安全な大人
「本当にすみません、ご馳走になってしまって」
「いいって」
満腹になった俺と八島さんは再びコンビニまで戻ってきた。
八島さんはここから俺の家とは反対方向で、予想通り駅前の学生向けマンションの一つに部屋を借りているらしい。一階がドラッグストアの建物だそうだ。
俺は、「分かります」と答えたが、間取りや何階に住んでいるかまでは訊ねなかった。八島さんもそれ以上は語らなかった。
「あの、凄く楽しかったです!」
「本当?」
「はい!」
興味があった話以外にも、八島さんは話題が豊富で話すのが上手かった。次々と面白いエピソードが出てきて、俺はよく笑った。
「良かった、じゃあまた会える?」
軽く言われて考えた。
「友達でも、いいなら」
「友達かあ、どうしよっかなあ」
八島さんは腕を組んで、うーんと唸った。
「えっ、友達としてはつまらないですか?」
愕然とした俺に、八島さんは身を折って笑う。
「いやいや、逆だよ」
「逆」
「ちゃんと好きになりそうだからさ」
「ちゃんと、好きになりそうだから?」
「そ! 見た目も好みなのに、中身も気に入った!」
困ったように微笑まれて、自然と背筋が伸びてしまった。
やばい、もう一押しされたら、なんかわかんないけどやばい。
どうしよう。俺この人を抱けるかな? いやいや無理だ、どうしていいかも分からない。
「好意はとても嬉しいんですけど」
「やっぱ男じゃダメかー」
カラッとした言葉に酷く傷ついてしまった。
そんなこと言わないで、男がいいんです。ただ俺はあなたと同じなので。
もう自分もそうだと言ってしまおうか。こんなに色々話してくれたんだから、こちらも隠さず話すべきな気がしてくる。でも俺はこの人を抱くことはできないし、まだ一度食事をしただけだ。
「……すみません。食事代まで出してもらっておいて」
「いや、そこに下心はないから! 声かけた俺が出すんでいいんだよ。年上だしね」
「でも」
「いいよいいよそんな気を遣わなくて。無理なものは無理でいいんだよ。そのままでさ」
耳慣れた言葉に心が取られた。
視線を上げた先で、八島さんが笑っている。
「君、なんだか自分に自信が無いみたいだけどさ、そのままで充分いい男だよ」
ポケットに両手を突っ込んで、僅か数時間ですっかり見慣れた笑顔が、今まで俺を散々励ましてくれた言葉をくれる。
驚きと、少し感動している。
「って、男に言われてもピンとこないよな!」
眉を下げる八島さんにまた胸が痛んで、たくさん首を横に振った。
「また連絡するよ、もちろんくれてもいいけど!」
最後まで明るく言って、八島さんは横断歩道を渡って帰って行った。
どうしてか、少しだけやるせない気持ちがする。
自宅のようにふらっとコンビニに入り、時々シフトが合う大学生の松本さんに挨拶をする。
「お疲れ様です」
「あれーお疲れー、遊びに行くの?」
時刻は九時を過ぎたところだ。随分と喋ったな。
「遊んで帰ってきたんです。俺、高校生ですよ?」
松本さんは、「そうだった」と、へらっと笑った。
大学生はこれからが遊ぶ時間なんだなと思いながら、喉が渇いた気がして、スポーツドリンクを一本買った。
外に出て、星の無い夜空を見上げた。
キャップを捻ってごくごくと飲むと、疲れた喉に少し絡まる。
そのままで、か。
そう言ってくれたのは先生だけだった。
もし八島さんに抱きたいって言われてたら俺はどうしただろう。
いい人だと思った。一緒にいて楽しかったし、好みって言われても全然嫌じゃなかった。
でも、まだ先生が好きだ。
自立は少しずつ慣れてきたように思う。働いていると気が紛れたし、三年生になれば受験でさらに忙しくなる。
いずれ気持ちは諦めに飲み込まれて薄らいでいく。もう孝一を思い出すことも少なくなったし、思い出すときは彼女もセットだ。
