恋の予感、孤独な先生
先生を見送って家に入ると、「遅かったねー」と母さんが出迎えてくれた。
玄関先で孝一と彼女にプレゼントを貰ったと報告すると、「あらあら」とニヤついたのも束の間、手が冷たいと大騒ぎされてお風呂に直行させられた。
湯船に浸かってリラックスしているのに、頭の中は色々なことでみっちりとしていた。
驚きと、ドキドキと、嬉しい……も、あった。
なんだか自分でもびっくりしてるけど、孝一の彼女との初対面は、俺の人生のとびきり特別な出来事に分類するほどの衝撃があったとは言えなかった。
悪い方のインパクトに備えて何ヶ月も過ごしていたはずなのに。変だな。
スペシャルサポーターが隣にいたからかな。
──なにも誕生日に連れてこなくてもね。
一人で居ても同じことを思っただろうけど、さっきみたいに笑えていたかは、どうだろう。
とにかく今はいい気分だ。それだけは間違いない。
帰ってきた父さんと三人でテーブルに着くと、夕飯はハンバーグだった。
煮込まれてはいなかったけど、先生を思い出した。
十五号のたくさんフルーツの乗ったケーキは四等分されて、甘酸っぱいいちごを齧りながら余ったひと切れを見ていると、やっぱり先生を思い出した。
「静かだね、なんかあったの?」
母さんに聞かれて首を振る。
「来年成人だもんなあ、お酒飲むか! もういいだろ」
「だめだよ、飲酒は変わらず二十歳からだし」
ぼそぼそと言うと、父さんは「なんだ」とつまらなそうにビールのプルタブを開けた。
「二十歳といえばさあ、やっぱり写真は撮らない? 袴とか着てさ。衣装が選べなくなるからみんな一年前から予約するのよ?」
「十七になったばっかりで来年の『予約』の話は早くない?」
「ん? 前撮りするんだろ?」
父さんが口に泡を付けてとぼけた顔をする。
「前撮りするとしても撮るのは十九歳。それの予約は来年でいいでしょってこと」
「ああ、そりゃそうだな」
成人の年齢は引き下げられたものの、式典は『二十歳の集い』なんて名を変えて、変わらず二十歳を節目に開かれる。
式典には行かないだろうな、なんてずっと思っていたけど……いや今もちょっと思ってるけど。でも、最近は行ってみるのもいいかなって気持ちもなくはない。人は変わるものだ。
「最近はみんなスーツなんじゃないのか? スーツで撮るのはいいんだろ?」
「まあ。スナップ写真でいいけど」
「そんなこと言わないでよ! 記念写真だけでもいいから! ほら和装かっこいいじゃない!」
母さんが口を尖らせてスマホの画面を見せてくる。父さんと覗くと、袴姿の同年代のモデルが和傘を差したり刀を持たされたりして凛々しくこちらを見ている。
俺が腐すように目を細めると、「袴なんて成人で着るくらいしかないのにー」と、母さんがつまらなそうにスマホを置いた。
はあ。
そういう顔をされると、日頃甘やかされているんだからそれくらいは付き合ってあげるべきなんじゃないかと思ってしまう。
「……袴を着るのはいいよ。刀持たされたりするのは嫌だけど」
渋々口にすると、母さんは目を見開いて笑顔になった。
「やったー!! え、このアイテムが嫌だったの?」
「まあ、そう」
「難しいお年頃ねぇ」
母さんが笑うと、「俺も嫌だな」と顔をしかめた父さんがつまみのチーズを齧った。
「そう?」
「そうだよ。武家の血筋でもないのに恥ずかしい」
父さんが忌々しく言うので、俺も母さんも笑ってしまった。
誕生日プレゼントは最新のAirPodsだった。
「前のまだ使えるよ?」
「古いのは母さんにちょーだい」
「それはいいけど、何も要らないって言ったのに」
「なーに言ってんの! バイト始めたらお小遣いは要らないって言うし、スマホ代まで自分で払うって言うんだもん。誕生日プレゼントまで要らないって言われたら母さん怒り出すよ!」
「そうだぞ、家は俺がそれなりに稼いでいるのに、母さんもお前も働くから老後の資金ばっかり貯まってる」
「そんなこと言われても」
バイトは勢いで始めただけだし、お金を稼いだからといって物欲が上がったわけでもない。スマホ代も結局払わせて貰えなかった。
「大学の学費だってあるし」
「大学だって危うく行かないところだったじゃないの!」
「危うくって、俺は就職か公務員試験を考えてたから……」
クリスマスプレゼントだと思われたのか、緑と赤の包み紙を丁寧に畳んでいると、父さんの視線を頬に感じた。
「祐希は、早く自立したいのか?」
小さくなった包みを手の下に敷いて、俺はしばし沈黙した。
初めに自立したいと言ったのは孝一だった。
