高瀬のこと
ゲイだと告白した高瀬は、寂しそうに笑った。
今年に入ってから高瀬の様子がおかしかった。
どことなく憂鬱。
二年の初めのうちもそうだったけど、理由が明白だった。でも付き合いが長くなるにつれ、その憂鬱は高瀬の特性なんだと分かった。
気の置けない仲だと思える日もあれば、不意に一人になりたがる。
俺は去年の十一月にその答えを見つけたつもりだったけど、確証があるわけじゃなかったし、勝手な想像を膨らませなかった。
二月に入るとさらに心配になった。
高瀬が突然SNSの設定を変えて、お菓子作りを始めたからだ。
落ちているように見えたテンションが元に戻って、さらにギアを上げたみたいだった。
バイトの合間を埋めるように料理やお菓子の写真がアップされて、どれも手が込んでいた。
バレンタインには大量のクッキーを焼いてきて、白と黒のチェス盤みたいなクッキーをみんなが喜んで食べた。
高瀬は珍しくスマホを眺めて嬉しそうにしていたけど、俺は眉間に皺が寄った。なんでかって、落ち込んだ時の母さんと行動が全く同じだったからだ。
急に家中の掃除を始めたり、手の込んだ料理を作ったり、新しい趣味を始めたら、それは母さんになにかがあった時だと家族全員が知っている。
自分ではどうすることもできないような出来事が起こると、母さんはそういう行動に出る。
やるせなさを人に迷惑のかからない方法で発散する母さんを尊敬するし、高瀬のことはますます気に掛かった。
理由は同じじゃないかもと思いつつ、そういう時の母さんと同じように、ふとした瞬間、高瀬はひどく静かになった。
水の中に沈んでるみたいに輪郭が曖昧に揺らいで、纏う空気がひんやりとしている。
息を顰めてじっと時が過ぎるのを待っている。
一体なにをやり過ごそうとしているんだ?
なにも分からない俺は、何度か直接手で高瀬の存在を確認した。触れられて不思議そうな顔の高瀬に、「なんでもない」と言い訳をして。
色恋に楽しそうな熊田や菊池を高瀬とからかうこともできず、高瀬の異変を誰かと共有することもできない。
一人で心配を持て余した俺は、段々怖いような気持ちになった。
簡単に悪い予感に結び付いてしまうくらいには、『憂鬱な高瀬』が蓄積していた。
思い切って訊ねてみようかと迷ったけど、言ってくれないような気がして聞けなかった。
実のところ、佳純ちゃんに好きだと言われた時、俺は高瀬のことを考えていた。それで、じっと見つめてくる彼女の言葉の意味を遅れて理解して、取り繕うみたいにキスをした。それで、すぐに後悔した。
さくらとした時みたいな湧き上がる感動は来なかったし、それよりも自分がこんな的外れなことをしている間に、高瀬がどこかへ消えてしまうんじゃないかと意味のわからない不安に駆られた。
「ゲイって、いつ自覚したんだ?」
高瀬はカレーパンの入っていた袋を指先で撫でつけながら、幾つかの言葉を飲み込んで、口を開いた。
「中学の時に親友を好きになった。でもそんなこと信じたくなくて、自分が怖くなった。野頭高校から特待は来たけど、男子校にはいける気がしなかった。結局サッカーも、チームメイトに触れるのが怖くて辞めた」
特待を受ける程の才能がこんな風に閉じてしまったことに、いきなり胸が詰まった。
高瀬は袋を指先で一度、二度と結びながら、表情を変えずに続ける。
「高校では普通でいようって決めて、そしたらあんなことになった。俺がゲイだって言えてたら起こらなかったんじゃないかって考えたり、でもそんな勇気は無かったし、どうやって生きればいいのか分からなくなった。親とも上手く会話ができなくなって、夜は全然眠れなくて、頻繁に夜中に近所をふらふらしてた。そしたら先生に会ったんだ」
「先生に?」
視線を漂わせていた表情がほんの少し笑顔に変わった。
「真夜中の公園。星が綺麗で、散った桜が風で舞ってた。俺はブランコに座ってて、気が付いたらすぐそこに先生が立ってた。凄く不思議な感覚だった。でも久しぶりに先生に会えたのが嬉しくて、そこで初めて人にゲイなんだって言えた」
一年の終わりの春休み。
そこから先生は高瀬の話を聞いてやっていたのか。でもそれまでは一人で抱えていたってことだ。
バレンタインのあれは、やっぱりただの女子同士のいざこざだった。高瀬はあの二人を弄んだりしていない。それなのに嘘ばかり噂されて、どんなに辛かったろう。
良くない噂が落ち着いてからも、みんなが不思議がってた。頭もいいし運動もできる。女子にももてて、なのになんであんなに憂鬱そうなんだって。
「理想が高いんだろうとか、実は恋人がいるんだろうとか、ああいう風に言われるのも嫌だったよな」
きっともっと居心地の悪いことはあったはずだ。女子の好みはどっちなんて言って、ありがちな二択を男子みんなで挙手し合ったりした。もちろん内容は次第にエスカレートしていって、胸かお尻かなんて質問ばかりになった。
高瀬はあの時も困った顔をして、どっちでもいいかななんて言ってた気がする。
「気にしてないよ、田中も気にしないでいいんだよ」
「でも嫌だったろ?」
「みんながしたい話をしていいんだよ。これから田中に気を遣われたら、それの方が気になる」
高瀬が笑顔を作った。
本当にそうか? 嫌だったって先生に相談しなかったか?