一緒に過ごすことが大事だって先生は言ってた。
毎日を共有して、声を聞いて笑い合って、お互いの存在に感謝して、そうじゃないと──。
あの時、何かに気を取られた先生はその先を言わなかった。
飲み切ったペットボトルをリュックに入れ、ポケットからスマホを取り出して先生に電話を掛けた。
コール音を四回聞いて、耐えられずに切った。
吹いてきた風に背中を押され、自宅に向かおうとしたところで通知が鳴った。
『ごめん、バスに乗ってる』
前は毎日やり取りしてたのに、好きだと自覚した途端、ぐわっとくる感情が全身に沁みていく。
『なんでもない』
自分から連絡なんかして、何やってんだよ。
『何してるの?』
好きになってもしょうがない。八島さんみたいにカラッと好きと言ってさっさと振られてしまえればいいのに。俺は孝一の時と同じく、先生の友達という道を諦められない。
『コンビニの前でアクエリ飲んでる』
『待ってて、あと三つで着くよ』
「え」
足が勝手にバス停に向かっていた。
風に吹かれながら八分ほどその場で待った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
あーなんで今日の先生はこんなにかっこいいんだろ。
「先生髪切った?」
「今日ね、どうかな」
「かっこいい」
素直に言うと驚いた顔が返ってきて、すぐに笑顔に変わった。
「今日はいつもより少しだけ暖かく感じるね」
空を見上げた先生の首筋に目を奪われて、気まずい気持ちになる。
「そうだね」
「でもまだ風は寒いかな。帰るところ?」
頷くと、「じゃあ行こうか」と先生の靴が帰路へと向いた。
「やだ」
つい、言ってしまった。
「やだ?」
「だってすぐ分かれ道になっちゃうし」
先生は不思議そうな顔をして俺を見る。
「何かあった?」
俯いて先生を引き留める言葉を探す。
そうだ、抱えきれない時は連絡するって言ったんだった。今日はたくさんある。でもまずはこれからだ。
「男にナンパされた」
「はっ?!」
予想の五倍くらい驚いた先生に、心の中で噴き出した。
「な、ナンパってどこで」
「バイト中に番号渡されて」
「ええっ?!」
今まで一度も聞いたことがない声に、唇を噛んで耐えた。
「掛けてみたらご飯に誘われて、さっき行ってきたとこ」
「なんだって?!」
詰め寄られて我慢できずに笑ってしまった。先生は俺の肩を掴んでゆさゆさと揺すった。
「こら! 笑ってないでちゃんと話して!」
大げさに肩を揺さぶられ、「でも寒いし」と言うと、先生は腕時計を見た。
「時間はまだいいの?」
「うん」
「コーヒーをお願いします」
「コーヒーとミルクレープで」
「かしこまりました」
デザートを食べなかったと思ってケーキも頼むと、先生は俺をまじまじと見て、「ミルクレープ好きなの?」と聞いてきた。
肯定すると、先生はなんだかちょっと嬉しそうにした。
「さ、それで?」
背筋を伸ばして圧を掛けてくる先生は、前に一緒に行ったお店で買ったニットを着ていた。
やっぱり良く似合っているし、髪型も相まって凄くかっこいい。こんなに格好良くして今日は誰と会ってきたんだろう。
「それでって?」
俺が惚けると、先生は厳しい顔をして首を横に振った。
「レジ打ちしてたらさ、番号を渡された。君に興味があるって言われて」
先生はもう眉を寄せて唇をむっとしている。
「始めはどういう意味なのか分からなくて」
「お待たせいたしました」
コーヒーが二つとミルクレープがテーブルに置かれて、一度間が開く。
漂うコーヒーの香りを深く吸い込んだ。
「それで?」
続きを促す先生を待たせて、ゆっくりと一口飲む。
「悪戯かなとか、やっぱりそういう意味なのかなとか」
「うん」
「だとしたら、俺がそう見えたのかなとか」
先生の目が少し心配そうに変わる。
