ハッピーバースデー
「いらっしゃいませー」
入店音が鳴って、すっかり癖のついた挨拶が口から勝手に出ていったあと、入り口を見ると先生が立っていた。
「どうしたの?」
棒立ちの俺を笑う先生に急いで首を振る。
「いらっしゃいませ」
嬉しい気持ちを隠せない自分を恥じ入りながら、仕事向けじゃない格好の先生を盗み見る。
「また洗濯洗剤が切れたんだ」
「あちらの列です」
「はいはい」
あれから先生には初めて会う。
先週の日曜日以来で、今日は土曜日だから、まあ約一週間ぶりだ。
心臓がにわかに騒ぎ始めている。
メッセージでのやり取りはしていたけど、こうして会うとやっぱりなんだか緊張する。
レジカウンターの下で馴染みのツボを刺激して自分を取り繕う。
「高瀬君もういいよ」
店長が来て先生のレジを変わってくれた。
「もう上がりなの?」
「うん」
お疲れ様ですと言ってレジを抜け、「すぐ支度するから待っててくれる?」
思い切って先生に聞くと、「いいよ」と了承が得られた。
急いで身支度をして裏口から出ると、すぐそこの街灯の下に先生を見つけて自転車を押して並んだ。
「お待たせしました!」
うわ、変なテンション。
「全然待たなかったけどね。ところでどうして今日も首が寒そうなの?」
視線が首元に注がれて、あっとなる。
「えっと……」
首に触れて少し考えてみたものの、上手い言い訳は思いつかなかった。
「学校にしていくのが勿体なくって。友達が勝手に巻いちゃったりするし」
いいなこれーと言って、菊池が首に巻いたのを「いいでしょ」と笑ったけど、正直凄くショックだった。
特別が損なわれたような気がして、そんな風に思う自分が本当に嫌な人間に感じた。
「そんなこと嫌がるの変だよね、雑に扱われたわけでもないのに」
でもあの青色を目に映すたび、柔らかい生地を首に巻くたびに嬉しくて堪らなかった。持っているだけで特別な気持ちになれたし、付けている自分をみんなに自慢したかった。
「高そうだな」と言った田中に、そうだよ! と言いそうになって、「貰い物なんだ」と誤魔化した。すると熊田が、「誰にもらったの?」って聞いてきて、先生だよ! って言いたかったけど、「親に」と渋々嘘を吐いた。
みんなそうなんだって納得した。
菊池に似合ってるって言われて嬉しかったけど、触られたくはなかった。
「大切にしてくれてるんだ」
顔を上げると、いつもの優しい視線がそこにあった。
「うん」
そう。俺の持ち物で一番特別。ぶっちぎりの一位。
「嬉しいけど、風邪をひかないようにね」
「はい」
ぴっと背筋を伸ばして先生を見る。
今から言う事で、先生がどんな顔をするか見逃さないように。
「先生俺さ、今日誕生日なんだ!」
「え、そうだったの?」
おっと驚いた顔だ。
「うん。だからバイトがもう上がりなんだ。店長が代わってくれて」
今西さんが俺の誕生日を覚えててくれて、店長に伝わったらしい。
今日は七時上がりだったし問題なかったのに、大騒ぎで五時上がりにしてくれた。
「知らなかった」
「そっか。ストール、誕生日プレゼントなのかなって思ってたんだけど」
「いや、偶然だよ」
偶然か。ってことはやっぱり何も理由がないのにくれたんだ。それってあれじゃない? クラスの女の子がいいよねーって言ってたやつ。
「ナツの彼氏がさあ、記念日でもなんでもないのにプレゼントくれるんだって。似合うと思ったからとか言ってさ、めっちゃいくない?」
いい! めっちゃいい! 嬉しい! って脳内で頷きまくったやつ。
しかもナツさんの彼氏はセンスがいいらしい。先生もセンスがいいし、いや彼氏じゃないけど。
「十七歳になったんだ」
「うん。成人まであと一年。全然そんな感じしないけど」
「おめでとう」
照れくさくて自転車のサドルを指先で叩いた。
「あのストール、先生からの誕生日プレゼントって思っていい?」
「もちろんいいよ」
「一年早いけど、成人祝いだと思えばあの値段でも……いややっぱり高いけど」
「値段見たの?」
ギク。
「お手入れ方法がSNSに載ってるって書いてあったから見に行ったら、オンラインストアのリンクがあってつい……」
唇を摘んでまたチラ見する俺を先生はしょうがないなという顔で見た。
「大切にします」
