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先生、おやすみなさい  作者: けもの
高校二年生
60/85

不穏な煙



 心臓が不安気に鳴っている。ノックをするようにとんとんとん。

 大丈夫? って聞かれているみたいだ。

 誰かが俺に聞いている。心をノックしながら、大丈夫? と。

 小塚先輩な気もするし、田中な気もする。母さんや父さんかもしれない。

 でもその気配の中に先生はいない。




 ドアがあった。

 天然木でつくられた、豪奢では無いが丁寧に作られた代物で、艶の美しい背の高いドアだった。

 ドアと言うよりも扉と言った方がしっくりくる気がする。たくさんの人が気軽に行き来するための内と外、あるいは部屋と部屋を隔てるそれではなく、その奥に何か大事な物か、大事な空間か、不特定多数の人間には気軽に見せられない何かがあるような、開けるには幾つかの手続きか、特別な鍵が必要そうな扉だった。

 俺はその扉に手で触れて撫でてみたり、耳を当ててみたり、木の匂いがしないか鼻を近づけてみたりした。

 何の匂いもしなくて、ただその扉の横に並んで座った。

 決してノックをしたりノブに手を掛けてみようとは思わなかった。そうしてはいけないと分かっていた。それでも扉の横にいるだけで気分が良かった。

 その奥に何があるかはわからないのに、向こうに何かがあるんだと思えるだけで良かった。あるいは扉が向こうから開くのを期待していた。

 壁にもたれて鼻歌を歌いながら指先をいじっていると、コンコンと軽い音がして、驚いて見上げると扉の前に女の人が立っていた。

 大人の女性だとするには幼く思えたが、俺よりも歳上で、学生という雰囲気ではなかった。

 そしてその人がまた扉をノックをした。

 心臓がドキドキし始めていた。

 どうして自分ができないことをこの人は簡単にしてしまえるんだろう。もしかしてこの人は扉を開ける権利を持っているのだろうか。

 そう思うと途端に羨ましくなった。

 この人は扉の中に何があるかを知っているようだった。それも俺の心の不快指数を上げた。

 応答の無い扉に、その人はしびれを切らしたようにノブに手を掛けてガチャガチャとやりはじめた。

 打ち付けられる指の骨が木を打つ音、音を立てるノブ。くり返し。

「や……やめてよ……」

 乾いた喉で掠れた声が言った。

 その人は俺には気がつかない様子で、何度も何度もノックしては乱暴にノブをまわした。まるで開かないのがおかしいみたいに。

 俺の心臓は全力疾走が終わった後みたいにバクバクと早鳴った。


「やめてよ……やめろってば……止めろっ!!」


 気が付くと力いっぱい突き飛ばしていた。よろけて自分も床に座り込んだ。


 視界の端で扉が開いていた。


 ハッと見上げると、先生が俺を見下ろしている。

 突き飛ばした女性は消えていて、俺はまた先生を見上げた。先生はもう俺を見ないまま、ゆっくりと扉が閉まっていく。

 俺は真っ暗な心で俯いて、ただ扉の閉まる音を聞いた。



 夢はちっとも予言めいていなかった。難しい比喩的な表現もなく、ただ真っ直ぐに俺の最低な心情をそのまま映像化していた。

 次にあの夢を見たら走って逃げよう。扉からできるだけ遠く。たとえそこが真っ暗闇だとしても俺は行かなくちゃいけない。

 平気だ。もともと俺はそんな道を歩いていたんだから。



 

