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先生、おやすみなさい  作者: けもの
高校二年生
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阿部くんの悪意



「明日はバレンタインだけど、学校にお菓子を持って来てはいけません」

 黒板の日付を明日のバレンタインに書き換えながら注意事項を周知した。

「あー残念だなー貰えないのは校則のせいかー」

 窓際の一番前の席で土屋くんが大げさに嘆いて、教室に笑いが起こった。

「先生に渡すにはどうすればいいですか?」

 九重さんの声だと思って、振り返って教師の決まり事を伝える。

「先生は、生徒や親御さんから物を貰うのは禁止されています」

 九重さんはもちろん分かっていたようで、つんと澄まして見せてから、近くの斉藤さんとくすくす笑い合った。

「なんだよ九重、本命チョコ?」

 隣の大木くんがからかって、九重さんは、「友チョコだもん」とそっぽを向いた。

「先生は彼女から貰うの?」

 大木くんが九重さんを悪戯な目で見ながら声を張った。

「そりゃ貰えるよ、いればね」

「いないのかよ!」

 大木くんが大げさに机を叩いて、またみんなが笑った。

「最近は友チョコなんてものがあるんだもんね、楽しいね」

 いつ頃からそんな風習が加わったんだろうと考えていると、ふいに絵美から最後に貰ったバルーン付きのトリュフチョコレートを思い出した。

 小さなパッケージが、バルーンに吊られてふわふわと浮かび上がる。

「先生って友達はいるの?」

 教卓の、すぐ前の席の石川くんが、黒縁メガネの向こうから見上げてくる。

「いるよ。相手が友達と思ってくれてるかは確かめたことないけど」

「そういうの独りよがりって言うんだよ」

「ええっ?!」

 みんなは笑ったけれど、今の俺には中々切れ味のいい指摘だった。

 別段これといった知らせもなく、後はチャイムを待つだけの和やかな帰りのホームルーム。見渡してみても、早く終わらないかと気もそぞろな生徒はいるが、憂鬱そうな表情はみとめられない。

 いわゆる中一ギャップというものにも大きく躓くことなく、もうすぐみんな二年生になる。

 でも恐らく、俺には見つけることができない何かが彼らの中にもあるんだろう。俺はまたそれに気付くことができないまま、ただ彼らの人生を通り過ぎていく。無力な心地だ。


「先生」


 手を上げたのは、廊下側から二列目の一番後ろに座る阿部くんだった。

 阿部くんは去年の演奏会でのことがあって、しばらくは難しい態度だったけれど、冬休み明けには元に戻ってくれた。

「はい、阿部くん」

 名前を呼ばれた阿部くんは、秋口から急にふくよかになった身体で、よいしょとわざわざ席を立ってみんなの注目を集めた。


「先生が結婚してたって本当ですか」


 明瞭な一声が俺の息を止め、和やかだったクラスを静寂させた。

 そして一拍ののち、クラス中はざわめきに包まれた。

 清々しいほど堂々とした不意打ちだ。

 目を丸くした生徒が一人ずつ阿部くんからこちらへ視線を戻し、恐る恐る俺の表情を窺っている。

 そんなみんなの一番後方で、阿部くんは立ったまま口角を上げて俺を真っすぐ見ている。

「本当だよ」

 答えるとまたクラス中がどよめいた。

「え、でも結婚してないって……」

「嘘?」

「離婚したってことじゃない?」

 ひそひそと言葉が交わされ合う。

 別に隠そうと思っていたわけではない、それならもっと遠くに職場を移していた。こうして訊かれれば答える気持ちでいた。

 でも、あの阿部くんの表情は想定外だ。

 福々しい頬を盛り上がらせて、戸惑うクラスメイトを見渡す眼差しは、とても満足そうに見える。

 三つ前の席で、九重さんが俯いて暗い顔をしているのが目に留まった。

 松沢先生にからかわれたことを思い出し、一瞬、阿部くんから気を逸らした。その時――。


「じゃあ、先生の奥さんが死んじゃったのも本当ですか」


 阿部くんが続けた言葉で教室の空気が固まった。

 俺は堪らず深く肺を押しつぶした。

 ああ、これは良くない。阿部くんに言わせてはいけなかった。

「一昨年に、交通事故でね」

 俺の言葉で、また教室の空気が変わった。

 教師をしているとよく分かる。これだけの人数の感情がひとまとまりに揃う瞬間、聞いていなかった者や、みんなとは違う感想を持った者はよく目立つ。

 阿部くんも今、明らかに周りの生徒たちとは違った気配を放っている。そして、それを自分でもよく分かっているようだった。

 反りかえるほど胸を張った阿部くんは、なぜ秘密にしていたのか、なぜ前の学校を辞めたのかと声高に俺に訊ねた。俺は出来るだけ穏やかに、気を遣われたくなかったからだと答えたが、もうその時にはクラス中の視線が、阿部くんをおかしな人間を見る色に変わってしいた。よく阿部くんと行動を共にしていた三笠くんでさえ、恐ろしいような顔で阿部くんを見ている。