そう聞きたいけど、聞かない方がいい。
「先生とはよく会ってるのか?」
「大抵はメールとか電話で。家が割と近いみたいで、バイトを始めてからは、うちのコンビニに時々来てくれた」
「そっか、仲良いいんだな!」
「うん」
自分の笑顔が間違いに思えるほど、高瀬の返事は小さかった。
理由は明かされたのに、まだ噛み合わない感じがするのはなんでだろう。
ゲイが言いたくなかったことだとして、話したいことっていうのはなんだ?
気になることが次々溢れてくるけど、どれを聞いたらいいのか、聞いてもいいのかがうまく判別できない。
「実はさ、今日も会おうって誘われてたんだ。佳純ちゃんに」
「そうなの?」
「でもみんなでボーリングに行って、もし時間が余ったら高瀬と話したいと思って断った」
「どうして?」
不思議そうに窺い見られ、俺は笑顔を見せてやるしかない。
「高瀬、冬休みが明けてからずっと変だったからさ。特に、二月に入ってからは」
「そうかな」
視線を落とした高瀬の顔には、やっぱり影が落ちた。
「さっき、どうして泣いた?」
「……」
高瀬の気持ちが変わる瞬間を見逃さないように、じっと表情を窺う。
知りたい気持ちはある。受け止めてやれるとも思う。ただ、俺に話したことを後悔してほしくないし、上手くリアクション出来ているのかは自信がない。
「先生と……友達じゃなくなっちゃったんだ」
「え、なんで」
「俺が、好きになっちゃったから」
「え……」
言葉に詰まった俺を見て、高瀬はまた寂しそうに笑った。
「先生に……言ったのか?」
「まさか、そんなこと言えるわけない。先生には奥さんがいる」
そうだった、先生は結婚してた。
「報われない恋ってやつか」
初めて口にした言葉の響きがきざったらしくて、言ったことを激しく後悔した。
高瀬はそんな俺を見て小さく笑った。
「好きになってもしょうがないのにね。それでちょっと、落ち込んでただけだよ。そのうち元気になるから大丈夫」
笑顔には無理が見えたけど、無理を見せてくれるってことが今までとの違いなのかな。
叶わない人を好きになったから落ち込んでるのか。まあそれは確かに辛い。全然状況は違うけど、ちょっとだけなら理解出来る。
「好きって言ってないってことは、関係は今まで通りなのか?」
「ううん、距離を取ってる。俺はもう大丈夫だから、家庭を大事にしてって言った」
「え……」
胸がぺしゃっと押しつぶされた。
だって全然大丈夫じゃない。ずっとおかしかった。
高瀬は俯く俺を見てクスクス笑った。
「ありがとう、心配してくれて」
「俺に言ったこと後悔してないか?」
「ううん、初めて先生のこと話せて、少し楽になれた」
「なら良かった。なんでも言えよ? 本当にずっと変だったんだからな、お前」
「そうなんだ」
高瀬は照れたような顔で肩を竦めた。
「俺はどうしてやったらいい?」
こんなことを本人に聞くのが間違っているのは分かってるけど、あの先生がいないって言うなら、できるだけ早く代わりになってやらなくちゃ、憂鬱な高瀬はいなくならない。
「こうして話してくれてるだけで充分だよ」
「話してって――」
そんなことでいいのかよと言いそうになって、今まではそんなこともできなかったんだと気が付いた。
高瀬が学校で一人になっていた時、先生ならそばにいてやれたんだ。そんな先生を好きになって、そしたら距離を取らなきゃいけなくなって。なんだよそれ。どうすりゃいいんだよ。
男はそこいらじゅうにいるのに、ほとんどの男はゲイじゃない。ゲイってどこにいるんだ?
