高瀬に似合うブルー
十一月の第三週の日曜日。
普段用ではないスーツに綻びを見つけて、修理をしてもらうために隣の市までバスで向かった。
駅前に着き、あともう一つという所で二分ほどの時間調整があり、「まもなく発車します」のアナウンスで、車窓の向こうに高瀬を見つけた。
見つけたと同時に心臓が強く鳴った。
黒い服の男性に手を引かれ、足早にどこかへ連れていかれている。
大慌てて立ち上がって、動き出そうとウインカーを出したバスから飛び降りた。
「高瀬!!」
駆け寄って腕を取ると、振り返った高瀬は俺を見て目を丸くした。そして、「先生!」と顔いっぱいで笑った。
瞬間、間違いを悟った。
「あ、待ってね!」
高瀬は笑顔のまま、隣に立つ初老の男性にバスターミナルの案内所の方向を告げている。
「わざわざどうもありがとう」
穏やかそうな男性が俺を一瞥し、頭を下げて去っていった。
「はー」
顔を覆って深く息を吐いた俺に、高瀬の不思議そうな声が掛かる。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「ちょっと、早とちりした」
「早とちり?」
走って上がった息を整えて、手短に自分の行動の説明をした。
つい言い訳が欲しくなって、中高生の出会い系アプリでのトラブルが増えていると学校で注意喚起されたことを持ち出して、バスの窓から見えた高瀬が、さっきの男性に連れて行かれているように見えたと告白した。
言ってから、これじゃあ高瀬がアプリで知らない男性と出会おうとしたと疑ったようなものだと気が付いて、失敗を上塗りした自分にまた顔を覆いたくなった。
「それでバスを降りて走ってきたの?」
「そう」
呆れて言葉を失っている人の顔を初めて見た。
「笑っていい?」
「いいよ」
高瀬は丁寧に許可を取ってから笑い出した。
クスクス笑いだったのが、だんだんと身体を揺らし始め、ついに耐えられなくなったのか、「あはは!」と声を上げた。
少し人目を気にしたけど、高瀬が楽しく笑う姿を見ていたら、いつの間にか羞恥心は何処かへ行ってしまった。
ひとしきり笑った高瀬は、喉が渇いたとリュックからペットボトルのお茶を出しながら、なおも涙目で俺を同情するように見ている。
「まだ笑ってていいよ」
「ふふっ、ちょっとお茶が飲めない!」
文句を言われ、「知らないよ」と首を振った。
見間違いでよかった。
そんなことをするタイプじゃないと思ってはいるけど、俺には想像できない部分も持っている。
「ごめんね」
唐突に謝られ、首を傾げた。
「なにが?」
「俺のためにバスを降りてくれたんでしょ?」
リュックを背負いながらこちらを見上げる視線は、もう呆れてはいなかった。
襟の広いトレーナーから鎖骨が見えて寒そうだ。
「勘違いだったけどね」
「出会い系アプリなんか使わないよ」
「ゲイの人専用もあるって見たからつい」
「まあ、前にそんなこと言ったことあったもんね」
二人して決まりが悪い顔になって、笑い合うしかなかった。
強い風が抜けて、やっぱり首元が寒そうだと思った。
「心配してくれてありがと」
細められた目が俺の早とちりを肯定してくれる。
「さっきのが勘違いじゃなかったら、先生はヒーローだったかもね」
「実際は人助けの邪魔しただけだったけどね」
からかわれて自虐するしかない。でも本当に勘違いでよかった。
「それで? 今日は何してるの?」
気を取り直して訊ねると、「おっきい本屋さんに行って来たとこ」と、高瀬の指が馴染みのあるビルを差した。
「いいものあった?」
「参考書買っただけ。あとは図鑑見たりね」
「図鑑?」
「特別展示してたんだ。写真が綺麗な図鑑ばっかりを集めててね、周りは子どもばっかりだったけど」
「そうなんだ」
子どもに混ざって図鑑を眺める高瀬を想像して少し楽しい。
「星雲の図鑑が綺麗だった」
「せいうん? 宇宙の星雲?」
「そ、いつまでも眺めていられそうだったけど、なかなかいい値段だったんだよね」
「高瀬は宇宙に興味があったんだ」
「んーまあ、空を見上げることが多い人生だからさ」
何故だろう、高瀬は明るく笑っているのに、胸が締め付けられる。
どうしたのかな、冬が近いせいかな。
「先生は一人?」
「うん。スーツの修理にちょっとね」
「へえ」
高瀬が俺の手荷物を見て意外そうな声を上げた。
「ひと駅歩くことになったけど」
さっきの勘違いを思い出して、気まずい気持ちを誤魔化すために伸びてきた髪をかき上げると、高瀬の目が俺の手を追う。
「それ、俺も行っていい?」
「え? ただの修理だよ?」
うんうんと興味津々な顔が頷く。
「いいよ」
「やった!」
