思春期について
勃起事件の後も、孝一とは変わらず過ごせている、と思う。もう家へ行こうとは思わなかったけど。
ただあの日から孝一を見る目は変わってしまった。
四六時中いやらしい目で見るようになったとかそういうことではない。股間が隆起してあんなに騒いだくせに、その部分じゃなかった。
健気。
常に最善の判断をするために、孝一は一瞬も気を抜いていなかった。もう癖になっているんだろう。隙がなく、間違いもない。
俺はそれが彼の生まれ持った個性だと思っていた。息を吸うように、心の流れに身を任せてそうなんだと思っていた。でも違った。よくよく注意して見ていると、きちんと思考が見て取れた。
発言の前、行動の前に、素早く周囲を窺って、正しさを導き出すための間があった。
気が付くととても怖くなった。思わず眉をしかめてしまうほど。その凝らした正しさの裏に、あの両親が存在しているのがはっきりと分かった。
「お前、無理してない?」
三教科テストで満点を取った孝一に、思わずそう訊ねていた。その時の孝一の顔を俺はきっと一生忘れない。
「早く自立したいんだ」
あの後に知ったのは、孝一の両親が上手くいっていないのは、近所の人間なら風の噂でみんな知っているということだった。
公園沿いにある孝一の家は、おじさんの設計事務所が建てたおしゃれな一軒家でとても目立つ。
都市部にも近いこの町で、それでもお金のある人ならあそこの事務所に頼む、くらいには力のある会社だ。
おじさんの事務所には、フランス帰りのいいデザイナーがいるらしい。綺麗な人だそうだ。
孝一のお母さんも綺麗な人だ。元々モデルをやっていて、今も季刊誌で自分の連載ページを持っている。同年代に向けたファッションや美容法なんかが人気があって、SNSのフォロワーも少なくはない、らしい。
泉小のやつらにちょっと聞いたら色々と教えてくれた。
なぜ俺は知らなかったんだろう。小学校が違うから? 俺が孝一の親友だからだろうか。スマホをまだ持たされていないからだろうか。
そしてさらに分かったことは、おじさんがその美しいデザイナーと一緒にいるのを何度も見かけられていること。おばさんが週単位で不在にする時が頻繁にあるということ。
目立つ人というのは、いてもいなくても目立つらしい。
だからと言って、誰もそれをネタに孝一をからかったりはしなかった。それくらい孝一は正しく生きていた。
知られていると分かってるのかもしれない。正しくしていないと突かれてしまう、そう思っているのかもしれない。
俺だけが知らなかった。いや、だけじゃないとは思うけど、でも一番そばに居たのにちっとも気が付かなかった。そして知るべきじゃなかったと思った。
俺が話題を振ったせいで、時々そういう下世話な話をしてくるやつが出てきた。自分から探っておいて、俺はそいつらを突っぱねなければならないことに苛立った。
どうやら壊れている孝一の両親の関係だけど、サッカーの試合には時々二人でやって来る。
幾人かの親が二人に寄って行き、頭を下げあい、にこやかに談笑している。別に普通の親同士のやり取りだ。今までならそう思って終わりだった。でも今日は、少しだけ二人の態度が横柄に感じる。あんな噂が子どもたちの耳に入っても構わないという、自己中心的なメンタリティが滲み出て見える。
そんな風に思ったことはなかった。いつも優しいおばさんだと思っていたし、ちょっと威圧感があるけど、きちんとしたおじさんだと思っていた。
孝一は二人のことを見もしない。二人の登場理由が純粋な息子へのエールのためではなく、世間への取り繕いだと分かっているから?