きちんと先生の目を見てお礼が言いたいのに、じっとしていられない。まぶたに強い重力が掛かっているような気がする。
ざあっと北風が吹き抜けて、思わず揃って寒いと身を縮めた。
「手袋付けて、無いならクリスマスプレゼントにするよ」
「あるある! あります!」
「軍手とか言うなよ」
「違うよ!」
ポケットから黒い小さな手袋を取り出して見せた。
「子ども用の手袋?」
予想通りのことを言われて、ふふっと笑いが出た。
「二個で499円ののびのび手袋を田中と半分こした」
見た目は小さいのに本当によく伸びて、田中と驚いて買った手袋だった。
「良心的価格だね」
「ほらピッタリ! 凄くない?」
笑う先生に手を広げて見せた。
「本当こんなんだからね高校生なんて! あんな高級なの巻いてたら緊張しちゃうよ!」
「じゃあもう少し安いのと取り換えてこようか?」
「えっ?!」
「冗談だよ」
慌てた俺を先生はまた笑った。
俺はもう完全にあのストールを気に入ってしまっていた。先生が奥さんに怒られたらバイト代で何とかしようと決めてたくらい。
街灯に照らされた道を一緒に少しだけ歩いて、すぐに別れ道になった。でも先生は何も言わずにこっちの道について来た。
えっと思ったけど、チャンスだと思って黙ることにした。
「今日は何を食べるの?」
「父さんがケーキを買ってくるって言ってたけど、夕ご飯は分かんない」
「高瀬の好物じゃないの?」
「俺、嫌いなものが無い代わりに絶対これってのも無いんだ。何でも美味しい」
「高瀬らしいな」
「先生はあるの? 誕生日の定番」
「子どもの頃は煮込みハンバーグだったな」
「あー俺も好き! 今は?」
「今は定番はないよ」
「そっか。ねえ先生」
「うん?」
何気ない会話の流れで先生に誕生日を訊ねた。誕生日プレゼントと決めたストールのお返しをする機会はこれしかないからだ。でもあっさり「言わない」と返された。理由を聞くと、「バイト代を使わせたくないから」と見透かされた回答が返ってきた。
「先生……」
口を尖らせると先生は笑って、でも結局教えてはくれなかった。
すっかり暗い夜道に、二人の靴音と自転車の空回りする音だけが響いている。
「……送ってくれてるの?」
「誕生日だからね」
「ふーん」
なんでもない返事をしつつ、誕生日に遠回りして家に送ってくれるなんて、ちょっと彼氏みたいだ。
ついさっきのテンションでそう思って、いやいやと脳内で大きく首を振る。
先生でそういう妄想するのはなし! 一回やらかして後悔したんだから!
大慌てて否定しつつ、ちょっとだけ浮かれた気持ちがまた足取りを軽くする。
「さ、ついた」
「どうもありがとうございます」
「ただ送っただけだよ」
「遠回りだから」
「ちょっとだよ、気にしないで」
「……」
向かい合う先生に、またねって言わなきゃいけないのに言葉が出て来ない。なぜか先生も何も言ってくれない。
聞いちゃおうかな、どうしてプレゼントしてくれたのって。でもきっとはぐらかされるんだろうな。もしくは本当に気まぐれなのかもしれない。
「えっと……」
冷たい風が、まごつくのびのび手袋の中を冷やしていく。
どうしよう、変な空気になってきたかも。
沈黙をからかうように風が吹き抜けて、冷えた手を手で包んだ。
「祐!」
突然聞き覚えのある声が俺を呼んで、はっとして吸い込んだ空気が喉で鳴った。
「孝一」
孝一が手を上げている。その後ろに、写真で見た女の子がいた。
「良かった会えて! 誕生日おめでとう!」
駆け寄ってきた孝一が緑の包みを押し付けるように渡してきた。
「あ、ありがと!」
距離の近い笑顔に圧倒されて、思わず少しのけぞった。
「あれ? もしかして中屋先生ですか?」
孝一が先生を見てびっくりした声を上げた。
「久しぶりだね、覚えててくれたんだ」
「もちろんです! あの、お元気でしたか?」
「元気だよ、ありがとう」
「いえ、真結も……妹も気にしていましたから」
孝一と先生が会話する後ろで、少し距離を開けて女の子が立っていた。
黒いPコートに水色のマフラーを巻いて、すらっと背が高い。
水色が好きなのかな。前に写真で見た時も水色のシャツを着ていた。パンツは黒だったし、水色と黒の組み合わせが好きなのかもしれない。
