先生のお正月
正月休みを久しぶりに実家で過ごした。
甥っ子に去年の分と合わせて多めにお年玉を包むと、甥っ子は喜んで義兄には恐縮されてしまった。
「元気になられたように見えます」
税務署で働く義理の兄は、年下の俺にも丁寧に話す。俺もそれに合わせて丁寧に返す。
「そうですね、いつまでも塞ぎ込んでいるわけにもいかないですから」
「櫂君はお強いんですね、僕なんかは美帆がいなくなったら立ち直れる自信がありません。まあ美帆はきっと大丈夫だと思いますけど」
あははと笑う義兄に、ただ口角を上げて見せるしかできない。
姉の夫の智和さんは時々悪気無く人を微妙な心地にする。
俺は強いわけじゃないし、多くの遺族がそうであるように、立ち直っているように見せる努力をし続けているだけだ。姉だってこの人が死んでしまったら悲しむと思う。
自分ができない事を人はできると思うのは不思議な考え方だ。それとも虚勢を信じる演技をしてくれているのか。
考えても可能性が増えていくだけで答えは出ない。
義兄を悪い人だとは思わないが、こうして毎回きちんと妙な心地にしてくれるので一向に距離は縮まらなかった。
智和さんがそうするように、俺も自分がそうだと思うことを信じて振舞うしかない。
表情筋を操って微笑みを作り、「姉も悲しむと思いますよ、長生きしてあげて下さい」
そう言うと智和さんは恐縮して、「運転にも気を付けます」と余計な事を言った。
神社に訪れて、澄んだ空気の参道を歩く。
まだ午後二時を過ぎたくらいで人出はそれなりにある。向こうでやっている出店はさらに賑わっているようだ。
前を行く姉たちに視線をやりながら、隣を歩く母さんの砂利を踏む音に耳を傾ける。
「母さんは神様を信じてるの?」
はぐれ雲さえ見当たらない晴天を背景にした拝殿を前に、自然とそんな質問が口から出ていた。
母さんは微かに音を鳴らしたけれど、砂利の鳴る音が大きくて、それがどういう意味を含んだ音色なのかは判別できなかった。
あるいは表情でそれが分かるかと顔を向けると、淡い色の口紅が塗られた唇が少し笑っている。
「いてもいなくても同じだと思ってる。自分がしたいと思うように生きるのよ。死んだ後に神が出てきて何を言われたって知ったこっちゃないわ」
キッパリ言い切った母さんに、驚きと笑いが湧いた。
「そうなんだ」
母さんの口癖には、多少なりとも宗教的な意味合いがあるのかと考えた時期があった。昔から人は辛いことを乗り越えるために祈ってきたから。でもそうではないらしい。
「自分と自分の子どもまで伴侶を取り上げられて、そんな運命に神が関わってたら怒るわよ」
「なるほど」
参道を歩いている人間が口にしていい話には思えなかったが、俺も神を信じているかと訊かれたら、どちらでもいいと言うだろう。そんな母子でも今ここを歩いているんだから、運命を決めた神様には多めに見てもらいたい。
自分の人生の選択に神が関係したことは一度も無かった。
絵美の死を神の意思だとは思わないし、孤独にされたことを恨んだりもしない。高瀬の幸せを神に祈ったりもしないし、自分の過ちを懺悔もしない。するとすれば高瀬に直接しなくては意味がない。
「今のところ幸せではなさそうね」
物憂い顔をしていたんだろうか、向けられていた眼差しに、取り繕う言葉は出てこない。
「人生があまり上手くいかない時期みたいで」
まるで自分ではどうしようもないことのように言い訳する。
「ま、そういうこともあるわよね」
身を竦めコートの襟を立てた母さんに、自分のマフラーを取って肩に掛けた。
「ありがとう」
「いや」
ああ、母さんが笑ったのを見たのは何時ぶりだろう。
俺は一体いくつの過ちを見過ごしているのかな。
ちょろちょろと走り回る甥っ子の理来を見ながら、どうしてか彼女と手を繋ぐ孝一君を見送った日の高瀬の姿を思い出した。
「自分が相手にそぐわないときは黙って諦めた方がいいんだろうね」
「あら、寂しいことを言うのね」
母さんは急に趣の変わった発言にもさほど驚かずに感想を述べた。
それは高瀬と孝一君のことでもあったけど、自分が高瀬に持つ執着についてでもあった。
「そう、寂しいからさ、愚かにも手を伸ばしてしまいそうになる」
違う、もう伸ばしてしまったんだった。手に触れて、抱き締めてしまった。
