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先生、おやすみなさい  作者: けもの
高校二年生
41/85

学校祭 3



 学校祭二日目は霧雨だった。急に少し肌寒い。寒暖差に風邪をひきそうだ。


「たーかせー」

 振り返ると、小豆色のてろてろした生地のセーラー服を着た小塚先輩が立っていた。

 水色のビニールテープで作った三つ編みが二つ肩に乗っていた。カチューシャにくっ付いているらしい。

「……小塚、先輩?」

「そうだよ!」

 笑っていいのか首を傾げていいのかわからなくて、頭のてっぺんから足先までを眺めた。

「凄くかわい」

「なぐるぞ」

「はい、全然可愛くはないです」

「高瀬こそなんだその——」

「あ、高瀬の先輩!」

 何か言いかけたところに菊池が駆け寄ってきた。

「君の先輩でもあるんだよ?」

 先輩がにこやかに言って、菊池は、「あ、そっか」と照れた。

「この前来てくれた二人は?」

「校内を回ってます」

「なんだ」

「セーラー服を見せたかったんですか?」

「見せたいと思う?」

「いえ別に」

「知ってる後輩に先輩風吹かせたかっただけだよ」

 その姿で先輩風は吹くだろうか。どうでもいいけどなんで小豆色なんだろ。

「先輩のクラスは何してるんですか?」

 菊池と二人で先輩の格好から何かヒントを得ようとしたが無駄だった。


「女子高生ボーリング喫茶」

「……」

「……」


「あ、三年B組の方ですか?」

 黙る俺たちをフォローするようなタイミングで桜田さんが声を掛けてくれた。

「そうだよ」

 振り返った先輩の背中には、テープで『7』と書かれていた。

「もしかして先輩がピンなんですか?」

「そう!」

 何故か目を輝かせた桜田さんが先輩の代わりに答えた。

「ピンに見立てた女子高生にボールを投げて、たくさん倒すといいお茶菓子が出てくるの! すごく人気で、人気投票で今トップなの! うちも結構いいとこ行ってるんだけどー」