意外と動揺していない自分に驚きつつ、小さく頭を下げてみる。すると笑顔を見せて同じように頭を下げてくれた。
笑うと可愛らしいけど、確かにお姉さんって雰囲気だ。
「なあ孝一」
「──え? あ、ごめん先生とばっか」
「そんなのいいんだけど、早くその子紹介して?」
目配せすると、孝一は「にっ」と白い歯を見せて、あの子が例の子だと知らせた。それから後ろに下がって女の子の隣に立った。
「小川立夏さん、青栄高校の二年生」
街灯の明るさしかないのに、孝一の顔が赤くなるのが分かった。
「初めまして、小川立夏です」
落ち着いた大人の女性のような声だった。
「初めまして、孝一の友人の高瀬祐希です」
ついにこの日が来たかと思ったけど、頭を下げた視線の先に自分のと先生の靴が並んで写って、なんだか変なシチュエーションだなと可笑しくなった。
「あの人は俺と祐の中学の時の先生なんだ」
「初めまして、中屋です」
「初めまして」
小川立夏さんは多分、先生の背が孝一よりも大きくてびっくりしていると思う。先生の頭のてっぺんまで視線が登ったのが分かった。
「それで、二人はお友達?」
澄まして尋ねると、孝一の背筋がビッと伸びた。
「先週から、お付き合いをすることになりました!」
「上手くいったんだ」
「おかげさまで!」
「良かったね」
「うん!」
ハッキリと頷いた孝一に、小川立夏さんは笑ってしまっていた。つられて俺も笑った。
がっかりするような子だったら──なんて思ったけど、お似合いの二人を目の当たりにしてみると、真逆の気持ちだった。
家のことで無理をしている孝一を見ていたから、幸せそうで素直に嬉しい。
胸は少しだけドキドキしているけど、苦しいかと言われるとそうでもない。
「担任でもなかったけど、俺もなんだか感慨深いな。逞しくなったね」
隣で先生が孝一を褒めた。これは先生モードだ。ちょっと口調がのんびりとしている。
「ありがとうございます! 先生の身長には追いつけませんでしたけど」
「ううん、充分投げ飛ばせると思うよ」
「いやサッカー部だから!」
俺が突っ込んで、みんなで笑った。
そのまま少し会話をした。
俺がバイトを始めたと言い忘れていたのを責められ、どうして先生と一緒にいるのかについては、「コンビニに寄ったら偶然今日が誕生日だって聞いて送ったんだよ。家が近いんだ」と先生が簡単に納得させた。
まあ確かに今一緒なのはその理由で間違ってない。
孝一のチームは県大会を勝って、来春の全国大会に三年ぶりに出場が決まったらしい。
俺と先生で拍手を送ると、孝一は少し寂しそうに俺を見たけど、気が付かないふりをした。
「大丈夫?」
二人の後ろ姿を見送りながら、先生がそっと言った。
「思ったより平気」
「本当に?」
「運よく先生もいてくれたしね」
孝一が振り返ってこっちへ手を振った。それに大きく手を振り返す。
前を向いた二人は、とても自然な成り行きのように手を繋いだ。
「ほんとみんな手え繋ぐよねえ」
からかうように言うと、先生は「うーん」と唸った。
良かったね孝一、恋が叶って。まあ俺は初めから上手くいくって思ってたけどさ。
俺に紹介するためにわざわざ来てくれたんだよな? 誕生日プレゼントなんて初めて貰うし。
一緒に選んでくれたのかな、ちゃんと嬉しいよ。うん気分もいい。この調子ならこれからも友達としてやっていけそうだ。
俺が前向きな未来に胸を膨らませていると、トンと先生の身体がぶつかってきた。
「俺でもいい?」
「なにが?」
言われた言葉を理解する前に、先生が俺の冷え切ったのびのびてぶくろの手を取って自分のポケットに突っ込んでしまった。
「わ」
「わ、だって。ダメだった?」
「や! そんなことないけど!」
否定したけど脳内はもちろん大騒ぎになった。
手を繋がれた! しかもポケットインという、これもクラスの女子がウキウキで話していたやつ! 菊池と全然聞いてませんみたいな顔して盗み聞いて、熊田に絶対にやれって話してたやつ!
ポケットの中で握られた手がみるみる温まって、ちょうど前向きな気持ちに膨らんでいた胸が太鼓みたいにドコドコ鳴り始めた。
「ちょっと! ドキドキする!」
正直に言うと、くっくっと肩を震わす先生の振動が手のひらから伝わってきた。
「そうか、よかった」
よかった?