 年が明け、年末に帰省していた母さんの実家のすぐそばにある神社でおみくじを引いていると、孝一からメッセージが来た。

 彼女と彼女の妹と真結ちゃんで神社に来たらしく、四人揃った写真が届いた。

 俺は少しだけスンとなったけど、あの孝一がこんな風に写真を送ってくるなんて相当幸せなんだろうなと思うと、祝ってやらないわけにはいかなかった。


『あけましておめでとう! 今年もいい年になりそうだな!』

『おう!』


 大吉を掲げた猫のスタンプ。素直なメッセージに笑うしかない。

 止せばいいのにスクロールして先生の名前を探す。

 クリスマスプレゼントを渡して以来、また連絡をしないまま一週間が経ち、新年を迎えた。

 例のツーショットのおかげで寂しさは紛れたけど、忘れなければならない好意には悪影響だった。

 完成していた居心地のいい関係が、好きという自覚によって継続不可能になってしまった。

 男女なら告白しようか迷ったりするんだろうな。都合のいい夢とか見たりしてさ。

 雪がちらつく灰色の空を見上げると、勝手にため息が出て行った。写真を見たい気持ちを耐えて、スマホをポケットにしまった。

 新年の挨拶をしなかったら、次にどんなきっかけがあるっていうんだろう。

 今日という日に縋りつきたい気持ちがしながら、積もることなく溶けていく雪を眺める。

 好きと言う感情にどんな熱を加えたら跡形もなく溶けてくれるんだろうな。


 おみくじは大吉で、恋愛は成就すると書いてあった。

 成就しちゃダメなんですよと申し上げて枝に結んだ。

「行くよー」

 振舞われていた甘酒を飲み終えた母さんに呼ばれて歩き出した。



 今年は母さんの方のおばあちゃんが体調が思わしくないと連絡が来て、新年をおばあちゃんの家迎えることになった。

 行ってみると同居している母さんのお兄さん一家がお嫁さんの実家に行っていることが分かって、母さんが妙な顔をした。

「はい、ゆう君」

 おばあちゃんがかわいいポチ袋をくれた。福々しい犬の絵が描いてあるけど、今年は戌年ではない。

「あらありがとうお母さん!」

 俺が言うより早く母さんが言い、お礼を繰り返す形になって少し解せない。

 ポチ袋は戌年だったけど、おばあちゃんはボケているわけではないし思ったよりも体調も良さそうだった。良さそう、というか変わりないというか……。

 いつも通り定位置に座っているおじいちゃんにもお礼を言いに行くと、おじいちゃんはおじいちゃんでポチ袋をくれた。

「え、もう貰ったよ?」

「これは俺からだ。バイト代でプレゼントまでくれて、かえってありがとうなあ」

 そう言って、「内緒だぞ」と俺のズボンのポケットにねじ込んでくれた。

 プレゼントなんていっても高いものではない。おばあちゃんには花の香りのハンドクリームのセットと、おじいちゃんには正月用にお酒を贈っただけなんだけど、二人とも思いの外感動してくれた。

「タケルの孫たちは金しかかからん」

 おじいちゃんは時々返答に困ることを言う。

 同居しているんだから、きっと日々の孝行はお兄さん一家の方がたくさんしているんじゃないのかな、なんて思うけど黙っておいた。



「母さん全然元気だったわね」

「亜希子さんが実家に帰りたかったんじゃないか」

 運転席の父さんが笑った。

 母さんも笑って、「そうかもねー」なんて言ってたけど、俺は後部座席でおばあちゃんの言葉にぶっ刺されていた。


「ゆう君もあっという間に立派になっちゃって、すぐにひ孫が見られそうだわぁ~」


「やだあ! まだ高校も一年残ってるのに!」

 母さんが食い気味に笑い飛ばしてくれて助かったけど、俺はしっかりと一瞬息が止まった。

 昼過ぎにお兄さん一家が返ってきて、見送りの場での一言だった。

「順番で行くと圭が先だぞ」と母さんのお兄さんが言って、「そういうの期待する時代じゃないと思う」といとこの美加ちゃんが目を細めた。


 この先、ああいう圧も来るんだな。

 ちょっと早いだろおばーちゃんって突っ込みたかったけど、喉が詰まってそんな言葉も出てこなかった。

 やっぱり両親には早めにカミングアウトをした方がいいのかもな。自分のためでもあるし、多分両親のためにもそうなんだろう。後は勇気があれば、あれば……。


「今年もアウトレットいくー?」

「祐希バイトなんだろ?」

「そうだったわね、五時?」

「うん。いいよ去年のまだ着られるし」

 ぶっ刺さってるし。

「間に合うわよ!」

「間に合うかあ?」

「四時十五分までに出れば間に合う!」

「母さんなんか欲しいもんあんのか」

「行けばある」

「じゃあ行くかあー」

 ああもういいって言ってるのに!!