離れると決めたのに、月に掛かった虹が綺麗だったからなんて理由でイブの終わりに連絡をいれたりして。
「愛しく思うことは愚かじゃない。いつか終わりが来て愚かだったと思ってもいいじゃない」
「そうかな」
意外な意見に驚いた。今日は母さんの印象がよく変わる日だ。
「私はお父さんを失って自分を愚かだと思った。毎日もっと愛情を込めて過ごせば良かったって。こんなに傷付くくらいならね。でも、あなたも絵美さんと出会って結婚したことは後悔していないでしょう?」
「そうだね、そうしたいと思ったことは間違いじゃないから」
短い時間だったし後悔もある。けれどいっそ無ければよかったとは思わない。今は無かったみたいになってしまっているけど。
「愛しく思う気持ちは愚かなんかじゃない。それを特別だと思わなくなってしまうことが愚かなの。特別だと思う気持ちを無かったことみたいにするのはもっと酷いわ」
手水舎について、人が空くのを少し離れたところで待った。
「まだ自分でも心の傷の大きさが把握できてないんだ。立ち直れたと言えそうもないし、ただ寂しいだけかもしれない」
少し声を潜めて、水音に紛れて告白する。
「心が万全じゃないと人を好きになってはいけないの? そもそもあなたの心はいつか万全になるのかしら」
「怖いこと言うね」
「傷は完全には癒えないものよ、雨が降ると痛む古傷もあるって聞くし」
内ポケットからハンカチを取り出しながら、高瀬に対する執着として始めたつもりの会話が、恋愛という方向で進んでいることに笑ってしまった。
「癒えてないのに、もうひとつ傷を作りそうなんだよ」
高瀬がクリスマスプレゼントにくれたブルーのグレンチェックのハンカチ。
ブルーは高瀬にプレゼントしたストールを思い出させたし、もう一枚は高瀬が俺に似合うと言ってくれたウールのセットアップと同じ色身をしていた。
「相当身分違いの相手を想ってるみたいね」
母さんがクスクスと笑って、俺もつられた。
「身分というか、相当な変化が必要なはずなんだ。多分、それに見合う心の傷があったからなんじゃないかと思ってるんだけど」
言い訳をする俺に母さんはますます笑った。
「嬉しそうよ」
「え?」
「その人を想うあなたは」
母さんはからかう笑みを寄越して開いた柄杓のところへ行った。交代で手と口を清める。
「なんとか引っかけてきなさい」
「言い方が酷いな。そんなことをしていい相手じゃないんだよ。大切だと思っていていいのかってところを迷ってるんだ」
濡れたハンカチをたたみ直して内ポケットへ入れると、背中がポンと叩かれた。
「大切だと思える人にまた出会えたことに感謝よ。感謝して暮らすしかないの、死んでしまうまでね」
「死んでしまうまでね」
心に浮かぶぼやけた絵美の姿に切なくなって、スマートフォンを取り出した。
待ち受けの気の抜けた表情の高瀬に思わず笑顔になる。
雪の降りしきる中、走ってプレゼントを届けに来てくれた高瀬を愛おしく思った。
入るのもためらっていたあの店に一人で行ったなんて、控えめに言ってもかなり見たかった。要る物はないけど、香坂さんに話を聞きに行きたいくらいだ。
困った時は頼るつもりだと言われたのが嬉しくて、悪い気持ちだと分かってはいるものの、それを待ち遠しく思ってしまう。いつまでも困った時には一番に俺を思い出して欲しい。
これはやっぱり執着かな。
参拝の列に並び、自分の心を見定めようと神の家に意識を向けた。けれど信仰心の無い俺には威光を感じることができず、弱さや身勝手さを脱ぎ捨てることはできない。ただ場所が醸す清らかさが俺を内面へと向き合わせる。
俺の人生を想って自立を始めた高瀬に嘘を告白したら、高瀬は俺を許してくれるだろうか。
もし許してもらえたら俺はほっとして、それで満足できるのか?
邪魔なんかじゃないからそばにいてくれと言う? 友達として? それとも触れられる存在として?
いや、そんなことは望まれていない。高瀬には気兼ねなく頼れる大人が必要なんだ。俺がずっとその存在でいてやると決めたじゃないか。
結局遠慮させてしまったけど。
高瀬に寄り添うことで寂しさから目を背けていたけれど、今は高瀬の喪失からくる寂しさを味わっている。そのせいで湧き上がる悲しみの出所がよく分からない。
狡さが自分に返ってきている。
俺はあまり孤独に強い人間じゃないのかもしれないな。