よかったのかな、俺はドキドキしていいのかな。
孝一の交際報告と手繋ぎ帰宅を目の当たりにしたのに、それ以上に動揺させられている。
思っていたよりもショックは軽かったから、どっちかっていうと今の衝撃の方がずっと強い。
いつの間にか孝一たちは角を曲がってしまっていた。
もしかして先生は俺のショックを和らげるために手を握ってくれてるのかな。
前に羨ましいって言ったことがあったし。うん、そんな気がしてきた。
「先生」
「ん?」
「こっちの手も寒い」
孝一からのプレゼントを自転車の籠に置いて、右手も差し出してみた。
先生は「おやおや」と言って、その手も反対側のポケットにしまってくれた。
「あったかい」
俺が笑うと、向かい合った先生も目を細めて、からかうようにポケットの中の手をぎゅっぎゅっと握った。
「この手袋ってあったかいの?」
「正直かなりすーすーする」
「伸びてるんだし、そうなるよね」
両手ポケットインという死ぬほど照れくさい状況なはずのに、先生が笑っているのを見ると、ずっとホッとした気持ちになる。
ドキドキしようが浮かれようが、先生の前では許される。
親がくれるみたいな包み込まれる安心感が先生にはある。
教師になるにはそういう資質も必要なのかもな。俺にはちょっと自信がない。
「なんだか難しい顔してるね」
「今、色々あったからかな」
「なにも誕生日に彼女連れて来なくてもね」
「思ったけど言わなかったのに!」
二人でクスクスと笑って、ポケットの中の手が完全に暖かくなった。
「いいんだ、孝一はいい意味でそうしてくれたんだって分かってるから」
「まあそうなんだろうね」
「親友としてこれからもやっていく。できそうだなってさっき思えたし」
「いいね、前向きだ」
「先生もいてくれるんでしょ?」
「もちろん」
頷いてくれた先生の向こうに星を見つけて、ぐーっと背中を反って夜空を見上げた。
「あー綺麗な星」
「ほんとだね」
ここ最近の木枯らしが雲を吹き飛ばしたのか、空は綺麗に晴れ渡っていた。
冬に近付いて気温も下がってきたし、空気が澄んでいるのかな。
繋がれた手があったかい。胸の中もあったかい。耳はちょっと冷たいけど。
「性的な報告は無視してもいいかなあ」
言うと先生は笑いだして、俺は夜空を見たままひっくり返りそうになった。
「うわっ!」
「おっと」
バランスを失った俺を繋がれた手がぐいっと引き寄せる。頬に柔らかいコートの生地が触れて、ジャンパーの首元からバフッと空気が抜けていった。
腕が、先生の腕が、背中に回ってる。
クラスの女子に自慢したいレベルのアクシデントハグだったけど、パニックで脳の情報処理が滞ったのか、あまりうまく感動が湧いてこない。人生で初めての抱擁だというのに。
「ごめん」
額のすぐ横から先生の声が聞こえた。
「ううん、性的とか言ってごめんなさい」
くっくと笑う先生のあったかい体温の気配を頬に感じて、堪らず目を閉じた。
驚きで止まった息をそっと鼻から吸い込んだ途端、緊張がはらりと解けた。
それは、俺が修学旅行のお土産に買ったお香の香りだった。
母さんに頼まれたのと同じのを先生の袋にも入れた。女性が好きな匂いなのかと思ったから。
「お香の匂いがする」
「うん、高瀬にもらったお香だよ」
「良かった、使ってもらえたんだ」
「好きな香りだったよ」
そっか、気に言ってもらえたんだ。食べ物ばっかりじゃなあと思って選んだけど、やっぱり女の人のことは女の人を参考にするのがいいみたいだ。
息を吐くと肺から空気が抜けて、もっと抱擁は深くなった。
あったかい、それにすごく穏やかな気持ちだ。もっとドキドキするんだと思ってたけど、これも先生だからかな。
「俺の思春期、もうすぐ終わるかな」
「終わって欲しい?」
「うん」
「よく頑張ったね」
ハグは離されないまま、大きな手が俺の背中をポンポンと叩いた。
「一人で不安だったのに、サッカーを離れて、勉強を頑張って。高校であんな誤解があっても親に心配も掛けないで、よくきちんと学校に行ったね」
身体を伝う声が、俺の思春期の走馬灯をゆっくり回し始める。
「変わるのが怖かったよね、成長は待ってくれないし、みんなも待っていてはくれない。好きな人をただ好きでいるのも辛いなんて俺は知らなかった。嘘がこんなに辛いものなのも」