 例年通りに電子マネーをチャージしてもらって人混みの中を三方に散った。

 まずはスニーカーを見に行った。そして去年同様おしゃれな店員さんが履いているモデルを手に取った。

 思ったより値段が高いと思って迷っていると声を掛けられた。

「それ、俺も今履いてるんですよ」

 ええ、貴方を見て買おうとしてるんですと顔を上げる。

「あ」

「え?」

 その人は去年デニム専門店で俺と甲田のやり取りを見ていた店員さんだった。

 間違いない。もはや卑猥な目的でお世話になった八重歯の記憶しかないけど、間違いなかった。

「去年は二階のデニムの店にいませんでした?」

 変に反応してしまったので正直に尋ねると、お兄さんは、「そう、移ったんだ」と急に砕けた口調になって、八重歯を見せて笑った。

 八重歯も笑顔も変わってない。でも今年はそこまでグッとは来なかった。好みが変わったのかな。

 甲田との事を思い出されたくもないし、特にそれ以上の会話は思いつきそうにないので、自分のサイズを出してもうことにした。

「椅子へどうぞ」

「ありがとうございます」

 履いてみると底がごつくてクッション性はいい気がする。

「トレイル向けなんですけど、ボリュームのあるスニーカーが流行ってるんで丁度いいと思いますよ」

「トレイル」

 思わず繰り返すと、「山なんて行かないって?」とお兄さんは笑った。

「まあ」

「俺も行かないけどね。ファッションなんてそんなもん」

 何度も笑顔を向けられると、少しだけあの時にハマった衝動の思い出を感じた。衝動ではなく、衝動を感じていた頃の思い出。

 俺の恋愛遍歴の成就には一切の加筆が無いのに、もうこの人には欲を覚えない。一体俺の何が変わったって言うんだろう。理由は分からないけど、変化にも驚かない。勝手に変わっていくことには慣れている。

 立ち上がってみると底の厚みがより感じられた。

「二センチくらい盛れますよ」

「二センチも?!」

 180センチになってしまうじゃないか!

 俺を抱けるゲイの人口がさらに減る。いや実際に伸びるわけではないから関係ないか、落ち着け。

「嫌なの? 普通喜ぶけど」

「色んな人がいるんです。世の中には」

 顔をしかめてそう返して、でも結局それを買った。

 今年は甲田に会うこともなく、去年同様万人が似合うであろうシンプルなトップスを買って両親を待った。




 翌日二日、お昼を食べ終わった頃に先生から、『あけましておめでとう』とメールが来た。

 思わず喜ぶ唇に湯呑を押し付けて阻止し、お茶を飲み干すとどんぶりを下げて部屋に上がった。


 ベッドに座って、ついスプリングで上下に弾みながら、『あけましておめでとうございます』と返事を打つと、画面に賑やかしがポップした。

『今日もバイト?』

 瞬間的に湧く嬉しい気持ちはどうやったら抑え込めるんだろう。

『昨日はあったけど、今日は休み』

『働き者だね感心する』

『ありがと』

 感心されて嬉しい単純な俺。

 先生は年末年始に何をしてたんだろう。奥さんの実家に挨拶とかに行ったのかな。先生の実家ってどこなんだろう。

 俺は先生のことを知らない。兄弟がいるのかも知らないし、生まれがどこなのかも知らない。好きな食べ物や趣味も知らない。

 何にも知らないくせに好きなんて変だ。

 何にも知らなくても好きになれる先生は凄い。

 でも先生は既婚者。奥さんがいて、俺はただの元教え子。それだけ知ってれば充分だ。後は早く目を覚ますだけ。


『お昼食べた?』

『うどん食べた』

『電話していい?』

「ええ……」

 思わずベッドに倒れこんだ。

 いいわけないじゃん。いま目を覚まそうって心に決めたばっかなのに。

『うん』

 駄目なわけないじゃん。


 情緒がおかしい自分を制御できないまま、先生からの着信を受けた。

「あけましておめでとう」

「おめでとうございます」

 ああ先生の声だ。

「元気だから大丈夫だよ」

 何かを聞かれる前にそう言った。

「え?」

「俺のことは心配しないでいいから」

 あ、帰り際におばあちゃんにぶっ刺されたんだった。でもあんなことはこれからもたくさんあるんだろう。その度にぶっ刺されながら段々強くなっていくはずだ。うん、俺も成長している気がする。