でも孝一の両親は、真結ちゃんが所属している市民子ども楽団の発表会には来なかった。
発表会と言っても、地域のお祭りのステージイベントだ。小学生のダンスや、詩吟を披露するお年寄りに混ざった演目の一部。
楽団は人数が少なくて、中学生の吹奏楽に混ざって演奏していた。俺はそれを孝一に誘われて見に行った。
出番を待つ間、子どものダンスをたくさんの親が撮影してるのを見て、「親には期待してない」と孝一は言った。
真結ちゃんに動画を見せてあげる後ろ姿を見ながら、俺の心はまたゆらゆらと揺れた。
これは強がりなんだろうか。孝一の人生はいつからこうなんだろう。俺はなんて言えばいい? 友人として、親友として。
親に言われて買っていった小さな花束を真結ちゃんに渡すと、とても嬉しそうにお礼を言ってくれて、孝一にもありがとうと笑顔を向けられた。
でも俺は小さな花束しか渡せない自分に首を傾げてしまった。二人の感謝を真正面から受け取ることが、なんだか申し訳ないような変な気持ちだった。
親に期待ができないとはどういうことだろう。それなのになんで二人はこんなに正しく育っているんだろう。
孝一の両親にはこの二人がどう見えているんだろう。見えていないのかな。
二人の姿が痛々しくて、俺はまた孝一を抱きしめたいと思った。
段々と孝一が特別な存在になっていくのが分かった。それから、自分が女の子に興味がないようだとも。
年頃の男子が男だけになった時、必ず誰かが女子の話をした。それは大抵クラブのロッカールームだ。
誰と誰が付き合ってるだとか、キスをしただとか、校舎裏でやっていたのを先生に見つかっただとか。おおよそ本当だとは思えなかったけれど、そんなのは重要じゃないと分かった。ただ楽しいんだ。
ぎゃあぎゃあと大げさに驚いては詳細を知りたがり、先輩の話や又聞きの話まで出てきて話が尽きない。嬉々として語る奴の顔がほんのり赤かったりすると、見ていて腕を掻きむしりたくなるほど恥ずかしい。みっともない姿を見せられているみたいに居た堪れなくなる。
そんな気持ちにさせられて腹が立つのに、関心が湧いてこない自分にも恨めしい気持ちになる。
あれがこの年頃なら誰もが興味のある話題なんだ。誰の胸が大きいだとか、スカートが短いだとか、漫画雑誌のグラビアのどの子がかわいいだとか。
「俺はこっちの子が好き」
孝一が雑誌に指をさしているのを見た瞬間、眉間が焼けるように痛んだ。
体中の不快感が全てそこに集中したみたいに、黙っていられないほどの痛みと圧迫感に襲われた。
「……ちょっと忘れ物」
誰にも聞こえない声で呟いてロッカールームから出ると、ほとんど走って薄暗い校舎に向かった。
クラブ終わりの生徒達の騒がしい気配を避けて、太腿を大きく動かして進む。
今すぐ静かで暗いところに行きたい。
夏なのに寒気がする。でも耳は熱い。
靴下のまま階段をふたつ飛ばしで上がって暗い廊下を行く。焼けつくようだった眉間の痛みは、もはや頭痛に変わっていた。
酷い顔の自分を早く誰にも見られない場所に連れて行きたかった。みんなから離れたい。孝一から遠くへ行きたい。あの雑誌からも!
「高瀬」
「ああもうっ!!」
聞き覚えのある声に気持ちがあふれた。
振り返った先にいた中屋先生が、薄暗い廊下で驚いた顔をしていた。
「……すみません」
開いていた教室に入って隠れると、「ううん」と、入り口側のドアから入った先生が電気を付けた。
「付けないで!」
思わず叫ぶと明かりが消えた。教室がまた暗闇に包まれる。
イライラが湧いてくる。一人になりたいだけなのに。どうしよう、なんて言えば一人にしてもらえるだろう。
「高瀬」
「はい」
「もしかして、勃起してる?」
「……は?」
変な声が出て、同時にプシュッと全身から強張りが抜けていった。
「ごめんね?」
申し訳ないように言われて、俺は慌てて否定した。
「いや、してないし!」
「なんだ、よかった」
なんてことを言うんだこの人はと思ったけど、張り詰めていた心は戸惑うほど軽くなって、圧迫されていた胸にたっぷりと空気が入ってきた。
「してたらどーすんの?」
「走って逃げる。あ、ティッシュはあそこ」