フォークでケーキを一口サイズにカットして、もちもちした生地を噛みながら、あの日の大混乱していた自分を思い出す。
「知らない人に声掛けられるなんて美容師にカットモデルに誘われた時くらいだなとか思って、凄く迷った。だから脳内先生に聞いたんだ」
「脳内先生?」
先生が分からない顔をするので、「俺の脳内の先生」と先生を指した。
「高瀬の頭に俺がいるの?」
「まあね」
だってそうじゃないとやってられない。
「それで、俺はなんて言ってた?」
「電話してどういう興味か聞くくらいは問題ないんじゃないって」
先生は呆れた顔をした。
「他にも色々言ってたよ? でも前向きになった方がいいと思って」
俺だって都合がいいのは分かってる。だって先生を好きになっちゃったんだ。それで少しやけになっていたのは言えない。
「掛けてみたんだ」
先生は三分の一ほど欠けたミルクレープに目を落とした。食べたいのかな。
「うん。そしたらフットサルで一緒だった鈴木さんの友達だった」
「そうなんだ」
あの時の俺のように、先生もなんだという顔をした。
「一度試合してる俺を見たことがあったんだって。でもそのあと俺は行かなくなって、そしたらコンビニにいたからって」
「なるほど」
「なんだそうだったんだって思って、じゃあどういう興味なんですか? って聞いたら」
「うん」
「その人普段は女の子が好きだけど、時々男の人もいける時があって、俺がタイプだったみたい」
先生の瞼が何度か瞬いた。
「結局、そういう意味だったんだ……」
「うん。こういうこと良くするんですかって聞いたら、ダメ元でって。拒否られることもあるけど、友達になったり、いけることもあるって言ってた」
「そ、そう」
先生が珍しく動揺している。漂う視線に落ち着きが無い。
俺はじろじろとその様子を観察しながら話を続けた。
「少し話してたら、ご飯食べに行こうよって言われた。手は出さないからって」
「信じられるって思えたの?」
俺は曖昧に頷いた。正直あの時点ではまあまあやけだったし、興味本位だった。
「昼間でいいし、お店も俺が決めていいよって言うから」
「それで今日?」
「バイト終わりにすぐそこの居酒屋で」
「どうだった?」
先生は早くこの話の終わりを知りたいようだった。
無事な俺が目の前にいるのに、前屈みで覗き込んでくる視線が心配してくれているんだと分かる。やっぱり嬉しい気持ちになるし、ついもっと心配させたくなってしまう。
「高瀬?」
呼ばれて、悪い考えを千切った。
「興味深い話がたくさんあったよ、いつどっちもって気付いたのか、とか」
「いつだって?」
「中二」
何かを考えるように、また先生は視線を彷徨わせた。
先生は日頃たくさんの変化する中学生に触れているはずだ。
目を離すと何をしているか分からないものだよ、と心の中で進言する。
「詳細を俺の口から言うことはできないけど」
「どうして?」
「いやらしすぎて」
首を竦める俺に、先生はまた唇をむっとさせた。
「男女のどこが好きなのかとか、将来はどっちと一緒になるのかとか、聞いたら何でも話してくれた。俺も相手が男だとは言わなかったけど、叶わない人を好きになったって話をした」
「うん」
チラっと先生を見てみたけど表情は変わらない。孝一のことだと思っているんだろう。思わずはーっと息を吐いて先生を驚かせた。
「凄く話し易い人だったよ、時々未知の世界過ぎてついていけなかったけど」
「経験が豊富なんだね」
「みたい」
そんな八島さんでも、男と付き合ったのは一度だけだった。それも一瞬。
女の子を幸せにする自信があると未来について語ったのに、男のことは腕の中で眠る安心感が捨てがたいと言った。
結婚できるわけでもない、子どもという責任が生まれるわけでもない。それでもそうなことは俺にはどうしようもないし、そうな人にでもある未来を少しでも見せてもらえるのかと勝手に期待していた。八島さんだってまだ大学生なのに。
