高瀬の特別なもの
「じゃあまたね」
先生は俺の停留所のひとつ前でバスを降りていった。
路上の先生に手のひらを向けて、ガラス越しにずっと見つめた。
先生が見えなくなって、ようやく両手でストールに触れた。
どうしてかな、全然分かんないな、どうしてこんな高級なものを俺にくれるんだろう。
分からないけど感情は湧き上がる。湧き上がるけど理由が見つからないから、浮き上がった気持ちはふわふわと着地した。
似合ってたから? 今日が楽しかったから?
いやいや、それにしたってこれは高すぎる。
ストールの値段は見ていないけど、コートは六桁の数字が並んでた。恐ろしくて選ぶ時も触れなかった。
先生ってお金持ちなのかな? 公立から私立に変わってお給料が上がったのかもしれない。いやそれにしたって俺がこんなものを貰っていいことにはならないか。
お世話になってるからと、修学旅行のお土産を手当たり次第に袋に入れて、少しはお礼になったかななんて思っていたのに、軽くひっくり返されて八回転くらいしてしまった。
こんなものを俺に買い与えて、奥さんに怒られたりしないのかな。いちいち言わなくてもいい信頼関係があるんだろうなって気もするけど、それにしたって額が高過ぎる。
バスを降りてコンビニを横目に通り過ぎる。レジにいるのはまだ一緒になったことがない人だなと思いながら、家までの道をぽてぽてと歩く。
あ、それだけじゃなかった。今日先生は俺のことを心配してバスを降りてくれたんだった。
俺を呼んだ先生の声と、引き留められた腕の感覚がまだ新しい。先生があんな風に慌てたのなんて初めてだ。
……いや、初めてじゃなかった。
田中の家で俺が紛らわしいメッセージを送った時も大慌てで電話をくれた。会議中だったのに。
俺ってそんなに危なっかしく見えるのかな。
俺はどうしたらいいんだろ、先生は何を望んでこんなに俺によくしてくれてるんだろう。やっぱりこの間言われたコミュニティに参加した方がいいのかな。
その時、上空から唸るような音がして、木の葉を巻き上げた強い風が吹き渡った。
足を止めて目を瞑り、身を竦めてストールに頬を埋めた。耳まで覆ったストールは、完全に木枯らしをシャットアウトした。
一陣の風に高級品の性能をいきなり発揮したストールに感心しながら、また歩き出して納得のいく答えを探す。
変だな、どうしてかな。
ぷかぷかと浮かぶ当ての無い気持ちが、ストールが頬に当たる柔らかい肌触りや、胸元で跳ねるフリンジを見ているとただ嬉しい方へと傾いていく。
足取りまで楽しくなりそうになって、誤魔化すために走り出した。
湧き上がり続ける気持ちがどんな色か見ないようにして、飛んでいかないように鍋に閉じ込めて、蓋を閉めてぐるぐる巻きにする。
それを抱えて走って、走って、ドアを閉めてその前にしゃがみ込んだ。
「帰ったのー?」
部屋のドアの前でしゃがみ込んだまま、「ただいまー」と声を張った。
ストールを外して膝に置く。綺麗なブルー。
部屋を見回して、またストールに目を落とす。
小さな俺の部屋で、どれよりも特別な物だ。
◇◇
高瀬が変わった。
ちょっとだけ楽しそうに見える。菊池と熊田は気が付いていないみたいだけど、文化祭くらいからかな。
スマホを見る回数が増えて、ついに彼女でもできたのかななんて思った。でも俺はそれを高瀬に聞かない。教えてもらえなかったら寂しいからだ。
最近頻発している他校の女子との遊びの誘いも高瀬はすべて断った。誘ってくるのが渡辺だったから遠慮したのかもしれないし、まだあのことを引きずっているのかもしれないし、とにかく出会いは求めていないようだった。
やっぱり彼女ができたのか?
俺は一人、もやもやとしていた。熊田と菊池にも確認したいと思ったが、二人は女子とのやり取りで忙しそうで、この機微に気付いているとは思えない。
「高瀬、このチキン南蛮美味しい!!」
「本当? 良かった」
「おい菊池食い過ぎだぞ!」
文句を言ったが、菊池はスマホを見ていて聞いていない。
菊池は最近楽しそうだ。一年の子と光女子高校の女の子、どちらとも連絡を取り合っているようで、顔面が一日中緩んでいる。
俺も何人かと連絡を取り合ってはいるけど、正直ウキウキしているとは言えない。
唯一俺の過去を知っている高瀬に、この気乗りしないやり取りについて告白した。
「まだ未練があんのかな」
「そうかもね。でもやり取りしてるうちにいい子だってわかるかもよ」
そう言われ、眩しそうに微笑まれた。
じゃあ高瀬はどうして来ないんだ? と思ったけど、言うことはできなかった。
中学時代にも付き合った子はいないと言っていた。童貞だって。それを菊池はあんまり信用していないし、熊田は全然信用していない。俺は、高瀬は嘘はつかないとは思っている。
あんなことはあったけど、高瀬は今でもモテていると思う。
後輩に声を掛けられてるのを見たことがあるし、他校の女子生徒が繋がりたいらしいよとクラスの女子に声を掛けられて断っているのも見たことがある。
高瀬のSNSは通知が信じられない数字で溜まっていて、聞くと、「知らない人ばっかりだから」と笑った。そのすべてが好ましい通知でないのは分かっている。きっと例の事件のせいで心無いメッセージも届いたはずだ。
最初は「紹介しろ」なんて言っていた熊田たちも、告白や誘いをお断りし続ける高瀬に、さすがに何も言わなくなった。
最近、高瀬は一人になりたがる。
前から時々そういうことはあった。ちょっと売店に、トイレに、なんて言って全然帰ってこない。
俺たちはそれを少し気にするけど、そんな日もあるだろうと思って何も言わない。
でも一度それが続いて、なんとなく一人で探しに行ったら、グラウンドの隅の朽ちかけたベンチで一人で座っているのを見つけた。
スマホでもいじっていたなら、「やっぱり彼女だな」なんて思ってにやにやしてやれたのに、どこを見るでもなく、ただぼうっと座っている姿は、見ている俺まで寂しい気持ちにした。
その姿を眺めながら、高瀬がトイレだと言うのなら、そう思っていてやるのが高瀬のためなんだろうと思った。
でも、この間の休日、高瀬を隣の市の駅前で見た。
高瀬は背の高い年上の男の人といて、学校では見たことが無いほど楽しそうに笑っていた。
車が信号で止まって、それから走り出す僅かな時間だったけど、並んで一緒に歩き出した二人の雰囲気に、思わず目を背けてしまうほどドキッとした。
何故かハッキリと、あの人が高瀬の恋人なんだと思った。
そんな風に高瀬を見たことは一度も無かった。でもしっくりきた。
ああそうかと思った。だから高瀬は女子の告白をにべもなく断って、クラスメイトと必要以上に関わらなくて、時々俺たちとも距離を取るんだと。
それは単なる想像だった。実際は親戚のお兄さんとか、単純に俺らよりも仲がいい年上の友人かもしれない。見えた角度がそう感じさせただけかも。でもそう感じた。
俺はそれを聞かない。高瀬に嘘を吐かれるのも、吐かせるのも嫌だった。




