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先生、おやすみなさい  作者: けもの
高校二年生
27/85

高瀬からの連絡


 時々無意識に左手の親指が薬指の付け根を撫でている。指輪があった時の癖だ。

 遺留品として渡された絵美の指輪と一緒に自分のも棺に入れてもらったら、ひとつになって燃え残っていた。


 亡くなって一年が経って、まだ事故現場にも行けていない。

 行くつもりがあるかといわれると、あるとは言えなかった。

 何でもない交差点だったと絵美のお父さんは言っていた。悔しそうでもなく、疑問を感じているようでもなかった。相手が完全に過失を認めていたからだろうか。

 涙はもう出なくなった。環境を変えたお陰か、それとも高瀬のお陰だろうか。

 自分で分かっている、俺は少し、高瀬に依存し始めている。


 クリップを外し、答案用紙のチェックを始める。

 こういう時に社会科教師は楽だ。答えと回答が同じかどうかでチェックできるから考え事ができる。国語や数学だとそうはいかない。

 心の中の靄を振り払いながら、同時に手を動かす。

 あの夜、高瀬と再会したことは、俺の人生にとっての幸いだった。

 鬱々とした毎日に、自分の孤独以外に目を向ける時間をくれた。

 もちろん高瀬にとっては辛い時期なのだと分かっている。それでも、その辛さを分けてくれることが、俺にはプラスに変わった。

 日々を共有してもらえることがこんなにも幸せだと、結婚していた時には思っていなかった。当たり前のことだと思っていたし、興味の無い話題は耳に残らないことさえあった。

 別段、絵美のすべてを知りたいとは思っていなかった。

 絵美は元気で、そのアクティブさには到底付いていくことができないような人だった。でもそんなところが眩しいほど好きだった。

 お互いの人生の枠組みに、いくらかの重なりがあれば充分だと感じていた。


「あなたは感謝が足りない」

 

 母の言葉が胸を突いて、ペンを持つ手が止まった。

 最近になって、あの言葉が頻繁に心をかき乱すようになった。

 思い出す度に腹が立つのに、余りにもよく心を刺してくるから、きっと自分の中で引っかかる何かがあるんだろうと思い始めている。そして同時に、その何かを知りたくないと強く思う。

 単純で幼稚な母への反抗心もあったし、絵美の死を今よりももっと深く悲しむことになる気がした。

 微かに膨らんだ感情を音を立てずに吐いて捨てた。

 今日はいつ頃連絡をくれるだろう。

 チェックの終わったプリントを重ねてクリップで止める。

 辛いことがなければいいと心から思うのに、孤独や不安を慰めてやれる瞬間の喜びも求めている。

 心が健常な時は必要のなかった卑しい欲望だ。

 高瀬を利用して気を紛らわせているだけだろうか。

 高瀬のことを考えて、自分の抱える孤独から目を逸らしてるだけだろうか。

 彼の負担を言い訳に嘘を吐き、彼の苦しみを糧に生きている。どこかで妻の死の方が辛いと思って甘えているんだろうか。

 自分が嫌になるのに、俺は今この瞬間も、高瀬からの連絡が来る夜を待っている。





 あの日先生に会えてから、俺の毎日は少しずつ楽になっていった。

 先生は以前とは雰囲気が変わって、チョークの粉で汚れた紺色のスウェットを着ていた頃よりもずっと大人らしく見えた。

 奥さんがオシャレに気を遣ってくれてるのかな。

 世話を焼かれる先生はあまり想像ができない。先生なら、なんだかんだとはぐらかして自分の好きにするだろうと思った。

 でもきっと結婚するくらいの相手なら、自分の主義など簡単に曲げてしまえるんだろうな。

 自分もいつかそういう相手に巡り会えるんだろうか。

 考えて、頭を振って振って振り払った。

 イメージしようとしたところで詳細はハッキリしない。

 もうずっと霧に包まれた道を歩いている。自分がそうだと気が付いてからずっと。

 上っているのか下っているのか、どこに向かっているのかもわからない。

 俺はどこへ行けるんだろう。行先を自分で選ぶのは無理な気がした。自分がゲイになることを選べなかったように、きっとこの先も、運命とかそういうものが決めていくんだろうと思う。