高瀬がそうだったんだから俺が気が付かないだけで前にも会ったことがあるのかもしれないけど、そうかもしれないと思える人は一人も浮かばなかった。
「変なこと聞くけど、どうやって出会うんだ?」
高瀬が不思議そうに俺を見た。でも直ぐに言葉の意味を理解したらしく、首を竦めた。
「分かんない。そういう気にもなれないんだ。初対面の人に、たとえ相手もそうだからってゲイとして会う勇気が俺にはない」
「確かに、よく知りもしない人だもんな」
うんうんと納得して、俺は唐突に、まだ深く知りもしない佳純ちゃんにキスをした自分を恥じた。
「あのさ、全然話逸れるけど、俺、佳純ちゃんとは付き合わない」
「なんで?」
「キスしたけど、ピンとこなかった」
高瀬は妙な顔をした。
「それって……」
「分かってる、最低だよな。なんて言ったらいいんだろってずっと思ってる」
高瀬に倣ってパンの袋を結びながら、あまりダメージのない言葉を探してみるけど、どれも自分の印象を守るための言葉ばかりになって嫌になる。でも今も、あの子のことより高瀬の方が心配だ。
「一緒に映画見て、そういう雰囲気になってキスするなんて、凄く素敵なのに」
高瀬の表情を見て、俺はまた酷く後悔した。
「手を繋いで帰ったり、そのままファミレスに寄り道したり、学校祭一緒に回って写真撮ったり、花火見たり。いいよねそういうの」
チャンスなんて一度もなかったよ。
そういうことか。高瀬はそもそもそんなことができるとも思ってないのか。
羨ましいと言うこともなかった。そうしたら俺たちは、「じゃあ付き合ってみれば」なんて言っただろう。
「田中?」
高瀬に呼ばれて、涙が出ているのに気が付いた。
「手繋ぎ以外は俺とやったろ」
指先で涙を拭って言うと、驚いた顔だった高瀬は声を上げて笑った。
「そうだね、でも学校祭は菊池と回ったよ」
「そうだった!」
高瀬がティッシュボックスを置いてくれて、それで涙と鼻を拭った。
「先生のこと、忘れられんの?」
「うん。大丈夫」
高瀬はほんのりと笑って、結ばれて丸まった二つのビニール袋に視線を落とした。
嘘だと分かったけど、その嘘を責めることはできない。
どうしようもないことだと分かってる。でも可哀想だと思ってしまった。
ちゃんと女の子にモテるのに、高瀬は彼女たちに興味がなくて、ありのままの高瀬をあんなにも楽しそうにしてやれる人は好きになってはいけなくて、普通に生活していては出会うこともできない。
俺なんかはまだ別れた元カノに未練があるくせに、勇気が無くて連絡もしない。ほとんど諦めているし、好きでもない子に好きだって言われてキスをした。
人生こんなこともあるだろうなんて思って、照れもせず話した自分を殴りたい。
「親には?」
「まだ言ってない。あ、小塚先輩は知ってる」
「え? そうだったんだ。じゃあなんで……」
言い掛けて思いとどまった。
フットサルを辞めたとき、高瀬は『合わない人が居た』としか言わなかった。バイト話が盛り上がって、結局そのまま詳しくは聞かなかった。
「うん。社会人の人でね、凄く距離感が近い人が居て、俺が耐えられなかったんだ。それで、辞めたいって言うときに話した」
「そっか」
高瀬の表情を読もうとするものの、それがどういう感情に傾く話なのか分からない。
小塚先輩は今も会えば手を上げて挨拶してくれていたはずだけど。
「小塚先輩ね、俺の志望と同じ大学なんだって」
「そうなんだ」
「うん。それで、その話と一緒に、俺の苦手な人が春に転勤になるって教えてくれて、その人が行っちゃったら、またフットサルに戻っておいでって誘ってくれたんだ」
高瀬の顔が嬉しそうに変わって、知らず膨らんでいた筋肉がほっと緩んだ。
「そっか、待ち遠しいな!」
「うん!」
球技大会でも活躍してたけど、フットサルでの高瀬は明らかにレベルが違った。生き生きとして見えたし、格好良かった。
「また試合見に行くよ!」
俺が言うと、嬉しそうだった表情がまたふつっと消えてしまった。俺はまた混乱した。
なんだよ、どうしたんだ。
何が原因か全く予想ができない。答えは貰ったはずなのに。
「見に……行かない方がいいか?」
窺う俺に、高瀬はハッと表情を変え、慌てて首を振った。
「ううん、そうじゃないよ! 来てよ! ばんばんゴール決めるからさ!」
また笑顔が戻ってホッとした。
ホッとはしたけど、噛み合ったとは言えない気がする。
しょうがないのかな。本当の高瀬を知って、俺はまだ三十分。先生は――。
「それにしても、先生は何でそんな時間に公園にいたんだろうな」
「え?」
驚く高瀬に、俺は芸もなく笑った。
「真夜中だろ? なんかちょっと運命的だ」
「…………」
おい待て俺、諦めなきゃって言ってるのに、運命的は良くなかったんじゃないか? でもあの事件の後の高瀬を救ってくれたって考えたら、絶対に運命的な再会だし……。
俺は頭を抱えたくなるのをただじっと耐えた。
理由は何にせよ、先生はこの一年、高瀬の支えになってやってたんだ。
そんな人を失うってどれくらい悲しいんだろう。しかも好きになったせいで。
今、先生は何を考えているんだろうな。もう大丈夫なんて言葉を本当に信じたのかな。