孝一の目標だったそれは、自分の性的指向が確かになっていくにつれ、俺にとっても価値のある道のひとつになった。
俺は親を捨てたいわけじゃない。でもその逆は否定しきれない。
一人でも生きていけるように、できるだけ早く働こう。そういう焦りに似た思いがあった。
俺の中でほとんど決定していたその『自立』の先延ばしを決められたのは、もちろん先生のおかげだ。
下降しがちな思考の整理を手伝ってくれ、苛立ちも難なく受け止めてくれる。前向きな未来を期待していいんだと、一度じゃなく、いつも背中を押してくれる。
きっと両親だってそうしてくれただろう。今こうして俺の沈黙を待ってくれる二人なら。
ただ俺には秘密がある。成人もあと一年を待つのみとなって、いつかどこかで勇気を出さなくてはならない。いつか、どこかのタイミングで。
──俺がいるよ。
手を握ってもらえて嬉しかったな。
先生といると俺はいつも少し浮かれる。さっき立花ちゃんと一緒にいた孝一みたいに。
孝一は俺に秘密を打ち明けてはくれたけど悩んでいた。さっきみたいにただ楽しそうじゃなかった。家の問題なんてもう消え去ってしまったんじゃないかと思うほど、笑顔でいっぱいだった。
あれが好きな人といるってことなんだろう。
先生とのハグも、正直かなり理想的だった。
大きな腕の中は、いつも先生がくれる言葉や存在がもたらす安心感が物理的に再現されていた。
そして身長差が生み出すちょっと上へと抱き寄せられるあの感じ。
思わず眉が寄った。
さっきはホッとしたのに、今思い出すと胸が苦しい。
なんでもないみたいにハグしてくれたな。さすが大人だ。
俺にもいつか、ああしてくれる恋人ができるかな。
「…………」
思考に引っ掛かりがあった。確信はないが、後戻りしたほうがいいと直感が言っていた。
えーと、なんで先生といる時の俺は彼女といる時の孝一に似てるんだろ。
思考を少し前に巻き戻す。
孝一は彼女といてどうだった?
前みたいに自分を押し殺していなかった。ずっと明るくて、なんの取り繕いもなく、ただ幸せそうだった。
自分は先生の前でどうだったろう。
あれ、これだめかも。
そう思いつつ、さっき自分で考えた言葉を繰り返した。
『あれが好きな人といるってことなんだろう』
「……好きな人と」
ダイニングテーブルに着いた三人の時が止まった。
いや? いや! 勝手に口が言ったから! 絶対に俺の意思じゃ無かったから!!
「ええっ?!」
母さんが驚いて、それに俺と父さんも驚いた。
「ごめん! なんでもない!」
慌てて立ち上がって、「プレゼントありがとうごちそうさま!」
ひと息に言ってリビングを飛び出し、走って二階に上がった。
部屋のドアを閉めて立ったまま震えあがった。
真っ暗な部屋、背中のドアの向こうに耳を傾ける。
「何であんな大声で……」とか、「だって急に……」とか、割と楽し気な二人の言い合いが聞こえてきて頭を抱えた。
ずるずると座り込んで膝に額を押し付ける。
あーなんで口に出しちゃったんだろ。誕生日なんだしなんとか無かったことにならないだろうか。
何を考えたらいいのか分からなくなって、目を瞑ってやけくそ気味にさっきの抱擁を思い出した。
温かくて、大きくて、安心した。
あのままずっと抱きしめてもらえたら、どんなにいい夢が見られるんだろう。
さっきは香りが注意を引いて味わえなかった感動が、じわっと身体を震わせた。
でも違う、先生も好きになっていい人じゃない。
目を開けて真っ暗な現実に戻る。
先生には奥さんがいる、ゲイでもない。
四つん這いで部屋の隅にある紙袋から箱を取り出して、丁寧にしまったストールを手にした。
綺麗なブルーは暗闇でも冴えて目に映り、触れた瞬間から柔らかく解けて枝垂れるように手を温もりで包んでいく。
俺の笑顔のため? そんなまさか。
自己満足だって言ってたけど、俺にはよく分からない。
先生の考えは何も分からないのに、重心が胸のところくらいまで上がっている。
黙っていればいい。言わなきゃわからないんだし。
開き直ってみたけど、そんなのいいわけがない。
ベッドに這い上がると、窓の向こうで微かに星がきらめいている。ガラスから冷気が漂ってきて、ストールで身体を包んだ。
先生は今何をしてるだろう。奥さんと楽しく食事をしてるかな。並んでテレビを見たり、寄り添ってキスをしたりするのかな。
ああ、こんなことも考えちゃダメだ。
先生は分かってるのかな、自分も俺の恋愛対象になりうるって。
違う! そんな風に見たりしない! そんなの裏切りだ!