「結局ゲイだって言わなかったの?」
「うん」
先生は何度かコーヒーを口にして、俺が最後のミルクレープを口に入れたのを見てから、「どうして?」と続けた。
「その人、八島さんって言うんだけど」
「うん」
「いい人だったし、話してて楽しかった。好みって言われて嫌な気はしなかった」
先生は黙ってカップを両手で包み込んでいる。
「でも八島さん言ったんだ」
「なんて?」
「可愛い女の子は大好きだけど、時々好みの男がいると抱かれたくなるって」
先生は俺を見たまま、考えるように黒目を左右に揺らした。
俺はそれを見ながら段々可笑しくなってきて、さっきむせ返ったことを思い出して笑いが漏れてしまった。
「高瀬に、抱かれたかったってこと?」
先生が言って、俺は堪らず噴き出した。
「そうみたい、それは俺には無理だから」
先生は何度か頷きながらも、どういう気持ちに着地したらいいのか分からないみたいだった。
俺はそれを見ながらくつくつ笑い続けた。
「出会うって難しいね」
「じゃあもうその人には会わないの?」
「友達としてならとは言った。向こうから連絡が来たらその時考えようかな」
でもなんとなく来ないような気がする。八島さんは俺を気に入ったみたいだったから。
叶わない相手と一緒にいるのは辛いことだ。楽しくて嬉しくて、だから辛い。
今の俺のような馬鹿な真似はしないような気がした。
まああの人なら簡単に友達モードにチェンジできるマインドを持っていそうな気もするけど。
「先生は何してきたの?」
「え?」
「今日」
急に水を向けられて先生は驚いた顔をした。
「髪を切って、その後は大学時代の友人と会ったよ」
「大人なのに解散が早いね」
「まあ、騒ぎたい年でもないしね」
家庭もあるしね。
「先生もナンパしたことある?」
食べ終えた皿をテーブルの端に置いて何でもないように聞いた。
え、と先生は声を漏らして、それから首を振った。
「ナンパはしなかったな、一目惚れはしないタチで」
「それ先生モード?」
俺が疑うと、「本当だよ」と笑った。
「大学生になったら遅くまで遊んだ?」
「まあ、そういうことはあったかな」
「女の人とも?」
俺は先生の目をじっと見つめた。
「時には」
「そのままそういう事になったりした?」
目が少し見開かれて、俺はその目を逸らさない。
先生は少しの間黙って、諦めたように目を伏せると、「時には」と言った。
胸が否応なく痛んだ。つったみたいにかなり痛い。でもこれでいい。積極的に傷付いて早く諦めないと。次に出会った人にちゃんと恋ができるように。俺に訪れるチャンスはかなり少ない。
「高校時代もなかなかだけど、大学生も相当鬱屈しそう」
頬に力を入れて無理やり笑った。
「八島さんみたいなメンタルになれたらいいんだけど」
ダメ元で好きだと言えるようになるには成功体験が必要だ。あの人はきっと初めての時に成功したからああやって何度でも前向きに挑めるんだ。俺みたいにおっかなびっくり生きている人間には真似できない。
「話は以上です。帰ろ」
俺が身支度を始めても、先生は黙ったままテーブルを見つめている。表情と眼差しが少し後悔しているように見える。さっき若い頃の成り行きのセックスについて肯定したからかな。
「そんな風にしてしまっても、上手くはいかなかった」
急に言われて、理解が追いつかなかった。
「え?」
「成り行きでそうなっても、それから付き合いが始まることは無かったよ」
「それ、俺を叱ってるの?」
先生の顔が、苦しそうに歪められて左右に揺れた。
「俺は誰かを叱れるような人間じゃない。誰のことも叱ったりしないよ」
やっぱり直ぐには理解できなかった。
でも次第に、ああそうかと頷けた。