 桜田さんがじれったそうに身を捩って、先輩がため息を吐いた。

「もうさ、ボーリングじゃないのよ、ボールぶつけられんのよ。小さい三角にぎゅうぎゅうで立たされて、でっかいバランスボールが飛んでくんのよ」

「うわーしんどそー」

 菊池が笑った横で、俺はぎゅうぎゅうで立たされての部分で眉をしかめた。

「なんでか人気出ちゃってさ、お菓子が部分的に品薄になって、四人以上倒されるなとか言われるし」

 段々文句の音色になって、苦笑いするしかない。

「いいんですか? ピンが居なくなって」

「いいの、男子が全員ピンだから」と先輩が遠い目になった。

 一応女子高生の格好をしているが、男子は『ボーリング』の部分を担っているようだ。

 人気店の実態に桜田さんが目をぱちぱちさせて、「ま、せっかくなので、記念写真撮りましょう!」と急に商売を始めた。

「いいよ」

 嬉しそうに顔を上げた小塚先輩を菊池と一緒に桜田さんに預けた。

「こちらです!」

「え? 写真は?」

「うちはフォトジェニックスペース、ロリポップメイクアップでーす!」

 菊池がハキハキと言って、戸惑う先輩は女子たちの中へ放り込まれた。


 キラキラメイクにされた先輩はなかなか映える顔になって、やけになった先輩はみんなと写真を撮ってくれた。

「まあまあ可愛いです先輩!」

「高瀬うるさい!」

 二人でいちごシールをほっぺにつけられて、ハートのフレームで菊池に写真を撮ってもらった。

 仕上がった写真に思わず見入ってしまった。

 ハート形のライトが瞳の中にハートを作っている。思っていたより、何と言うか、映える。

「フットサルのとこに貼んなよー」

 先輩に言われて、いいアイデアだと思った。

「えっ? もう貼っちゃった!」

 とぼけてチャットグループに素早く貼り付けると、先輩のスマホの通知が鳴った。

「高瀬この野郎!」

 先輩から逃げつつ、先生にも送った。



「高瀬、休憩入ろうぜ」

 田中たちと入れ替わりに、菊池と二人で校内巡りに出掛けた。


「なんだかんだ俺らも人気でて良かったな!」

「もう応援団でもなんでもないけどね」

 岡本君が考案したツッパリと呼ばれる昔の不良風にコンセプトを変えたら、なぜか指名が増えた。

 髪をかき上げてセットされ、学ランの前を全部開けた。

 どこで売っているのか想像もつかない鋭利なサングラス付けた岡本君は、似合う似合わないはともかく、全く絡まれたくない雰囲気に仕上がった。

 本当はぶかぶかのズボンを履くらしい。昔はワイドパンツが流行ってたのかな。

 以前とは違う意味で集まる視線を気にしないようにして、順繰りに教室を回った。


「なにその髪型!」

 C組に入ると俺を見た持田が笑った。

「かっこいいよ」

 鶴見は気に入ったようだ。

「二人も似合ってるね」

 メイド服を褒めると、二人は照れながらも嬉しそうにした。

 菊池に二人と写真を撮ってもらって、売っていた飴掛けイチゴを買った。

「祭りで食べたやつより美味しい!」

 菊池が褒めるとメイド二人はフライドポテトをおまけしてくれた。



「Dは止めとく?」

 菊池が小声で囁いて、俺は首を傾げた。

「お化け怖いの?」

「え? ああ、お化け屋敷かよ!」

 D組のおどろおどろしい入り口に菊池が仰け反った。

「そうじゃなくてさ、あの子いるだろ」

 ああ、森崎さんのことを心配してるのか。

 思いやりに胸があったかくなって、菊池の背中をぐいと押した。

「大丈夫だよ、行こ」

「え、あ、高瀬!」

「俺はちょっと怖いから!」



 なかなか良くできた作りだった。

 狭い筒状の一本道が敷かれ、恐怖をあおる音楽と、血に塗れた絵も上手い。

 時折フラッシュがたかれ、急に横から悲鳴が上がったりしてビックリさせられる。

「はえー、凝ってるなー」

 菊池が装飾に触れようと手を伸ばしたとき、突然両サイドから腕が現れて俺たちの服を掴んだ。


「「うわっ!!!」」


 逃れようとするが、男の力強い腕が服をしっかりとつかんで離してくれない。

「わわわわっ!!!」

 大慌ての菊池に笑いそうになっていたら、手がすすすと身体を擦りあがってきて鳥肌が立った。

「ひえっ!」

 すぐそばで手の主が笑ったのが分かった。

「離して!」

「撫でんなよお!! セクハラだあ!!」

 菊池が泣きそうな声で叫ぶと、スッと手が消えていった。

「ああもおおおお!!!」

 虫にでも集られたみたいに両手で身体を払う菊池に、なぜだか笑いがこみ上げてきた。

「笑ってんじゃねえ!!」

「だって、ふふっ」

「行くぞ!」


 手首を掴まれて先を進んだ。

 お化け屋敷で手を引かれていることにも笑ってしまいながら、猛然と進んでいた菊池が霧吹きを掛けられて驚く姿に笑い、突然上から降ってきた生首に飛び上がる姿に笑い、不気味に並ぶ白塗りの顔が一斉に眼を開いて奇声を上げ、菊池も負けないくらいの奇声を上げたのを見て、息ができないくらい笑った。


