でよくこうなる?」

「まあ、たまにね」

「そうか、言い合いを聞くのは辛いね」

「ていうか、あれは前戯なんです」

「……なんだって?」

 耳を疑って阿部くんを覗き込んだ。

「ああやって喧嘩したあと、もの凄い声が聞こえてくる。アレの時の」

 俺は完全に言葉を失してしまった。

「先生ごめんなさい、みんなの前であんなこと言って」

 話題が阿部くんの両親のアレから自分への謝罪に移ったことに強い違和感を覚えたが、なんとか気持ちを切り替えた。

「どうして今謝るの?」

「苛ついてたんだ、俺も最近になってようやく母さんが変なことに気が付いた。それまではずっとあれが普通だと思ってた。九重に母親がおかしいって言われて、分かってたのにムカついた」

「お母さんはどう変わってる?」

「小さい頃食が細かった俺に、母さんは無理やりたくさん食べさせた。男は大きくてふくよかなのが一番かっこいいって言って。でもそれは母さんの好みなだけだった。このメタボ体系が安心感があって良いって。父さんが最近ダイエットに成功して痩せてきたのが気に入らないみたいで、浮気に違いないって言って俺にめちゃくちゃ食べさせるんだ。料理は上手いからつい食べすぎちゃって」

「なるほど」

「勉強も習い事も、食べるものも着る服も、遊ぶゲームだって全部母さんに決められてきた。でもたくさん与えられて幸せだと思ってた。ばあちゃんが死んで、急に父さんの浮気を疑い出して、俺のパソコンで調べてって。父さんはSNSなんてやってないし、多分浮気だってしてない。GPSアプリだってもう入れてあるんだよ? どうやって浮気するんだよ」

「それで阿部くんはどうしたの?」

「真面目にはやってなかった。必要だって言ってスマホを買ってもらって、SNSでここら辺の人たちのアカウントを眺めてた。それであの高瀬って人の動画も見つけたんだ。あの人怒ってた?」

 突然高瀬の名前を出されて、また情緒が揺れた。

「いいや、高瀬は怒ったりしないよ。でも、悲しい気持ちは思い出してしまったと思う」

「ごめんなさい」

「伝えておくよ」

 目を閉じて、なんとか高瀬へと引きずられそうになる気持ちを引き留める。

「お母さんの言動に違和感を覚えたのは、阿部くんが大人になってきてるってことだと思うよ。でも冷静にね、自分のためになってることもあるはず」

「勉強とか?」

「習い事は全部辛い?」

「楽しいのもある」

「好きな服もあるだろ?」

「まあ、そうかもしんない」

「ちょうどそういう時期だよ、自分の好きな物を見つけていこう。好みは年を取るたび変わっていく。違うと思ったら止めたらいい」

「母さんが許さなかったら?」

「許さない時お母さんはどうするの? 叩いたり、嫌な言葉を言ってきたりする?」

「ううん、延々と諭される」

「そうか、思春期には自分のことは自分で決めたくなるものだって言って、それでも話が終わらなかったら、お父さんに連絡して代わってもらって」

「夜が騒がしくなるのも嫌だ」

 俺はまた目を瞑って、阿部くんの両親のアレを頭から追い出した。

「ひと先ず百均で耳栓を買って、お母さんとの関係も含めて、スクールカウンセラーの先生に相談してみようか」

「わかった」

 



 パフォーマンス的ではあったけど、みんなに阿部くんとのことが解決したと報告した。

 悩み事があったんだよねと阿部くんに言うと、阿部くんは頷いた。


「みんな一年間よく頑張ったね。成長期はまだまだこれからも続きます。思い通りにいかずにイライラしたり、好きだったことが嫌になったり、訳もなく不安になったりもします。親や友達にも言いにくいことが出てくると思う。でも一人で抱え込まないで、それから――」

「先生、なんか締めくくってるみたいだけど、まだ三月があるよ」

 石川くんが両手に顎を乗せて言う。

「三月なんてないようなもんだよ」

 言うと石川くんは笑ったけど、「俺の誕生日! 三月八日!」「私も三月十五日!」

 三月生まれからクレームが来て、俺はごめんと謝った。

「まだ三月があります、心配事があったら、いつでも相談してください」

「はーい」

 みんなの返事を聞いて、二月最後の朝のホームルームを終えた。



 言わなきゃいけない、自分から。

 他の人から告げられるのではだめだ。俺から高瀬に絵美の死を伝えなくては。


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