「……そうか」

 先生の声が寂しく聞こえてしまって嫌になる。

「休み中くらい俺のことなんて忘れていいよ」

「ごめん、迷惑だった?」

 ハッキリと後悔した声に慌てて、「そんなことない!」と飛び起きて首まで振ってしまった。

「…………」

 唐突に沈黙が訪れて胸がざわっとする。

 待って、こういう感じは嫌だよ。先生とこんな風によそよそしくなって、自然消滅みたいに疎遠になっちゃうのは嫌だ。俺のせいで、俺が好きになったせいで。

「先生は……元気だった?」

「うん、元気だよ。おみくじは末吉だったけどね」

 先生は簡単に俺を笑わせる。

「俺は大吉だったよ」

「おみくじでマウント取られた」

 くすくす笑う自分の声が楽しげでくすぐったい。こんな気持ちには誰にもさせられたことはない。でも、好きと気が付く前から先生と話しているとこれくらい楽しかった。

 早く友達になりたいな。ただ楽しい友達に。


「あれ?」

 先生が何かに気が付いたように声を上げた。

「なに?」

「火事かな、サイレンが」

 言われてすぐ俺の耳にもサイレンが聞こえてきた。

「こっちに来たみたい」

 ベッドに乗って窓を開ける。

 電話の向こうでも何処かの窓を開ける音がした。

 方角が違うのか煙は見えないが、吹き込んできた風に嗅ぎ慣れない臭いが混じっている。

「近いのかも、匂いがする」

「ベランダも方向が違うな」

 先生が言うのを聞きながら、もうひとつの窓を開けた。乗り出して辺りを見回してハッとした。

「高瀬の家の近くかな、黒い煙が出てる」

「俺……ちょっと行ってくる」

「え、危ないから――」

 言葉の途中で電話を切って、上着を掴むと慌てて階段を降りた。

「祐! 孝一くんの家が火事だって!」

 リビングから出て来た母さんが、スマホを耳に当てたまま青い顔をしている。

 履き慣れた古い方のスニーカーを突っ掛けて外に飛び出した。

「あんまり近寄っちゃだめだよ!」

 母さんの声を後ろに聞いて、踵をスニーカーに押し込むと公園に向かって走った。


 耳の奥でドクドクと速い心拍が聞こえる。

 近付くにつれ人が増え、臭いも濃くなっていく。初めて嗅ぐ独特の臭いに不安な気持ちが次々と湧き上がり、手で鼻と口を覆った。


 公園の入り口はもう人だかりになっていた。入り口は全て封鎖されていて、火の手は見えなかったけれど、孝一の家から溢れた煙が向こうの空へと流れている。

 風向きは違うのにこんなに酷い臭いがするんだ。


『今日帰るんだ。なんか話があるって言ってた。いよいよ離婚かな』


 年末に来た孝一からのメッセージを思い出して胸がざわざわした。昨日は彼女と写った写真が送られてきていたからすっかり忘れていた。なんの話だったんだろう。

 落ち着かない足がうろうろと動き続ける。

 孝一のお父さんもお母さんもタバコは吸わない。暖炉とかもないし、だとすると火元はキッチンかな。

 ただの事故だと頭では考えているのに、胸の中では孝一は何も関係がないはずだと繰り返している。

 彼女が出来て、サッカーも勉強も問題ない。将来だって見通しがいいはず。大丈夫、孝一は大丈夫。

 お母さんが料理好きでキッチンは直火、ガスオーブンも付いていた、もしくはホコリの積もったコンセントとか――。

 色々と原因を考えて背伸びをするけれど、公園の木や並んだ消防車で家はよく見えなかった。

 煙が上がっているのに消防車は赤いランプを回したまま、静かに止まっているだけに見える。詳細のわからない焦燥感を遅れて到着した救急車の音がさらに煽った。

 救急車はサイレンを止めてマイクで人混みに注意を促しながら家の方に近づいて行く。

 心臓が痛い。見回すけれど、公園より向こうには行かせてもらえそうになかった。

 手に持ったスマホが鳴っているのに気がついて、目を離せないまま電話を取った。

「高瀬? どこ?」

 息の上がった先生の声がした。

「孝一の家だった」

「うん。公園のどこ?」

 混雑から抜け出て人混みを見渡すと、背の高い先生はすぐ見つかって、人の間を抜けて駆け寄った。

 先生はハンカチを俺の口に当てて、「あまり吸わないで」と俺に持たせた。

「孝一帰ってるんだ。親が話があるみたいだって言ってた。離婚話かもって」

「そうなんだね。大丈夫だから、まずは落ち着いて」

 目線が合わさり、大きな手が肩をゆっくり摩る。