喜んで小さく背伸びをした高瀬に、気まずさは消えてしまった。
五分ほど歩き、路面店のドアの前で振り返ると、高瀬は歩道の端っこで真顔になって立っていた。
「ここだよ?」
「無理、俺の入っていい店じゃない。ここで待ってる」
「ええ?」
「中屋様」
担当の女性スタッフが気が付いてドアを開いてくれた。
「どうかされましたか?」
香坂さんはいつも通りきっちりと微笑んで、俺たちの様子を交互に窺う。
「彼が自分にはそぐわないから入れないと言うので」
説明すると、香坂さんは目を丸くして高瀬の元に向かった。
「是非、イメージを払拭させていただきたいです!」
「え、あ、いや俺は」
香坂さんは戸惑う高瀬を淀み無くエスコートして店内に引き入れてしまった。
高瀬をプロに任せて、自分はカウンターでスーツのリペアを頼んだ。
「袖口にほつれがあって、一応上下共チェックしてもらえますか?」
「かしこまりました。担当の者に確認させますので、お連れ様とお待ち下さい」
デザイン性の強いメガネの奥の瞳が俺の後方を見て細められた。振り返ると、高瀬が香坂さんにリュックを奪われ、帽子やジャケットを羽織らされている。
スーツを預けて、楽しそうな二人の元に向かった。
「先生ぇ」
泣きそうな顔でストールを巻かれている高瀬に、「ブルーがよく似合ってる」と褒めた。
「ええ! 白もグリーンもお似合いですけど、ブルーが良いですね!」
香坂さんが飛び切りの笑顔で頷いた。
「俺にはまだ買えませんので!」
高瀬はストールを自分で取ることもできず、困った顔をしている。
「試着だけでも是非! こちらもお似合いになると思います!」
「いややや! 本当について来ただけなんで!」
なおも頑なな高瀬に、香坂さんは素早く趣向を変えた。
「では、中屋様に選んでみるのはどうですか?」
「え?」
香坂さんはキリッとした表情に変わって、「中屋様にお似合いになりそうな冬のコーディネートです」
驚いた顔になった高瀬は、おもむろに周囲を見回した。
「先生にかぁ……あ、あのグレーのセットアップかっこいいです!」
展示用に飾られたチャコールグレーのウールの上下を指差した。
「こちら、近くで見るとグレンチェックなんですよ」
香坂さんは説明しながら展示と同じものを手に取って、「中屋さま」と俺を呼んだ。
「はい?」
香坂さんの手が試着室に差し向けられた。
「着るんですか?」
「高瀬様がお似合いになると言っています」
「高瀬様が」
高瀬は自分で言って照れながら、期待する目で俺を見ている。
「先生のチェック柄って初めて見るかも」
「確かに普段は選ばれませんね」
ワクワクした様子の高瀬に、諦めて服を受け取って試着室に入った。
別に普段からこんな高級店で買い物をしているわけではない。式典用のスーツやコート、小物類を時々買うくらいだ。
こんな仕事着にも気軽に着ることもできないタイプの高級な服を買う程の財力は無い。
チェックというより柄物全般を似合うとは思っていないが、着てみると強い柄ではないのであまり気にならない。
遠目には濃いチャコールグレーに見える上下を着て、渡されたミドル丈のコートを羽織った。
鏡を前に少し胸を張って、サッとコートを撫でる。同じ色調の細かい千鳥格子のウールコート。柄に柄を合わせても綺麗にまとまって見える。さすがプロだな、なんて感心しながら、ただ少し左右対称過ぎるように思って、何となく前髪をサイドからかき上げた。俺にできるのはこれくらいの微調整だ。
声を掛けると香坂さんがカーテンを開けてくれ、俺を見た高瀬が、ほっぺたが痛いのかと思うほどギュッと笑った。
「どうです?」
「すごく似合ってます」
「なんで小声なの?」
「大声出しちゃいそうだから」
服が似合ってると何故大声が出るんだろう。
「チェックもお似合いですよ、丈も丁度いいです」
「ありがとうございます」
慇懃に笑顔を返す。
値段は確認していないが、買えばひと月分の給料が飛ぶだろう。
「では次はこれで!」
香坂さんが持っていた服を俺に勧めた。
「え?」
「これで!」
目をらんらんとさせた高瀬に負けて、コーディネートを受け取って試着室に戻った。
それから結局三回も着せ替えられて、高瀬が特に気に入った、グレーのメランジニットを買うことになった。
「楽しかった?」
崩れた髪を撫でつけながら、向かいのソファーに座る高瀬に訊ねた。
「うんすっごく楽しかった! あー最初のチェックも良かったなー」
高瀬は歯が乾くんじゃないかと思うほどニコニコして、出されたコーヒーに驚いて、そろそろと飲んだ。
こんな風に楽しそうにする高瀬を久しぶりに見た。フットサルの試合以来だ。
ブルーが似合うことも、人に服を選ぶのが上手いことも知らなかった。
