良い報せ
孝一から連絡が来たのは、火事から一週間が過ぎた夕方の五時だった。
『大丈夫だったよ、心配かけてごめん』
バイトが始まる所だったけど、店長に事情を話すと「連絡しておいで」と言ってくれ、スマホを持って裏口から外に出た。
「もしもし、祐か」
「そうだよ。無事で良かった」
「ごめん、心配掛けた」
「うん、めちゃくちゃ心配した!」
食い気味に返した俺を孝一は笑い、「事故だったって判断されて、お咎めなしだった」と、ずっと明るい声が返ってきた。
「大会は?」
「出られる」
俺は隠しもせずにハッキリと安堵の声を上げた。孝一はまた笑っている。
「それで」
「うん?」
「何があった?」
少し間があって、孝一があの日を語った。
「来年、真結が高校生になったら離婚するって言われた。お金の心配はしなくていいけど、それぞれ新しい相手と暮らすから、真結は母さんの実家でおばあちゃんと暮らせって」
「え」
「真結は分かったそれで良いって言ったんだけど、俺は我慢できなかった」
俺は何も言えなくなって、スマホを持ったまま壁に寄り掛かった。
「真結は頑張ってる。吹奏楽の強い高校に行くって決めて、フルートだって自分の小遣いを貯めて個人レッスンに行ったりして」
さっき明るく笑っていた声が低く震えている。
声がところどころ掠れていた。でも泣き声では無かった。
まだ怒っているんだ。
孝一はもうずっと両親に怒っている。
「自分勝手で呆れる。まだ中学生の真結に、なんであんなことが言えるのかわからない。あの人たちはいつだって真結に関心を向けない。俺に任せきりで、なんでなのかも分からない。あの日だって、俺がキレても落ち着けって言うばっかで、腹が立ってテーブルを押したら、倒れたキャンドルが父さんのお酒のグラスにぶつかって火が付いた。あっという間にテーブルクロスが燃えて、床とラグと、あと色々、椅子とかが燃えてたけど、建物自体の耐火性能が良かったとかで燃え広がらなかった」
「うん」
いくらかの気持ちを整えるような間の後、孝一の声が落ち着いたトーンに変わった。
「警察の人は同情してくれたよ。今までのモヤモヤを全部話したら、返ってスッキリした」
「そうか、誰も怪我は無いんだよな?」
「ない。でも、真結にはすごく怒られた」
「え?」
「俺がそんなに両親が嫌いなのに、どうして私は構ってもらいたいと思うの? って。私だって今更構ってもらいたいなんて思ってないってさ」
「……」
中学に上がった真結ちゃんは、確かに小学生の頃よりもずっと明るかった。でも俺も、親が来ていないのを気にしてると思っていた。
「空気の悪い家から出られるし、自分の好きにできてむしろ嬉しいって。おばあちゃんも好きだし、俺がいればそれで良いってさ。私のためにあんなに怒って、警察にまで連れて行かれてバカじゃないの! だって」
掠れ声だった孝一が、くっくっと笑い出す。
俺も少し笑ったけど、きっと真結ちゃんはもの凄く心配しただろう。
「警察に何言われたんだか知らないけど、両親もようやく自分たちの状態が俺たちにどれだけ影響があったか自覚したみたい。今更だけどさ」
「うん。良かった」
「みんなに心配かけた。立花にも」
俺は幾つか言葉を浮かべてから、「大丈夫だよ」と励ました。
普段の孝一を見ている彼女なら、怪我をしていないかと心配はしても、孝一は悪くないと信じていたはずだ。
「本当に、みんな無事で良かったよ」
「うん。心配かけてごめんな、祐」
孝一はずっと明るくそう言った。そして、「親とのこと、ずっと気に掛けてくれてありがとう」とも。
「俺にとって祐は特別なんだ。中学の時から俺よりもずっと大人で、祐が親のことを心配してくれる度にホッとしてた。しんどいのを分かってくれてる祐がいるって思うと頑張れた。一番きつかった中学時代にさ、祐と並んで勉強してた時間が一番安心していられたんだ」
戸惑う俺に気付かずに、孝一は晴れ晴れとした様子で、「電話ありがとう! またかける!」と、通話が終わった。
電話を切ってから、何故だか涙が止まらなくなった。
そのまま店に戻ったら、店長と大学生の松本さんとお客さんを驚かせてしまった。
顔なじみのお客さんがコーヒーを奢ってくれて、店長が肉まんを持たせてくれ、松本さんにバックヤードに押し込まれた。
丸椅子に座って肉まんを齧り、あったかいコーヒーを飲んだ。
俺がもっとちゃんと友人として話を聞いてやれていたら、孝一の家は燃えてなかったかものしれない。
でも、離婚は止められなかったか。
あの時の俺には、孝一から離れることしかできなかった。それでもこうして友情は残っていて、あの頃の俺の精一杯の距離が、孝一にとっての唯一だったりする。
俺の何が誰の気持ちを動かしているのかは分からない。だから俺は俺であるしかないんだ。いつも先生が言ってくれてたみたいに。
◇◇