先生はちゃんと成り行きでセックスをした人生なんだ。思春期に鬱屈していない人生だったんだ。
「でも、良かったでしょ?」
「え?」
「した時はさ」
先生は目を伏せてしまった。
鳩尾が酷く重たい。べちゃべちゃの泥が詰まっているみたいだ。
先生はそうじゃない。大人として俺のそばにいてくれるけど、理解はできないんだ。
そうだよね、だってこんなに優しくてかっこいいもんね。仕事をして、ちゃんと結婚までしてる。俺とは人生の流れが違う。乗ってる船が違う。
いつも大きな船の舳先から、俺のみすぼらしい船に安全な航路を指し示してくれている。
ストールをくれた意味が分かった気がした。
いい加減、自分の人生は自分で乗り越えなくちゃ。いつまでもこんなみすぼらしい船ではやっていけない。またこんなふうに話を聞いてもらったりして、先生にだって俺の人生がどうなるかなんて分かるわけないのに。
「ごめんなさい」
「今日は男の人に二回も奢ってもらったー」
浮かれたステップを踏む俺を先生が何とも言えない顔で見る。
少しふざけた気持ちがする。稀にこんな風になる。多分落ち込み過ぎないようにしてるんだと思う。
先生は変な足取りの俺を「心配だ」と言って家までついてきた。俺は断らなきゃいけないのをうっかり忘れていた。
「家の人はもう寝てるの?」
ひっそりと暗い家を先生が見上げる。
「今日、親は出かけてるんだ」
「え?」
「明日の昼過ぎまで帰ってこない」
リュックを下ろして鍵を探した。先生の視線が頬に刺さる。
「……高瀬は、いや……何でもない」
言いたいことは分かるよ先生。俺も少しはそういうことを考えたから。でも実際どうするつもりだったかって言われたら、どうだろう。
「自分でも分かんないよ」
内ポケットから鍵の付いたカラビナを取り出す。
カラビナって名前の響きが好きだ。あったかいところに住む鳥か魚の名前みたい。
「あの人がそうじゃなくてホッとした気もするし……うん、やっぱりホッとした」
臆病な自分を笑うと、心配そうな目が俺を見ている。いや理解できない者を見る目か。
「成り行きでそうなるなんて、俺には縁のないことだよ」
先生とは違う、八島さんとも。もし八島さんがそうだったとしても、きっとそんな勇気は出なかった。
八島さんにも自分からは連絡を入れないだろう。コンビニに来てくれた時は頑張って笑顔を返そうとは思うけど。
「これが家の鍵?」
答える間もなくカラビナが手から無くなった。先生は家の鍵を開けてドアを開くと、そこで俺を振り返った。
自分の家のドアを開けて立つ先生の姿を不思議な気持ちで眺めた。
俺を見る先生の目の色は、さっき俺を見つめた八島さんの目の色よりもずっと暗くて深い色をしている。
「先生?」
呼ぶと手が伸びて来て、腕を掴まれて中に引き込まれた。
暗い玄関に鍵の締まる音がして、自分の喉がこくっと鳴った。
鍵が置かれた音のあと、大きな影が一歩で俺を壁に追い詰めた。
「っ……」
すりガラスから入る微かな街灯の明かりを頼りに、すぐそこにある先生の表情を窺う。
心臓が縮こまったり飛び出そうになったりしている。
先生の右手が顔に触れて、驚いてその手にぎゅうっと頬を押し付けた。
「初めて会う男を家に入れようと思ったの?」
先生の声が今までで一番穏やかで低い。
「分かんない」
俺の声は消えそうなほど小さい。
「触れさせてもいいと思った?」
先生のもう片方の手が反対の頬を包んで、身体がぎゅうっと竦んだ。
耳が熱い。心臓が口から飛び出そうだ。
「たった一回、印象が良かったから?」
責められているのは分かった。凄く穏やかな口調で。
分かってる、分かってるよ。
悪い人ほど初対面では言葉巧みで印象もいいって言うよね、でもそんなの俺には見分けられないよ。
思い切って声を掛けた八島さんと、自分がゲイだってことを言わなかった俺はどっちが誠実?