 そういえば、最近二人は一緒に行動していただろうか。


 帰りのチャイムが鳴って、唐突に阿部くんはドスッと音を立てて着席した。時間が来たからなのか、満足したからなのか、それさえも表情からは読み取れない。ただ、赤く染まった頬が艶やかに光っていて、とてもいい気分なのだと分かった。

 隣のクラスから号令が聞こえて、あっという間に放課後の開放的な空気が校内に溢れた。

 掃除のために机が下げられる音が地鳴りのように響いて、廊下を生徒達が楽し気に行き交う。

 うちのクラスだけが、空きテナントのように取り残された空気に包まれていた。

 俺はすっと息を吸ってみんなの注意を引いた。

「今の話は事実だよ。もちろん悲しい気持ちになることはまだあるけど、溌剌としたみんなの姿から毎日元気をもらってる。だから、明日からも変わらずにいてくれると嬉しい」

 生徒たちはあまり元気とは言えない表情のままだったが、俺は念を押すように頷いてみせ、日直に号令をお願いした。

 日直の佐々木さんの小さな号令が終わると、阿部くんは椅子を机に乗せ、鞄を掴んで教室を出て行ってしまった。

 みんなの視線が開け放たれた後方の出口に向いていた。


 机を引きずる振動を足の裏に感じながら、閉じた教務手帳に視線を置いて、このことをどう噛み砕いていこうかと心を眺めた。

「先生」

 視線を上げると、大木くんが教卓の向かいに立っている。

「うん?」

「ごめん、さっき彼女がどうとかからかって」

 聞いたこともないくらい小さな声の大木くんに、思わず身をかがめた。

「気にしなくていいんだよ」

「でも……」

 机を下げていた生徒たちが手を止めて、心配そうな顔で教卓に集まってきてしまった。

 繊細な時期の彼らの感情と行動がこうして統一される様には、強く純粋性を感じる。場違いにも感動してしまうほどだ。

「前の学校にいた時、忌引きが明けて戻ったクラスの生徒達がそんな顔をしてた。みんな元気いっぱいだったのに、凄く静かになってね、問題も起こさず黙々と勉強をして、成績もぐんぐん伸びた。天井に消しゴムを貼り付けて、先生なら届くでしょってからかってきてた生徒が、学年順位を四十番も上げた」

「すごい」

「すごいよね、でも申し訳なかった。色んな話をしてくれていたのに、それも聞かせてくれなくなって。とても寂しかったよ」

「それ、俺たちには今まで通りでいて欲しいってことだよね?」

 土屋くんに頷いた。

「人が亡くなるということについて考えるきっかけにはしてもいいけど、先生のことを心配する必要はない。そうしてくれる人はちゃんといる。家族とか、友達とかね」

 暗い表情の石川くんを見つけて笑って見せた。

「阿部はどうしてあんなこと言ったのかな」

 見ると、三笠くんが俯いていた。

「お前知ってたんじゃないのかよ」

 大木くんが言って、三笠くんは首をゆっくりと傾げた。

「先生の奥さんのことは知ってた。阿部がどっかで聞いてきたみたいで、図書館で新聞記事までチェックしに行ってた。……事故の」

 みんなの視線が三笠くんに向いていることを確認して、そっと深呼吸をする。

「は? こわ」

 高橋さんが顔をしかめて、三笠くんも頷いた。

「俺も怖いと思って、そういうの趣味が悪いと思うって言ったら、じゃあお前はもういいって言われた。でも俺の情報だから勝手に漏らすなよって言われて」

「なにそれ……」

「先生のことが嫌いなのかって聞いたら、別にって。小学生の時から自己中なところはあったんだ、目立ちたがりだったし。でも、今日みたいのは……酷すぎる」

 みんなの表情は幾つかあったが、どれも不可解で不快な方へ傾いていた。

 阿部くんの言動がみんなを統一させてしまった。あの時直ぐに自分から絵美の死について話すべきだった。

 阿部くんは注目を集めたかった? だとしても、こんな注目を目的にしていたとしたら、いささか破滅的だ。

「阿部くんとは先生が話してみるから、みんなは今まで通りでね」

「今まで通りって、難しくない?」

「うん、かなりひいたんだけど」

 統一された空気が、阿部くんを悪意のある人間だと断定しつつある。でもまだ原因は分からない。今はそれが悪化しないよう、ただ引き留めるための言葉を探すしかない。

「阿部くんの行動のきっかけは先生にあるのかもしれない。あるいはもっと別の、想像もできないようなことかも。みんなは苛々したり悲しかったりして、自分の言動を抑えられなかったことはない?」