大きな手が頭を撫でてくれて、さすがに胸がぎゅっとなった。
「先生、どうしたの?」
「感心してるんだよ。一人じゃないって言い続けて来たけど、俺は全然何もしてやれなくて、つい物に頼ってしまった」
「ストールのこと?」
「そうだよ」
顔を上げると思っていたよりずっと近くに先生の顔があって、驚いて後ずさった。
「高瀬?」
「ち、近かった!」
「今抱き締めてなかった?」
「てたけど! いやそれじゃなくて! 何もしてやれないって、先生俺の話ちゃんと聞いてた?」
「話って?」
俺は顔がごちゃごちゃと動くのを感じて、眉をしかめて抑え込んだ。
「何にもしてくれてなかったわけないよね? 俺たくさんお礼言ったよね? いてくれて良かったって、先生のおかげで楽しい高校生活送れてるよって!」
「そうだけど……」
先生の物足りなさそうな表情に、違った意味でまた胸がぎゅっとなった。
「ゲイの人に出会わなきゃだめ?」
「え?」
「早く仲間見つけて欲しい?」
「そんなこと言わないよ」
ああやばい、先生が困った顔になってしまった。これは良くない方向へ行ってしまいそうだ。
「ごめんなさい、なんか嫌な言い方になった。そうじゃなくて。分かってるんだ、もっといろんなことを知っておいた方がいいって。先生がそういう意味で言ったんだって、ちゃんとわかってるんだけど」
「高瀬、俺は」
「分かんなくなるんだ、先生が俺にどうなって欲しいのか」
「高瀬が変わった方がいいなんて思っていないよ」
「でも、何かしてやりたいって言ったよね? 今も何もできないからってストールをくれた。もっとこうなればって思ってるからじゃない?」
一歩分の距離が開いた先にいる先生の表情が悲しいような顔に変わった。
あーもうだめだ。お気に入りのプレゼントまで邪推に使ってしまった。
「……ごめんなさい」
「謝らないで、あれはなにかの期待じゃない、俺の自己満足だよ。もし重荷に感じたなら捨ててしまっても構わない」
「そんなことしない! 凄く……気に入ってるから」
ああ本当に自分が嫌になる。こんなんだから先生はもっとなにかやるべきことがあるんだとか思うんだ。俺がこんな風に時々癇癪を起すから。
「ごめんね、誕生日にそんな顔させて」
「違う、俺がまだ思春期なだけ」
思春期なんかを言い訳にして、子どもじみている。甘えだこれは。
身体に先生の腕の感触が残っている。それが逃げてしまわないように自分を抱えた。せっかく温めてもらった手も冷え始めてる。
突然、先生がはーと息を吐いた。
俺はその音に怯えてしまった。
「あのストールは、俺の力不足を埋め合わせたい気持ちもあったけど、高瀬を喜ばせたかったんだ」
顔を上げた先で、先生が気まずそうに右肩を上げた。
「物で喜ばせたいなんて安直だよね」
「俺そんなに暗い顔してた?」
「いいや、凄く楽しそうに俺を着せ替えてた」
思わず笑った俺の頬を先生の指先が摘んだ。
「そのまま、ずっと笑っていて欲しかった」
また胸がぎゅっと音を立てた。
目が合ったまま、気まずかった心がもう一度温まっていくのがはっきりと分かった。
俺に笑ってて欲しいから? そのために三万円以上もするストールを俺にくれたの? なにそれ、全然見合ってないと思うけど。
俺なんて先生といるだけで簡単に楽しくなっちゃうのに。
あれ、これもダメな方向かも。
遠くから六時の鐘が響いてきた。
背筋がぞわっとした。
「一時間も経っちゃった! ごめんなさい先生!!」
「気にしないよ」
慌てる俺を先生は変な顔で見る。
「いや一時間だよ?! バス降りて十分もしないで帰れる距離なのに!」
「それはまあそうだけど、それくらい過ぎてる体感はあったよ?」
先生は眉間に皺を寄せて首を傾ける。
「俺がとぼけたこと言ってるみたいな雰囲気にするの止めて! 早く帰って!」
「はいはい。ハッピーバースデー」
笑う先生に何か言わなきゃと焦って、「手、繋いでくれてありがと!」と言ってしまった。
ストールでいいだろそこは! 恥ずかしい!
思い切りボールを蹴り飛ばしたい気持ちになっていると、先生は、「ハグもしたんだけどな」と来た道を歩き出した。
「それもありがと!」
やけくそで言うと、背中から笑い声が聞こえる。
一度振り返った先生が笑ったのが分かって、大きく手を振った。
先生から移ったお香が香った。