 いつか時が来たら霧が晴れるのかもしれないし、ずっとこのままなのかもしれない。ぶつかった何かや、落ちていた何かを拾うかどうするか迷うような未来しかない気がしている。

 でも先生が現れて、俺の足元をほんのりと明るくした。少しだけ歩きやすくなって、少しだけ歩幅が広くなった。その少しは、俺を十分励ました。

 学校生活も何気なく過ごすことができている。

 みんなが俺の存在に慣れてきている雰囲気があった。そして俺も、気配を消す生活に慣れてきた。

 元々そうやって三年間を過ごすつもりだったんだ。最大級の関心を経て、気安く立ち入られない距離を得たことは、ある意味では最強のバリアを手に入れたのと同意なのかもしれない。

 メンタルには結構悪かったと思うけど。

 前向きというよりはやけくそに近い開き直りで、無口なのも致し方ない男子としてみんなの記憶に定着していこう。

 それに、俺には先生がいる。

 毎夜、先生とのやり取りの間だけは、ありのままの自分でいられた。無口な毎日でも、話したいことはちゃんとあった。それを先生には全部聞いてもらえる。


 大丈夫、そのままで。

 ほんとかな。

 本当だよ、心配しないで。


 そんなやり取りを思い出して、わずかな角度、上を向くことができる。


「祐!」


 顔を上げると、孝一が走ってくる。

 前と同じ、ハンノキ公園のブランコ。

「久しぶり!」

「久しぶり、孝一」






 高瀬からの連絡は、だいたい夜半ごろにやってくる。

 今日が終わる気配と、明日がやってくる気配の混ざり合う時間だ。

 前は一番辛い時間だった。

 一人のまま今日が終わり、変わらずに明日が来る。眠り損ねると耐えられなくて外に出ていた。


 何でもない話題が多かった。他愛ない日常のトピック。

 体育で長距離を走ってみたら体力が落ちてただとか、北海道からきた転校生のお弁当に大きなホタテのフライが入ってただとか。

 けれど時々気になる問いが入る。

 女の子は自分なんかのどこがいいんだろう、だとか、先生は小さいころヒーローごっこをしたことがある? だとか。

 もちろんあったけど、怪獣役の姉にはいつも勝てなかったというと笑っていた。


『将来は何をして生きるんだろう』


 これが届いた時、俺はつい、なんにでもなれるよなんて言いそうになってしまったけど、なんとか踏みとどまった。

 俺には社会生活を送る同性愛者の知り合いはいない。彼らが居心地よく暮らしているといいとは思うけど、それがどこでどんな風に営まれているのかは分からない。

 そしておそらくずっと未婚でいることが、当人や家族にどんな感情を湧かせるかを考えたことはなかった。

 高瀬はそんな体温の違うメッセージを同じ温度感に調節してバラバラに送ってきた。

 なんでもない会話に思えるものが、高瀬にとっては意味深いのかもしれないと、時々やり取りを見返してみたりする。

 高校生になった高瀬の感受性は、高瀬から明るさや積極性や期待感を失わせているようだった。

 自分と周囲の人たちとの違いや、過去と現在の自分の違いに戸惑って、何も言えなくなって、何も始められなくなって、何も思い描けなくなっている。

 一年生の時のことは分からないが、おそらく女子生徒二人の揉め事が、より一層高瀬から自信を失わせたんだろう。

 高瀬から見れば、同級生たちは皆、若さのまま、思うままに経験をして、みずみずしく成長しているように見えるだろう。根拠のない自信が無限に湧いてくるような時期なのだから。

 かっこ悪さや恥ずかしさを振り切って、未知の体験に踏み込んでいく彼らを高瀬はどんな気持ちで見ているんだろう。

 胸がざわついているのは、高瀬からの連絡が無いせいだろうか。


 土日は少し辛かった。

 絵美と共通の友人が、一周忌に顔を出せなかったからと、絵美の好きだった桃を送ってくれた。

 食べようと思って箱を開けると、手が震え始めた。

 立派な桃色のそれから食べ頃を告げる甘い香りが漂って、胸の中に五つくらいの強い感情が競り合うように湧き上がってきた。

 それは地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように、桃の香りに引き寄せられて群がってきた直情的な何かだった。