深呼吸を繰り返して、気分を平らにしようと試みる。
凪いだ海と、どこまでも青い空を想像して、草原から宇宙に飛んでいく。
先生がいない頃によくやっていたみたいに。
相手がゲイじゃなくてもいいから、また人を好きになってみたいと思っていた。でも先生じゃいけない。先生は俺の人生の重要人物だ。失いたくない。うん、失いたくない。
先生は友達って言った、先生がそう言うなら友達だ。
『相手もそうならその先がある』
あのとき先生はそう言った。先生はそうじゃない。手を握られたって抱き締められたって関係ない。そこに俺がどんな意味を乗せたってその先は望めない。
ああ言われたときに傷付いたのは、もう好きだったからかな。
違う、違う違う。
俺は好きだよ、ずっと先生が大好きだ。人として、大人として。
今まで通りの関係でいたい。考えない、好きじゃない、好きな人はいない。
新しいAirPodsをスマホとペアリングして、オススメの一番上を再生した。
床に寝転んで、サビだけ聞き飽きた歌を最後まで聞きながら、目を閉じて口ずさんで、眠くなるまで頭の中を空っぽにした。
翌朝、味噌汁を啜っていると正面にいた母さんが言った。
「結婚したいの?」
俺は咳き込んで、顔に掛かった味噌汁を手拭きで拭った。
「飲むタイミングで変なこと言うなよ」
「ごめん……」
「結婚ってなに」
「だって昨日言ったでしょ!」
一度しょげた母さんがまた勢いを取り戻す。
「え、結婚?」
「父さんに早く自立したいのかって言われて、好きな人ーとかなんとか言った!」
確かにそう言ったことは認めるしかない。そして並べてみるとそう思われても仕方がないような気もする。
「ごめん、それは質問に対する答えじゃない」
「え?」
母さんが眉を寄せた。
「なんて言ったらいいか難しいんだけど、シンプルに言うと好きな人はいません!」
真顔できっぱりそう言って、朝食を再開した。
母さんは「え? はい?」とか変な声を上げてから、「そんなの通用しないよ!」とびっくりしたように言い返してきた。
「いない。間違えたの。好きな人はいない」
動じずに繰り返して、ぱくぱくと白米を口へと放り込んだ。
「通用しないってば!」
納得しない母さんに首を振り続け、身支度をする間ずっと後を追ってくる母さんを置いて家を出た。
危なかった。実に危なかった。
「通用しないよ!!!」
びっくりして振り返ると、二階の窓から母さんが身を乗り出していて、俺は走って逃げだした。
◇◇
あれから一週間、高瀬から連絡が途絶えていた。
きっと俺が混乱させたせいだ。
色んなことをしたから、どれが一番混乱させたのかは分からない。
複雑な気持ちを込めたストールは案の定、変化を期待されているとプレッシャーになってしまった。
手を握ったのも、バランスを崩した高瀬を抱き寄せた腕が解けなかったのも、全部俺がそうしたくてしたことだ。
手を振って別れたけど、帰り際の表情は困惑していた。
あの時、孝一君を見つけた高瀬が息を呑んだのが聞こえた。
背筋が伸び、明るい声。喜んであげなきゃという気を張った気配が見て取れた。
平気だと言った言葉が嘘だとは思わないが、五月にはまだ泣いていた。
十七歳の誕生日に初恋の相手が彼女と手を繋いで去っていく姿を見た高瀬の気持ちは、俺には想像ができなかった。
それでも、ただ触れたいと思われたいだけだと言っていたこと思うと、どうしてもそのままではいられなかった。
嫌な気持ちにさせたかと不安を感じたけど、もう片方の手を出されてホッとした。
あの時はありがとうなんて言ってたけど、きっと戸惑っただろうな。
高瀬は俺がいつも高瀬のことを考えて色々してくれていると思っている。でも実際は俺がそうしたくてしているだけだ。
寄り添う気持ちは一度も無くしたことはないけど、俺自身の寂しさや欲求も間違いなく多くを占めている。
抱きしめた時にはただ安らぎがあった。
誕生日だったのに、からかわれたと思ったかな、侮辱されたように感じたかもしれない。