「お化け屋敷で爆笑すんな!!!」

 笑いすぎてへたる俺を菊池が怒鳴りつける。

「だって、ふっ、ふふっ」

 向こうで姿の見えない幾人かの笑い声も聞こえる。

「誰だよ笑ってるやつ!! 腹立つ!!」

「そんなに驚いてくれたら作った人も嬉しいと思うよ」

「うるせえ!!」

 また手を引かれ、「お前も笑ってないで驚け!」

 無茶苦茶を言われながら道なりに大きく曲がると、天井から床まで垂れ下がったビニールテープの暖簾が現れ、血文字で「出口」と書かれていた。

「やっと終わった!!」

 菊池が走ってテープに突っ込んでいった。と思ったら、「うわああああああっ!!!」と目を剥いて戻ってきたので、その場にしゃがみ込んで声も出ないほど大笑いした。

「びっくりしたあああ!!!」

 何を見たのか、しゃがみ込む俺の肩を掴んで揺さぶってくる。

「おめえはなんでそんなに笑ってんだよ!!!」

 キレる菊池にますます呼吸が怪しくなってくる。

「だって、すぐ戻ってきたから」


 久しぶりに涙が出るほど笑って、怒った菊池に抱えられて暖簾をくぐった。

 すると覆いかぶさってくるような大量の生首で出来た壁が現れて、確かにこれはビックリするよなと思いつつ、可笑しさが勝って笑顔で廊下に吐き出された。


「あー!! めちゃくちゃ怖かった!!」

 廊下で叫ぶツッパリ姿の菊池を見て、通行人がお化け屋敷に入っていった。

 笑いすぎて頬が痛い。


「あの」


 振り返ると、森崎さんが座っていた。

「あ」

 菊池が声を漏らす。

「こんにちは」

 挨拶すると、森崎さんはホッとしたように笑って、「室内で撮った写真はいかがですか?」と机に乗ったノートパソコンを見せてくれた。

「今撮ってたの?」

 菊池が驚いて寄ってきた。

「そういえばフラッシュが光ってたね」

 森崎さんが頷き、「三枚あります」と、唇を噛んで画面を見せてくれた。

 見るとどれも菊池が気持ちいいほどに驚いていて、その後ろで俺が爆笑していた。

「綺麗に写ってるな! 腹立つ!」

 菊池が喚いた。

「全部ください」

 データをもらってお礼を言うと、森崎さんがなにかを言おうと顔を傾けた。


「松島さん、元気でやってるから」


 ハッとして、ホッとした。

「よかった、ありがとう」

 頷いた森崎さんに俺も頷いて見せて、「それじゃ」と隣のクラスに入った。



 E組に林さんは居なかった。休憩時間かなと思いながら、売っていたタイ焼きを買った。

 菊池は驚いてお腹が空いたのか、タイ焼きと焼きそばも買って、机をくっ付けて作ったテーブルに向かい合って座った。

 遠くの呼び込み、流行りの音楽、廊下を行き交う女子の笑い声。

 はしゃいだ雰囲気の中で爆笑の名残を頬に感じながら、心からホッとした。

「良かったな、元気だって」

「うん」

 ずっと気になっていたことがひとつ解消した。松島さんは元気でやれている。

 二人は連絡を取り合ってるんだな。友達になったのかな。

「見て、あんこ吐いてる」

 あんこが口からはみ出たタイ焼きを見せると、菊池が噴き出した。

 スマホが鳴って、見ると先生からだった。

『菊池君いい顔してる。高瀬はどうして笑ってるの?』

 タイ焼きを齧りながら、『菊池が面白いくらい驚くから。おばけも笑ってたよ』と返した。

 思い出すとまた笑ってしまいそうだ。

 ふとさっき掴まれた手の感触を思い出して、何気ない会話のつもりで、「菊池はどうして俺と友達になってくれたの?」と訊ねた。