俺はなんだかとてもいい気持ちになってしまった。
「あ、でもごめんなさい、予定に無いもの買わせて」
「いいよ、似合ってたんだろう?」
心配そうにした顔がまた笑顔に戻って、うんうんと頷いた。
「でも急に高い服買ってきて奥さんに怒られない?」
「そんなこと気にしなくていいんだよ」
いい気持ちが削がれてしまったのを感じて、遊んでくれた香坂さんにお礼を言いに立ち上がった。
香坂さんにまた来てと言われた高瀬は、「頑張ります」と返事をして、笑われながら店を後にした。
外は日暮れ近くなっていて、ちょうど来たバスに一緒に乗った。
「今日はいい日だったー」
一番後ろの席に座って、シートにもたれた高瀬が満足そうに感想を漏らした。
「俺はちょっと疲れたよ」
「ごめんなさい、色々着させて」
「いいや、高瀬は趣味がいいね」
「ほんと?」
嬉しそうに身体を起こした高瀬に頷くと、いきなり顔色が変わった。
「あんなにはしゃいで変だったかな」
「変って?」
「お店の雰囲気壊してなかった?」
不安そうな顔に、店の前で入るのを渋っていたことを思い出す。
さすが香坂さんはまんまと高瀬を楽しませてしまった。
「香坂さんと同じテンションだったから大丈夫だよ」
「えっ?!」
フォローしたつもりが、さらに表情が難しくなった。
どうしたんだろうと思っていると、そっと顔を寄せてきて、「ゲイっぽかった?」と囁いた。
俺は笑ってしまった。
「そんなことはなかったと思うよ」
「どうしよう、心配になってきた……」
そのまま顔色を暗くした高瀬に、笑ってしまったことを後悔した。
ただ楽しく過ごしただけだよ、気にしなくていい。
いつも通りに言葉は浮かぶけど、気分を変えるだけの言葉を掛けることに最近は気詰まりを感じている。もっと意味のある言葉や態度で、多くの子どもたちが当たり前に持つ楽観性や期待感を高瀬にも抱かせてやりたい。
さっきのように楽しく過ごして、その気分のまま眠らせてあげられたら、俺もずっとホッとできるだろう。
車内に次の停留所と最寄りの施設の案内が流れた。降りる人はいないようだ。
「コーヒー美味しかったね」
「……うん。高級なお店ってコーヒーが出てくるんだね」
「そうなんだよ」
結局役に立たない言葉を連ねて気持ちを逸らしてやるしかない。電話越しでもそばにいても、俺のやれることに変わりはない。
幾つ目かの停留所が過ぎて、バスが自分たちの市に帰ってきた。あと三つで俺が降りる停留所に着く。
店の袋を座席に置き、中から箱を取り出して高瀬に渡した。
「何?」
不思議そうにする高瀬の手の上で箱を開け、中の紙を開き、ブルーのストールを取り出した。
柔らかく広がるそれを黙ってしまった高瀬の首に巻いた。
「先生……」
「いいね、よく似合ってる」
寒そうだった首元が覆われて、満足して手触りのいいストールを撫でた。香坂さんがカシミアとシルクだと言っていた。
「貰えないよこんなの……」
「首出して寒そうにしてるからだよ」
「そんなの理由になんないって!」
「高瀬」
大きくなりかけた言葉を遮って、戸惑う目を見つめた。
「俺もすごく楽しかった」
笑って見せると、高瀬は瞳を揺らしてそれ以上は何も言わなかった。
箱を膝に乗せて、恐る恐るストールに触れて手触りを確認している。嬉しそうになりかけた下唇が噛まれてしまった。
「……どうもありがとう」
「うん」
なんだか悪い男になったみたいだ。
でも少し安堵して、息を吐いて背もたれに身を預ける。
寒そうだっただけじゃない、喜ばせたかった。でもそれだけではなかった。
嘘への罪悪感や、俺にばかり偏ったメリットの埋め合わせや、役に立てないことへの贖罪が付与されている。
そんなものを首に巻かせて、やっぱり間違っているかな。それでも不安な気持ちのまま置いていきたくはない。
始まりはずっとシンプルだった高瀬への感情が、今は明らかに混濁している。
普段はきちんと内在している教師としての価値観からは確実にずれて、俺が望んだ『友人』とも違っているような気がする。
目を離した隙に、車外には夜が訪れていた。
遠くに薄紫色の昼の名残が見える。街路樹でイルミネーションがチラチラと明滅して、最近の流行りなのか電球が青くて寒々しい。
歩く人たちはみんなコートの襟を立てて風を避けながら足早に歩いている。
やっぱりストールを買って良かった。
思って横を見ると、静かにしていた高瀬が指先でストールのフリンジをいじっているのを見つけた。
思わず可愛らしいと感じて、手を伸ばして髪を撫でた。
あっとした顔が照れたように笑って、寒々しく見えた青いイルミネーションの背景が、ずっと美しく瞬いて流れていった。