高瀬から孝一君の疑いが晴れたとメールが来た。怪我もなく、大会にも出られると。
それだけでなく、中学時代に高瀬の存在が孝一君の支えになっていたとお礼を言われたとあった。
後悔はあるけど嬉しかったと締めくくられていた。
高瀬の初恋が素晴らしい友情に着地したことは、俺にとっても胸にくるものがあった。
中学時代、俺は高瀬の幾つかの思春期の波間に登場して、高瀬の持ち寄る少ないヒントから想像力を働かせて会話をした。
俺との時間を息抜きに利用してくれていると思っていた。俺に話すことで自分の頭の中を整理しているように見えた。高瀬はいつも自分で答えを見つける生徒だった。
でも、あの夜に公園で再会して、俺は理解させられることになった。
いつも高瀬は俺の想像の及ばない範疇を生きている。
周りは高瀬の人生のいいヒントにはならない。俺の価値観だってそうだ。
高瀬は自分で答えを見つけるしかなかった。そうするしかないだけで、だから誰よりも心細く、不安で、何が正しいかなんて何も分かっていなかった。
大丈夫だと思わされていた自分に怒りを覚えた。
それを知ってからも、電話越しに泣かれる度に不安になった。本当に高瀬を支えてやれるのか自信も手応えもない。早く支えを増やしてやらなくてはいけない。けれど俺からカミングアウトを促すこともできない。それがどれ程怖いことかは、俺の想像力でも理解できる。
新年二日に、関係が途切れてしまわないよう電話を掛け、火事の現場へと向かった高瀬を追い掛けた。
あの日、高瀬の家の前でまた抱き締めたい衝動に襲われた。
不安気な瞳に身体が吸い寄せられそうだった。高瀬があと一歩でも動いていたら抱き締めていたと思う。
力いっぱい抱きしめて、大丈夫だと言ってやりたかった。でもそれは自分の欲望だと言い聞かせた。
孝一君の未来が奪われなくて本当に良かった。
二人の友情が無事で、本当によかった。
◇◇
冬休みが開けて、短い二年生が始まった。
春が来たら三年生は卒業だ。小塚先輩が卒業してしまう。
またねと言われてから出会うこともなく、このまま会わなくなるのかなと思ったら、なんだか気分が落ち込んだ。
「高瀬!」
昼休み、職員室を出た俺を呼んだのは小塚先輩だった。
俺はちょうど先輩を思って落ち込んでいたせいで、飛び上がって駆け寄った。
「こんにちは!」
「なんだよ、めちゃくちゃ元気そうだな」
飛び上がった俺を小塚先輩はしばらく笑った。
「声かけてくれて嬉しいです!」
「ほんと? 良かったー」
おいでおいでと誘う先輩に連れられて、本当の屋上に続く階段を初めて上まで上がった。
冬季は屋上が封鎖されているらしく、寒さもあって踊り場はひっそりとしていた。
「さ、高瀬」
小塚先輩は両手を広げた。
どう反応するのが正解か分からず立ち尽くしていると、先輩の両腕が俺をぎゅっと抱き込んだ。
「先輩?!」
直立で動けない俺の肩で、先輩が笑う。
「俺さ、高瀬と同じとこ受けてんだ」
「そうなんですか?!」
「そ、高瀬もまだ変えてないの?」
「はい!」
「学校の先生たちはさー、多分高瀬にはもっといいとこ受けて欲しいと思ってるだろうけど、俺は一緒だと嬉しい」
抱擁で感情はすでにピークだったけど、なんとか「俺も一緒がいいです!」と返した。
先輩の身体が離れ、人生二人目のハグが終了した。
俺をゲイだと知っている二人にハグをしてもらえた。何だが少し、いやかなり嬉しい。
小塚先輩もちょっと笑っていて、俺の両方のほっぺたをむにむにと摘まんでくる。
「あのさ、もうすぐ山下さんフットサル辞めるんだよ」
「え」
両手で顔がむにゅっと潰されて、俺はびっくりして目が丸くなった。
「転勤だって。新潟に行くらしいよ」
「しょれは……」
なんて言っていいか分からない。顔が潰されているせいで言葉も変になった。先輩は笑いをこらえてむずむずしている。
「まー嬉しいとは口が裂けても言えないけど、もし山下さんが辞めたら、高瀬が戻って来てくれたらいいなーって、俺はすごーく期待してる」
何も言えなかった。ただ小塚先輩の瞳を見つめた。
「嫌?」
俺は頬の先輩の両手をギュッと握りしめた。
「嫌じゃないです! 先輩とまたフットサルしたいです!」
「良かった! みんなも喜ぶよ!」
本当に? あんな風になにも言わずに辞めたのに。
「だからさ、待ってるから」
「……はい」
俺を待っててくれるんだ、先輩は俺とまたフットサルをしてくれる。嬉しい、凄く嬉しい。
「大学落ちたらごめん」
「駄目です。落ちないでください!」
嬉しくて、堪らず先生にメールを送ってしまった。
直ぐに返信が来て、先生も小塚先輩の合格を祈ってくれた。
『フットサルまた見に行けるかな』
『ゴール全部あげるね』
『楽しみだ』
俺の未来に小塚先輩がいる。そして先生もいると言ってくれて、やっぱり嬉しかった。