 ずっと気になっていた。菊池は初めから俺をかばってくれていたから。

 菊池は「んー」と唸って、「あの現場で見た高瀬が、凄くショックを受けてるように見えたんだ。だからかな」と、割り箸を割った。

「色んな噂があったのに?」

「信じなくて良かったって思ってる」

 菊池は焼きそばがまだ口に入っているのにタイ焼きを齧った。

「意外と合う」

 笑う菊池に、俺も笑った。

「さっきもさ、あの子とちゃんと目を合わせて話してるの見て、友達になってよかったって思ったよ」

 そうだったかな、意識してたわけじゃない。

「弟がよく言うんだ、目を見てって」

「え?」

「目を見てくれないと、嘘に感じるって」

 急に出てきた『嘘』に、緊張が生まれた。

「アイツはさ、あんまり人の建前ってやつが理解できないみたいなんだ。軽く言われた、できたらやろうぜ、みたいな約束を本気にしちゃうんだよ。そういう性質が原因で、友達付き合いに疲れたのかなって自分で言ってた」

「そうなんだ」

 菊池が乾いた焼きそばを箸で引っ張り出すのを眺めた。

「大樹は、ずっと相手の期待に応えることが正しいと思ってたんだ。そうすれば相手は喜ぶから。でも、だからって気乗りしないことをしたり、軽く言われたことまで頑張ってやろうとして、どんどん心が疲れていった」

「うん」

「そしたら突然色んなことが無理になったんだって。それで、自分がしたいって思う事だけをしようとしたら、家でゲーム三昧」

 菊池が首を竦めた。

「なるほど」

「でも最近になって、生きるにはゲームだけじゃなくて、勉強や人付き合いも必要だって気が付いて、頑張って学校に行ってるんだって」

「偉いね」

「俺もそう思う」

 菊池は口元をほころばせて、クタクタのキャベツを口に入れた。


 きっとたくさん考えたんだろうな。

 やりたくないことも、やらなきゃいけないことも。これから先の人生についても。

 兄の存在は励ましになったはずだ。俺にとっての先生みたいに。

「高瀬もさ」

 タイ焼きから顔を上げると、菊池の目が真っすぐ俺を見ていた。

「みんなの視線が高瀬を傷付けたと思うんだ。俺のもあったと思う。なのによく頑張って学校きてたなって思ったんだ。あんなにジロジロ見られて、どんなに居心地が悪かったろうって。それなのに、その原因のあの子の目をちゃんと見て話してあげてるの見たらさ、いいやつだなって思うじゃん。ある意味取り合う理由も納得できたっていうか? 暴力はだめだけどさ」

 俺はどんな顔をしていいのか分からなくなって、半分になったタイ焼きに隠れた。

「どうした?」

「いや、ちょっと」

 菊池の笑う声がする。

「高瀬は悪くないって、みんなもうわかってるからな」

 やめてよ、泣いちゃうよ。

 スマホがまた鳴ってる、先生かな。


 毎日そこに居る高瀬を見ていたら、それがみんなの高瀬になる。


 先生が言ってくれた言葉を覚えてる。信じて良かった。


 なんとか泣かずに食べ終えて、胸いっぱいでE組の教室を出た。

 D組よりも甲田のいるF組を前にしたほうがよっぽど緊張したけど、「お腹いっぱいだから喫茶店はいいか」と、三階に移動した。

 三年生の階は混雑していた。ただ飲食店が多くて、戸口から教室内を流し見しながら歩いた。

 F組から歩いてB組まで来ると、噂通り人が並んでいた。

 本当に狭いスペースにぎゅうぎゅうに立たされたセーラー服男子が、ボールをぶつけられて、「うわー!」と折り重なるようにマットに弾け飛び、色んな意味でぞっとした。先輩は見当たらなかった。