 黙ってしまったみんなに、「俺はあるよ」と告げて、掃除を促して職員室へ戻った。


 色々と考えてしまう前に、演奏会の話も伝えてあった教頭先生と学年主任の滝藤先生に時間を取ってもらった。

 会議室で報告をしていると、松沢先生が会議室のドアを開けた。

 一緒に立っていたのは三笠くんだった。

「どうしたの?」

 教頭先生と、強面の滝藤先生までいたせいか、三笠くんは少し身を竦めながら俺のそばまで来ると、「余計なことかもしれないですけど」と声を潜めた。

「もし阿部の親に連絡を取るなら、父親の方がいいと思います」

「どうして?」

「言いにくいんですけど、阿部の母親は変わった人だから」

 後ろで教頭先生と滝藤先生が何か言葉を交わしたのが聞こえたが、何と言ったかは分からなかった。

「わかったよ、わざわざ伝えに来てくれてありがとう」

 報告を終えると、教頭先生が、今日の会議でこの件を上げてもいいかと確認を取った。了承すると、矛先が俺であることを理由に、この件は教頭先生と学年主任で引き取るということになった。俺は頷くしかなかった。


 絵美の死についてここで初めて先生方へ伝わることになって、初めから会議の空気を重たくしてしまったが、その日以降もあからさまな同情を向けられることはなかった。転職の事情を伝えてあった人事の人が、何か口添えてくれたのかもしれない。

 ただ、柳本先生のジムでのトレーニングメニューはより厳しく改定された。何故かは全く分からない。





 あれから阿部くんの態度が大きく変化することはなく、むしろ何も変わらないことが不気味ですらあった。

 クラスのみんなも変わらずいてくれたけれど、阿部くんの様子を確認する視線は俺の目にも明らかで、ただ、俺にとっても理解の範疇になくなってしまった彼を警戒する感覚が間違っているとは指摘できなかった。

 残り少ない三学期に大きな行事はないが、中学校生活はあと二年ある。クラスが別れてからでは彼の印象を再び変えることは難しいだろう。


 三笠くんの話を考慮したのか、面談は父親が同席できる日程で実施するらしい。

 懇談で話した阿部くんの母親は、口数の少ないおっとりとした人であった印象でしかない。

 子どもに熱心というほどではないが、習い事は多く、無関心でもない。

 父親は仕事が忙しくて、あまり阿部くんとは関われていないとは言っていた。


 教頭先生がどのような考えで父親同伴を決めたのかは明かされなかった。もちろん気にはなったけれど、引き取ると言われた以上、降りてくるまでこちらから求めるべきではないだろう。


 予期していたとおり、クラスの幾人かの保護者から直接教頭先生宛に電話があり、今回の阿部くんの言動や、俺の精神状態についての確認もあったようだった。

 数名の女子生徒がスクールカウンセラーを利用したようで、共感性の強い繊細な年頃の生徒には、いつも通りにということもストレスになってしまう。それを踏まえて、妻の死について先に伝えておいて欲しかったという声もあったそうだが、教頭先生は教師のプライバシーであるとして取り合わなかった。




 クラスに問題を抱えながらも自らが蚊帳の外にあるという状態は、俺を宙ぶらりんな気持ちにした。

 考えたいことが考えられないということは、一種暇を与えられたようなもので、そうなると頭に浮かぶのは高瀬のことになってしまう。


 あの日、高瀬に触れたことを咎められて以降、俺の心は幾つかの惑星に引き寄せられる星屑のように、暗い宙を流され続けていた。

 惑星はそれぞれの引力をもって俺を引き寄せては、心を極端な色に染め、俺はスイングバイで加速しながらまた次の惑星へと流されていく。


 結局、嘘が純粋に高瀬のためだったのはどの時点までだったんだろう。

 大切な存在だと感じたのは人恋しかったせいだったんだろうか。それとも戯れに考えていただけか。


 俺が触れたいと思った時、高瀬もそれを望んでいた。

 不安や寂しさや心細さから、寄り掛かりたいと目が訴えていた。でも高瀬はそれをしなかった。ちゃんと自分を引き留めて、身をわきまえていた。それで俺も、同じようにわきまえていた。

 俺は確かに安全な大人だった。高瀬にとって、そして自分にとっても。

 未だに高瀬との最適な関係が見つけられない。

 大人と子どもはもうそろそろ適用されない。教師と生徒でなくなって二年が経つ。

『友達だというには違和感がある』

 俺もそう思うよ高瀬、なんでかな。


 あの夜、高瀬は初めてそうかもしれない相手に出会えて、不安もあっただろうに一人で相手を見定めに行った。でも、結局そうでなかったと分かって、きっと寂しくて俺に電話をしたはずだ。俺は励ましもせず危険だと咎めた。

 そうじゃなかった。そばにいると言ってやるべきだった。それなのに俺は、安全な大人として自分の身を守りながら、暗闇で試すように高瀬に触れた。


 嘘が露見した時、高瀬はそう思うのかな。


 違う、そんなつもりはなかった。

 妻の存在をゲイである高瀬を避けるために利用したわけじゃない。

 違う! そんな風に傷付ける可能性は考えてなかった!


 今年に入って、高瀬からもらったハンカチを一枚無くしてしまった。

 もう一枚も無くしてしまうんじゃないかと思うと、俺はそれを引き出しにしまいこんだ。



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