 慌てて箱を閉じ、ガムテープで目張りして直ぐに姉のところへ送った。

 それでも桃の香りは、終日、幻覚のように俺の周囲で漂い続けた。


 週が明けて月曜の夜になっても高瀬からの連絡はなく、今日もまた、午前零時を過ぎようとしている。

 缶ビールの残りを一息に飲んでソファーに身を投げた。

 明日こっちから連絡をいれようと決めたところで通知音が鳴った。


『孝一に会った。元気そうだった』


 電話をしようか迷った。迷って、やっぱり掛けてみることにした。

 コール音を聞きながら、自分が声を聞きたいだけのような気もして、妙な気持ちになった。

「もしもし」

「俺だよ」

「先生ね」

 くすくす笑う声がして、安堵感で胸が満ちた。

「どうかな、こっちが名乗るまでは信用しないほうがいいんじゃない?」

「詐欺なの?」

「かもしれないからね」

 詐欺かもしれないし、ただの嘘つきかもしれない。

「じゃあ切った方がいい?」

「おっと、もう少し話を聞いて? 大変なことが起きたっぽいから」

 高瀬は笑いながら、「あやしい」と言った。

 笑い声を聞くと安心する。ただ、高瀬を笑わせるのはかなり簡単だ。友達は知っているのかな。

「それで? 元気で、あとはどうだった?」

 ようやく話を元に戻すと、「うん」と頷いて、小さく息を吸う音がした。

「楽しくやってるみたい。前よりももっとガタイも良くなって、でか! って言った」

 笑い交じりの報告に、自分の口元もほころぶ。

「そうか、サッカーを頑張ってるんだね」

「そうみたいだよ」

 高瀬は、孝一君を羨ましく思うんだろうか。

 好きだった相手が、自分が諦めたサッカーを続けてますます逞しくなっていく姿を見て、俺ならどう感じるだろう……分からない。

「好きな人がね、いるって言ってた」

「え?」

 内容よりも、少し気を張ったような声の響きが気になった。

「真結ちゃんの友達のお姉さんなんだって。年は同じで、その子に会いに帰って来たみたい」

 その子に会うついでに、自分にも会いに来たのかと思っただろうか。俺ならきっと思うだろう。

「どう思ったの?」

「どう……思った?」

「そう」

 高瀬が黙ってしまって、堪らない気持ちになった。

「……いいなって、思ったよ」

 声が潜めたように小さい。

「その子が? 恋が?」

「どっちかって言うと、恋かな」

「どっちかって言うと?」

 ベッドがきしむような音がした。

「あんなことはあったけど、孝一と付き合いたいとは思わなかったから」

「そうなの?」

「うん。そんなこと、思いたくなかった」

 それは少し自分を戒めるようなトーンだった。

「悪いことだって思ってる?」

「だって、気持ち悪いって思われたくない」

 高瀬の声は変わらず潜めたように小さかったが、いい方はきっぱりとしていた。

 そんなこと思われたりしないと言ってやりたいのに、それには何の根拠も無くて、あまりに無責任すぎて言えなかった。

 詰まりそうな息を殺して、額を揉みながら気分を変える言葉を探した。

「孝一君は、そういう話をする相手が他にいるのかな」

「え?」

「割と硬派なイメージだったからね」

「誰にも言ってないって言ってたよ」

「そうか、高瀬には話せるんだね」

「そうみたい」

 嬉しい気持ちが電話越しでも伝わってきた。

 恐らく高瀬は、孝一君との友情がある今に納得しようとしているんだろう。きっと少しは何かを思う気持ちもあるんだろうけど、それを認めさせる必要はない。

 いつか高瀬が恋をして、それを心から応援する日は来るだろうか。相手がゲイなら頑張れと言える? 俺には彼らの恋愛がどんなものかも分からないのに。

 俺はその時の高瀬の、何か意味のある大人になれるだろうか。

 俺には関わりのないコミュニティに行ってしまって、高瀬と孝一君のような関係でもなくて、昔、少し関りのあった大人として、風化する思い出の中にカテゴライズされるんだろうか。

 思わず眉間に皺が寄った。

 教師なんて職業はいつもそうじゃないか、何を寂しがっているんだろう。


「いい続報があるといいね」

「うん、そう思う」



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