「来年、桜田がやりたいとか言い出さないようにしような」

「うん」



 三年A組だけがクラス展示だった。

 真っ暗な教室は宇宙空間を再現しているらしい。

 太陽系惑星が吊るされていて、よく見るとちゃんと衛星もついていた。不思議な音楽が掛かっていて、プラネタリウムがゆっくりと暗い教室を廻っている。

「俺こういうの好き」

「俺も」

 孤独ではなくなって、SFと宇宙のブームは去ったけど、まだ好きではある。

 黒い布を掛けられた机が幾つかあって、勧められてそこに座り、言われるがままスマホを渡した。

「宇宙空間に浮いているように見えるんです」と、二人で写真を写してもらった。

「結構ちゃんと浮いて見える!」

 廊下で二人で声を上げ、もちろん先生に送った。


「体育館は行く? 今何やってんのかなー。コントかバンド演奏かー」

 プログラムを眺める菊池の横で、さっきの通知を思い出してスマホを取り出すと、 通知は鶴見たちのメッセージグループだった。

 林さんから、『甲田が枝野に殴られた』という書き込みと、動画が貼られていた。

 胸がざわっとして、それを再生した。


 見下ろす視点、二人を知っている人なら判別できるくらいの距離で、音は無い。

 枝野が甲田を問い詰めるように手振りしている。そしてその手が出し抜けに甲田を殴りつけ、さらに一言二言何かを言った後、甲田を残して足早に去っていった。


『第三校舎裏だね』と鶴見が打って、『女関係かな』と持田。

『林さんが撮ったの?』と鶴見、『ううん、まわってきた』と林さん。


「高瀬、どうした?」

「えと、ちょっと確認したいことがあるから行ってきていい?」

 菊池は俺の顔色に何かを感じ取ったらしく、「うん、行って」と頷いた。

「ごめん!」


 菊池を残して階段を駆け下りた。

 走りだしたものの、どこに行けばいいかは分からなかった。

 林さんか鶴見たちのところに行こうか迷ったが、甲田の居場所など分からないだろう。

 クラスに戻って新田さんを探したけれど見当たらなかった。連絡先を交換しておけばよかったと思って、クラスの女子に聞こうか迷ったが、今までの経験が俺を後押ししなかった。


 