 漂いそうになる目を意識して先生に合わせた。こめかみが酷く痛い。

「凄く嫌な感じがする」

「大丈夫」

 肩にあった手が背中を摩ってくれ、合っていた眼差しが家の方を見た。

 あ、と短い声がして、突然先生は俺の腰を抱えた。

「わっ」

 身体が浮いて視界が開ける。慌てて肩に掴まった。

「左から二台目の消防車の隙間!」

 下から言われて、もたつく思考で二台目の消防車を見つけると、地面に座り込んだ孝一と、孝一に寄り添う真結ちゃんが見えた。


「……見えた」


 無事だった。

 心の底からホッとして、けれど直ぐに膝を抱えて俯く孝一に何かあったんだと思った。

 そっと地面に下ろされて、先生がまた俺の背中をゆっくり摩った。

「大丈夫だよ」

 先生の開いたままのコートにしがみつく自分の左手を見ながら、うんうんと何度も頷いた。


 煙は見えなくなったが、見物人は入れ替わりながらも人数は減らない。急ぐ怪我人はいなかったのか、救急車はしばしの間留まって、それから音を鳴らさずゆっくり走っていった。

 孝一と真結ちゃんは救急車に乗ったのか、いつの間にか姿が消えていた。

「ここにいても何も分からないから」と、背中を押されて家に向かって歩き出した。



 立ち去る人や向かう人で通りが賑やかになっている。無関係な人の無神経な表情を見ないように、肩にある先生の手を頼りに俯きながら歩いた。

 先生が俺のために来てくれたんだと思うと、こんな時なのに胸がギュッとしてしまう。

 遠回りになるなとまた後悔しながら、肩にある手の温もりに意識を持っていかれる。

 孝一のことだけを考えてやれない自分が情けない。きっと彼女は凄く心配しているだろうな。でも、彼女がいて良かった。


 家に着いてお礼を言う前に、先生が俺の両手を取った。

「まだ震えてる」

 心配そうに目が細められて、その瞬間、閉じ込めていた感情が溢れ出しそうになった。

 抱き締められたいと一歩足が出そうになって、慌てて俯いて両脚に力を入れた。

 せり上がる気持ちを押し止めて、包まれる自分の両手に目をやると、すぐに気持ちが落ち着き始めた。硬く震えていた身体が解けて、ほーっと息が漏れる。今もまだ先生が俺を落ち着ける効果は健在だ。

 ようやく心が柔らかさを取り戻し、孝一が無事でよかったと感じた。

「大丈夫だからね」

「うん」

 人が来る気配を感じて手を離した。

 顔を上げられなくて、誤魔化すように先生のコートのボタンを留める。

「ありがとう」

 黙って首を振った。本当はしがみ付きたいくらい不安だ。でも先生は手を握ってくれるだけで俺の気持ちを落ち着けてくれる。俺にはこれで十分過ぎる。

 ポケットに入れたハンカチを返すと、俺がプレゼントしたハンカチだった。

 笑って見せると、先生も笑って頷いた。



 家に入って母さんに孝一と真結ちゃんが無事だったと伝えた。それでも母さんは心配そうにして、俺は自分を励ますように、「絶対大丈夫」と言った。

 ソファに膝を抱えて座り込んで、孝一に電話を入れようかしばらく迷った。

 きっと今は電話には出られない。それに俺よりも彼女の方が声を聞きたいはずだ。


『怪我はない? 落ち着いたら連絡して』


 メッセージにはそれから数日間既読が付かず、その間にローカルニュースで数回ボヤ騒ぎとして取り上げられた。

 特徴的な家が映り、短いニュースの最後に、家の長男が暴れたことによる出火とみられ、警察が事情を聴いている模様と締め括られ、俺の心は暗澹とした。


 普段鳴らないスマホに幾つかの着信が届いていたが、相手が誰かも分からなかったし、こんなきっかけで連絡してくることに酷く苛立ちを覚えて掛け直さなかった。

 放っておいているクラスのチャットのやり取りの数字が増え、メッセージの通知もあったけど、どれも開かなかった。

 違う、みんなきっと心配している。だって孝一はいいやつだった。

 何度もそう言い聞かせるけど、やり切れない気持ちが心を苛立ちに傾けていた。

 

 たくさん開いていないメッセージが溜まっている。

 自分がゲイだと分かってから関りを止め、見ることすら止めた。他のSNSにもメッセージは幾つも溜まっている。

 自分の人生の嘘の数のように思えて、また気分は落ち込んだ。



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