誰にも相談できない悩みをついに俺が作り出してしまった。
どうしても止められなかった。いや、それこそ言い訳か。
俺はここ最近ずっと高瀬に触れたいと思っていた。
高瀬が泣くたび、笑うたびに胸が苦しくなって、抱き締めて自分の中に取り込んでしまいたくなった。そんな自分しか頼る先がないことが不安になって、学校に貼ってあったポスターを持ち出したりして。
嘘までついてそばにいたのに、衝動を恐れて無責任に離れようとした。
気が滅入ったところで次の授業が近付いて、席を立って職員室のドアを出た。そこで事務員の立川さんが掲示物を貼っていた。
「立川さん」
「はい?」
「このポスターなんですけど」
例のポスターを指さした。
「はい」
「もし生徒がこの活動に興味があっても、QRコードを読み込むにはここはひと気がありすぎると思うんです」
「ああなるほど」
「コードだけ印刷して、取りやすいように置いておくのはどうでしょうか」
「そうですね、掲示場所も含めてもう一度検討してみます。ご意見ありがとうございます」
「いいえ」
一体どれくらいの人がこの活動で救われているんだろう。何も知らないのに掲示するだけで義務を済ませたような気になっている。こんな風に色々なことに気が付かないまま生きているんだろうな。大事なことだって見て見ぬふりをしてるんだから。
帰りにコンビニに寄ると高瀬がいた。いるのは知っていた。シフトを見せて貰っていたから。
「いらしゃいませ」
高瀬は明らかに驚いた顔をして、それからいつものように笑ってくれた。
ホッとして牛乳を一本買った。
「元気そうだね」
「元気に働いてます」
この間の事を謝ろうか、こんな一瞬の立ち話で謝り切れるような内容ではないか。
「また連絡が無いからちょっと気になって」
結局窺う言い方になってしまった。
「もう少しちゃんと自立しようと思って」
牛乳を袋に入れながら、小さな声が言った。
「自立?」
タッチパネルでクレジット決済を選んで言葉を繰り返す。
「先生からの自立」
言われた瞬間、クレジットが決済音を鳴らした。
俺の後ろに人が並んで、それ以上の会話をすることはできなかった。
「ありがとうございました」
高瀬の声を背中に浴びて店から出た。
直ぐには頭が働かなかった。
自分の一連の行動を思い出して、それからどういう流れで自立という考えに至ったのか、気になるけれど聞かない方がいいような気もする。
いつの間にか寒さは思わず身を竦める程厳しくて、コートの襟を立てて帰路を歩いた。
これはいつもの遠慮だろうか。それとも拒絶だろうか。
あの日の俺の行動が、高瀬に自立を思い立たせたんだろうか。
俺を必要としない人生に舵を切った? ゲイだと知っているだけの少し聞き上手なくらいの大人はもう必要ない?
もしかしたらもう一人カミングアウトしたと言っていた先輩とまた交流するようになったのかもしれない。修学旅行のお土産を渡したと言っていた。面白くていい人だと。距離を取られたときは少し泣いていたくらい。年だって近いし、毎日顔を合わせることもできるだろう。
俺はもう、必要無くなった。
思った途端、寒さを忘れる程体が熱くなった。思わず立ち止まって引き返してしまいたくなった。
そんな自分に驚いて固まってしまった。
言えることなんてなにもない、言わなきゃいけない嘘があるだけだ。
そうだった、俺がこんなに動揺しているのは目を背けている絵美の死があるからだ。高瀬のためでも何でもない、自分が寂しいせいだ。そのせいで手を取ったり抱き締めてしまったりして、あんなことをする大人は──。
──必要ない。
立ち止まった脚を引きずるように動かす。
あんなことをしたのは俺が孤独なせいだ。距離を取られたんだ。当然だ。
そうして俺と高瀬の関係は途切れた。
深まる冬を一人で過ごすことは、去年よりもずっと苦しかった。
十二月に入るとさらに気分は落ち込んだ。
妻の大好きだったクリスマスが近付いていた。