 結局、第三校舎に向かった。

 第三校舎は学校祭のエリア外で、とても静かだった。

 遠くで鳴っている音楽がエコーして、奇妙なゆがんだ音になって聞こえる。

 心臓が少しだけ速い。

 何の確証もなかったけど、準備室の青いドアを開けた。


 また窓が開いているらしく、湿度の高い風が抜けてくる。あの時と一緒だ。

 引かれたカーテンが弱く揺れて、雨だれの音、少しだけ暗く肌寒い。

「お前は俺にGPSでも付けてんのか」

 あの時と同じ場所に甲田は座っていた。切れたらしい口元が血で濡れていた。

「動画が回ってきた」

 手短に言い、近寄ってポケットからティッシュを出して血の滲む口元に当てた。

「いてっ」

 文句を言いたそうな甲田の目を無視して傷口を見ると、見た目ほどは酷くなかった。これから腫れだすのかな。

「待ってて」

 部屋を出て、一番近くの水道でハンカチを濡らし、それから玄関先でPTAが出している焼き鳥屋に行ってペットボトルの水を買った。

「氷を少し分けてもらえますか?」

「いいですよ」

 優しそうな女の人が透明な袋に氷を入れてくれた。


 戻ると甲田が倒れていた。

 びっくりして駆け寄ると、パチッと目が開く。

 ホッとして濡らしたハンカチで乾き始めた血を拭った。

 痛がる顔をするくせに黙って動かない。自分でやれよと言いたかったが、なんだか可哀そうに思ってしまって、そう思う自分と脳内で格闘しながら黙って拭いた。

 シャツに血が飛んでいて、悲惨さを演出している。

「水と氷」

 甲田は氷を取って口に当てた。痛むのか眉が震えている。

「歯はぐらついてない?」

「ない」

 なんで殴られたのか聞くべきか迷って、口は動かなかった。

「じゃあね」

 立ち上がりかけた俺を甲田の目が引き留める。

「なに?」

 甲田は氷を当てながら上体を起こし、開いた手で瞼を掻いて、じれったいくらいの間を取った。

「枝野の彼女が俺に心変わりしたんだってよ」

「え?」

 聞き返すと、氷を外して傷を見せた。それが殴られた理由らしい。

「前に一回寝ただけなのにな」

 思わず顔をしかめた。

「それ、枝野は知ってたの?」

「寝たのは知ってたさ」

 俺はゾッとした。

「童貞君には刺激が強すぎたか」

「童貞とかじゃなくて……いや、俺には関係ないけど」

「エロい子だったって言ったら全力でアタックしてたぞ」

「聞きたくないって」

 頭を振って立ち上がった。

「ちゃんと病院に行った方がいいよ」

「言えるかよ、理由も理由だし」

 甲田は鼻で笑ってまた床に寝っ転がった。

 薄っぺらい体、血が飛んだシャツ。たくさんのピアスが耳に傷を作っている。その姿に、やっぱり悲惨さを感じた。

 孝一の時のように抱きしめたいとは思わなかったが、心配にはなる。

 いったいどんな気持ちなんだろう。

 自分そのものが母親の裏切りの証。今までの全てがまやかしで、あまりにも重たい嘘の代償を全て甲田が背負っている。

 俺に何ができるっていうんだ。自分の身に置き換えても、湧き上がる感情は甲田を否定することにしかならない。

「俺はここにいたらいい? それとも一人になりたい?」

 同情はするけど見せたくはない。俺なら甲田に同情なんてされたくない。

「そばにいてくれるんだ」

 甲田は鼻を鳴らした。

「優しいねえ、モテる理由はそれかあ」

 イラつく気持ちとため息を飲み込む。

「いーんだよ、俺なんか生まれて来ない方が良かったんだから。怪我くらいどうでもいい。枝野がすっきりしたならそれでいい。別にその子と付き合う訳でもないけど」

 甲田はペットボトルの蓋を捻った。

「いってぇ」

 歪んだ口から水が零れて、シャツが濡れていく。

 気が重い。先生ならなんて言ってあげるんだろう。俺には何も思いつかない。あんなにたくさん優しさを貰ったのに。俺はちっとも優しい人間にはなれていない。

 ――俺が会ってみようか?

 先生は簡単にそう言った。俺は自分が嫌だからと断った。先生を自分だけの先生にしておきたくて。でも俺なんかよりも甲田の方が、ずっと先生みたいな大人が必要そうだ。

 ゲイだなんてことは全然大したことがないように思えてくる。別に勝手に大人になって、ゲイのいるところで男と出会って、上手くいけば付き合えばいいだけの話だ。何をもじもじと生きているんだろう俺は。

「お前は贅沢だよ」

 急に非難されて固まってしまった。

「求められても断る自由がある。俺は、求められてないと生きていられない。望まれて、生まれてないから」

 甲田はまた言葉を切り、水を零しながら飲んだ。

「ろくでもない血の通り、ろくでもない奴になった方が親父も楽だろ」


 ああ胸が痛い。いい子になろうとしたって言ってたじゃないか。どうしてその時に誰もコイツを抱きしめてやらなかったんだ。悪くないって、そう言ってやるだけで良かったのに。

「これからずっとそうやって生きていくの?」

 大好きだった人に嫌われて? 安心できる居場所もなく?