親がいない日と重なって、心のどこかで成り行きでそうなる想像した俺は凄くいやらしい人間だよね。
でも俺たちは会話をしたよ? 楽しかったって言った。好きになりそうだって言ってくれた。そんな風に始まるのは普通なんじゃないの? つい成り行きに任せたらどうなるのか、みんなだって気になるんじゃないの? 好奇心は猫を殺すって言うけど、好奇心はワープもするんだよ。先生だってワープしたんでしょ? まあ、その先は無かったみたいだけど。
心が震えている。やっぱり俺はひとりぼっちみたいだ。
いっか、誰にも迷惑を掛けずに済むし。
「先生はそうされたことがあるんでしょ?」
先生の視線が下方へと落ちた。
いいな、この世のどこかに先生に成り行きで抱かれた人がいる。
どんな人が選ばれたの? 酔いと欲に任せた先生のセックスは良かった?
先生はどんな風にそんな雰囲気にするんだろう。どうやって服を脱ぐのかな。俺も先生のセットされた髪を乱してみたい。
俺もさ、ちょっと勇気を出したんだよ。先生とはワープできないからさ。
「その人は運が良かったね」
先生の視線が俺を捕まえる。
「分かってるよ、自分を大切にでしょ? でもあんまり説得力ないかな」
先生だったら俺も運が良かったのに。
ごめんね、全然脅しになってないよ。俺は先生が好きなんだ。先生は心配して叱ってくれてるのに、俺は先生に触れられて喜んでるんだよ。
意図に添えなくて、大変申し訳ない気持ちがするよ。
「馬鹿でごめんね」
「馬鹿だって言ってるんじゃない、心配なんだ」
「同じだと思うよ」
小さく笑って、悲しい顔を見上げる。
「でもさ、先生がしたくなるみたいに、俺だってされたくなるんだよ」
指が先生の唇に触れようと宙に浮いた。
ゼロに近い理性がその手をひっこめて、憂鬱な気持ちが胸のあたりを重たくさせる。
「……どんな風かは、知らないけど」
頬の手が俺の顔を上に向かせた。涙が溜まった俺の目を、先生の目が居た堪れないような色で見ている。
大きくてあったかい手。ドキドキするのに心の底から安心する。
キスされたい。抱き締められたい。先生の匂いを嗅いで、もっとその先もされたい。
俺の衝動を先生は知らない。だからこんな風に簡単に俺を苦しめるんだ。
「触らないで」
落ちた涙を見て、先生はショックを受けたような顔をした。
「俺に触んないで」
「高瀬……」
しがみつきたい。助けてって言いたい。一人になりたくない。先生の船に乗せてもらいたい。
「俺は先生には分かんない人間なんだよ」
どうして俺の手を握ったりしたの? 抱き締めたりしたの? あんなことが無かったら今も変わらずそばにいられたのに。
「先生と俺は違うからしょうがないんだ」
先生にはなんでもない触れ合いに、つい喜んじゃうんだよ。憧れてしまう、触れられるからつい。
そう、ついだ。
「そんなこと言うな」
俺に夢を見させないでよ。
「早く家に帰った方がいいよ、もう遅いし」
「一人にしたくない」
「俺が馬鹿だから心配?」
「大切だからだよ」
ほらね、やっぱり先生は分かってない。
「安全な場所にいるって思ってるんだよね?」
「安全?」
「年上で、先生で、奥さんがいる。俺にとって安全な大人」
先生の目がはっと開いたのを見て、俺の心は黒く染みた。
「帰って大丈夫だよ。俺は馬鹿だけど、度胸はないから何も心配ないよ」
「高瀬」
「大丈夫、一人で平気」