窓辺にあるティッシュボックスを先生のシルエットが指し示す。
「してないってば!」
強く言い返すと、力んでいた反動か、急にくっくっと笑いがこみ上げてきた。
「笑ってるね」
「あんなこと言うからだよ!」
「先にあんなこと言ったのは高瀬じゃなかった?」
「そうだけど!」
笑ってしまう唇を親指と人差し指でぎゅむっと摘むと、帰宅する生徒の声が階段室を通って廊下に響いた。聞き覚えのある声がして、またスッと気持ちが下がる。
「一応、どうした?」
先生の声が俺を窺う。
「一応、なんでもないよ」
「ならいいけど」
「大丈夫」
言うと、先生が笑ったのが分かった。
「なに?」
「いいや、大丈夫じゃないんだなと思って」
「……」
うん、そうなんだよね先生、大丈夫じゃないんだ。
全然大丈夫なんかじゃなかった。何が大丈夫じゃないのか分からないのに、ただ走って逃げたくなった。
逃げたってしょうがない。だって俺の中から混乱が生まれているんだから。でも居てもたっても居られなかった。
ここ最近はずっと落ち着かない。あの事があってから、急に聞いていられない話題が増えている気がして。その度に居心地の悪くなる自分が、みんなとは違うんだって確信する。
気分が浮き沈んで、いつもイライラしてる。そして一番イライラする時は、大抵孝一が絡んでいた。
また顔が歪んでいる。暗闇だったけど、先生に見られたくなくて俯いた。
「先生」
「ん?」
「思春期ってさあ、なんだっけ」
声が震えないように腹筋に力を入れて訊いた。
先生は黙って俺に背を向けて、一番前の机に腰掛けた。
「心と身体が大人に変わっていく時期のこと」
答えてくれる大きな背中を見つめる。
「自分とは何か、何を求めて、何になっていくのかを考え始める時期。とても不安で、怖い時期かもしれないね」
先生が俺に寄り添うために言葉を付け足してくれたのは分かっている。不安なんかない、怖くなんかないと言ってやりたい。思春期みたいに。
でも俺は確かに不安で、怖がっている。
孝一を好きなのかもしれない。気になってる。さっきのは明らかに嫉妬だった。
でもそれさえも心の表層で行き来している感情に思える。俺の気持ちの真ん中にはただ強い恐怖がある。
好きだと認めたら、それで話を進めたら、俺は何に変わっていくことになる?
漠然とみんなと同じだと思っていた。何もしなくてもそこに居られた。でも今は違う。
不快じゃなかったことが不快になって、同時に強い苛立ちを感じる。俺は必死に取り繕いながら、なんとかみんなと同じように振舞うけど、違和感ばかりが募る。
心と体が何かに変わろうとしている。
その考えを肯定するみたいに、膝が痛むほどに身長が伸び始めて、声が変わって、今までなくても何の問題もなかった場所に毛が生え始めた。
まるで俺が正しい道を見つけたみたいに、成長が加速していく。内も外も全てが見慣れない形になっていく。しかもまだ変化の途中だ。
俺なのに俺には決められない。理性も知性も、本質は変えられない。
みんなが女の子を求めるのは本能だ。心と身体が成熟してきた証。そう思うことになんの恐れもなくて、違和感もなくて、みんなで当たり前に共有している。でも俺はその中に入れない。
「みんなは怖がってるようには見えない。早く大人になりたそうで、わくわくして、楽しんでるみたいに見える」
声が震えるのも構わず言葉にした。これを話す人がこの人しか見当たらない。
「高瀬はみんなと同じになりたいの? なりたくないの?」
違うんだよ先生、その二択じゃない。
「なれない、ような気がしてる」
「まだ、なだけじゃなくて?」
違うんだ、それでもない。
「ずっと、かな」
「それは、怖いよね」
――その時、校舎にチャイムが響いた。
「ごめんなさい、帰る」
走って逃げだした俺を先生は引き留めなかった。
思えば自分でする時でも、女の子を想像することはなかった。ただ手を動かして、気持ちがよくて射精していた。
かといって男を想像することもなかった。孝一のことだってもちろんない。
でもみんなの行為はそういうものではないようだった。もっと具体的なきっかけで、性行為に繋がる想像を働かせてするものらしかった。
俺はまたひとつ不安を抱えた。