 セックスするとどれくらい気がまぎれるんだろう。行為のあった好きな子と、付き合うに至らなかったことは、どれくらい甲田にショックを与えたんだろう。

「驚いた、それ涙か?」

「想像力があるんだよ、俺は」

 ジロジロと見てくる甲田を睨む。

 雨音に混じって知らない音楽が聞こえる。ぼやけたヴォーカル。

「納得できんだよ、優しくされたら嘘だって思う」

 甲田は俺のハンカチでシャツの血を擦った。

「ただ優しい人もいるよ。親ではないかもしれないけど」

「お前とか?」

 違う、なんで俺が。

「必要なら」

 甲田はハッキリと驚いた顔をした。

 俺だって驚いてる。でも先生ならきっとためらわない。いつだってそばにいると言って俺を安心させてくれる。

「変な奴」

 甲田は鼻で笑って、痛みにまた顔をしかめた。

「一人でいるよりは俺でもいたほうがマシだから」

「気が合わないのは分かり合えてるもんな」

 いい加減腹も立たなくなってきた。

「それでも俺は、お前は悪くないとは言ってやれる」

 俯いた口元が少し嬉しそうにも見えたけど、俺の見間違いかも。

「女の子が居れば気がまぎれる」

「でもその耳は自傷行為っぽい」

「そうなのかもな。手首切る勇気があればなあ」

 くっくっと肩を揺らす姿に、ゾッとして奥歯を噛んだ。

 やめてくれよ、最悪の未来を想像させるな!

 先生が甲田に近寄らない方がいいと言った意味が分かった。俺が悪い影響を受けると思ったんだ。弱い心が嫌と言うほど刺激される。

 無視されて、存在を否定されて、そんなことになったら俺だって。

 俺はピアスの代わりにどこを傷付けるんだろう。俺には勇気があるかな。


 結局そのまま無言が続き、なんのかわからないチャイムが鳴って、俺たちは別々にその場を離れた。





「俺は贅沢なんだって」

「彼の価値観で自分を測っちゃ駄目だよ」

 先生の言葉で、ようやく溜まっていた胸のもやもやを吐き出した。

「あいつはどうやったら救われるの? 俺なんかには無理だよ」

「なにもできないときもある」

「でも……」

 じゃああいつはどうなるんだ。俺にしか話してないかもしれないのに、うまく聞いてもやれない。

「彼は真面目に授業に出るようになったんだろ? それはきっといい未来に繋がる。それに、きっとそうすることにした理由があるはずだよ」

 先生は何でこんなに簡単に前向きな言葉を見つけられるんだろう。

「孝一は、早く親から自立するためだって言ってた。親を捨てたいって。甲田もそうなのかな」

「そうかもしれないし、全然違う理由かもしれない。彼とは仲は良くないんだろ?」

「うん」

 いいわけない。なのに先生との時間を使ってあいつのことを考えて、馬鹿みたいに思うし、凄く気になって堪らない。

「全部を話してると思わない方がいい。高瀬だって俺に全部を話してるわけじゃないだろ? 言わない事もあるはず」

 そりゃあある。先生の声でいったとか。

「そう、かも」

「ね? 俺は全部知りたいよ? でも、言いたくないことは言わなくていい」

 違うよ先生、俺だって本当は全部言いたいんだ。今でも時々フットサルの後にはちょっとそういう気持ちになったりする。でも引かれたくないし、嫌われたくない。

「俺は高瀬を嫌ったりしないよ」

 心読まないでよ先生。

「うん」

 分かってる、先生はきっと全部受け止めてくれる。違う、今は甲田だ。

 あいつだって嫌われたくなんかないはずだ。家の人だって痛々しいピアスが増えていくのを見ているはず。中学時代にいい子になろうとした姿だって。

 ああ、なんで俺が甲田のいいところを見つけてやんなきゃなんないんだ!

 何度目かの深いため息に、先生が俺を呼んだ。

「今日はもう眠ろう。考えすぎないで、まずは自分を大切にするんだよ?」

 優しい言葉は俺の頬を撫でて、胸の中を安心感で満たした。

 こんな風にアイツにも言ってあげて欲しい。

「先生」

「うん?」

「一緒に寝てくれる?」

 言ってみて少し恥ずかしい。でも先生も前にこう言った。

「いいよ」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 多分これはいけないことだ。でも今日だけ。

 俺は目を閉じて、先生の腕の中で眠った。



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