安心できる居場所
息を吐いて、胸のつかえをひとつ空に捨てた。
爽やかな風が吹いている。空も木々の緑も彩度が高く、近い夏を予感させる色をしている。
夏が来る。俺の好きな夏。
世界は生き生きと萌えているのに、俺はとぼとぼとバス停まで歩いた。
先生と話したいな。でも休み明けってきっと忙しいよな。
すっかり日課になった先生とのやり取りは、初めのうちは先生から来るのを待って始まっていたけど、いつの間にか自分からも送るようになって、今では何かがあってもなくても、夜になると自分からするようになっていた。
先生は、厳密には今はもう俺の先生ではないけど、その認識は続いていて、休日や祝日には連絡を控えた。
それに気が付いた先生は、「気にしなくていいよ」と言ってくれたけど、ただでさえ平日の夜という勤務時間外に話をしてもらっているのに、土日祝日まで休みなしで構ってもらうのは、さすがに気が引けてしまった。
「好きにしていいけど」と先生は、休日になんでもない風景の写真なんかを送ってくれたりする。
でも、ゴールデンウィークは一度も先生からの連絡がなかった。奥さんと旅行にでも行ったのかな、なんて思いつつ、ちょっと寂しい。
とはいえ、俺の連休は平和だった。
ちょっと両親と近場に出かけて、隣の市の改装された図書館に行って、後は林さんが美味しかったと言っていたドーナツを食べた。
美味しかったドーナツの写真を先生に送ろうか迷ったけど、なんとか我慢して林さんたちとのチャットに張り付けて、美味しかったよと報告した。
そんな独りよがりの連休が終わって、これで先生に連絡ができると思いつつ、休み明けは忙しそうだとか言い訳を思いついては、夜に向けてまごまごとしている。
チラと俺を見るバス停の生徒に気付かないふりをして、少し離れて並ぶ。
まだ毎日は少し怖い。
でも、友達らしき人は出来た。菊池君と田中君と熊田君。俺に気軽に声を掛けてくれる三人。
先生に話すと、良かったねって言ってくれた。
良かったのかはまだ分からない。俺はあの事があって、男女ともに距離感がさらにわからなくなっていた。
先生が言ってくれたように、そのままの自分で居ようとすることは、俺に対する注目度の維持された校内では、分不相応な振る舞いに思えた。
熊田君はともかく、菊池君と田中君だって、事件やあの噂について、何も思わないわけではないはずだ。
三人が俺に声をかける度、俺が口を開く度に、クラス中の窺う気配を感じた。あるいはそれは俺の妄想なのかもしれない。
次の日には忘れてしまっても構わないような雑談でさえ、笑えばいいのか、ただ頷けばいいのか、よく気を付けないと分からない。
気を付けて笑ってみても、笑うことに小さな罪悪感は今も付いてきた。
幸い、前は凄く気の滅入った異性の話を三人はしない。俺に気を遣っているんだと思う。わからないけど。
孤立しなかったのは奇跡だったし、三人には本当にありがたい気持ちでいるけど、それでもやっぱり授業中が一番落ち着く。
黒板に向かうみんなの中に居ると、いつかまた人に紛れた日常に戻れる未来が来ると信じることができた。
やってきたバスに乗って、出口近くの吊革に掴まる。
朝、みんなで俺の話をしているのを聞いてしまった。
噂はかなり詳細だった。概ね正しく広まっていたことだけが救いだったけど、どこで生まれたのか、俺の行動が起因しているのか、良くない噂も同じように漂っている。
自分の知らないところで自分の話が共有されるというのは、こんなにも怖い気持ちになるんだと知った。
教室に入れず廊下で立ち尽くしながら、導かれるように孝一のことを思った。
孝一もこんな気持ちだったんだろうか。自分の両親の噂を知りながら、家での言い争いに耳を塞ぎながら、外ではあんなにも正しくあろうとしていた。
どんなに息苦しかったろう。噂は風のように気ままに広まって、みんな素知らぬ顔をする。
誰が知っていて、誰が知らないのかは、当人は知ることができなくて、すれ違った見知らぬ誰かが、後ろで自分を振り返る妄想をする。
どの風に吹かれても立っていられるように、自分だけは正しくいよう。そう思った孝一は、やっぱり強くて美しい人間だと思った。
気の小さい俺は、ただ気配を消している。
無害な者として、気にも留められない人間になりたいと願うことしかできない。
結局、連休明け二日後に、先生にいつもの時間にメッセージを送った。
『休み明けから森崎さんが学校に来た。廊下で謝られて凄くみんなに見られたけど、気にしないでって言っといた』
少しして、滅多に鳴らない電話が鳴った。慌てて受けると、「もしもし」と先生の声がした。
「先生?!」
「そうだよ。何時も驚くけど、登録してないの?」
「ちゃんとしてある。びっくりしただけ」
言いながら、久しぶりに声を出して笑った。
「掛けて良かった?」
「うん、大丈夫」
「全然連絡くれないから、ちょっと寂しかったよ」
「嘘だね」
「本当なのにな」
とぼけた声の先生に、耐えられずまた笑ってしまう。
ああ、やっぱり落ち着く。先生、俺も寂しかったよ。言わないけど。
「森崎さん、元気そうだった?」
聞かれて、森崎さんの泣きそうな顔を思い出した。
あの特徴的な声を、俺はきっと中学の時に聞いているんだろう。
「うん。顔の傷も綺麗に治ったみたいだよって、担任の先生が言ってた」
傷口がどこかは分からなかった。血がたくさん付いていたから。
またあの時の二人を思い出して寒気がした。
胡坐を組んだスウェットの裾を無意味に引っ張って冷えた気持ちを誤魔化す。
「良かったね」
何でかな、先生が言うと良かったような気がしてくる。
「うん。ただ、もう関わらないように言ってあるって先生は言ってたんだけど、がっつり呼び止められて謝られた」
静まり返った廊下。視線が刺さって、あの日が思い出されて全身に鳥肌が立った。
森崎さんだってきっと怖かったはずだ。それでも謝ってくれた。
「どうしても、ちゃんと謝っておきたかったのかな」
「俺も、気にしないでって言えて少しホッとした。そんな上から言う権利ないけど」
「高瀬?」
「分かってるよ! 俺は悪くないって言うんでしょ? 分かってるけどさ」
「それでも高瀬は気にしちゃうよな、そこが良いところだもんな」
先生がからかって言ってるのが分かる。
「分かったもう気にしない!」
やけっぱちに言うと、「良い子だね」と満足そうな先生の声がした。
まるでわがままを言っていたような気にさせた先生に、くすぐったい気持ちがする。そしてもうひとつ、聞いてもらうことを思い出した。
「クラスの人がね、みんなで俺の話してた」
「聞いちゃったの?」
「うん、廊下で。凄く居た堪れなかった」
「何か、辛い言葉があった?」
「ううん。まあ中には俺にも原因があるんじゃないのって言う人もいたけど、菊池君が庇ってくれた。それに、同じ中学だった人が、悪い噂は無かったって言ってくれてたみたい」
「そうか」
「特待辞退したこととか、原因不明でクラブを辞めただとか、そういう話も知られてて、噂って凄いなーって」
「居ないところで自分を語られるっていうのは、あんまりいい気持ちじゃないよね」
「まあ、うん」
「芸能人ってそう考えると凄いメンタルだね」
急に芸能人を持ち出されて「確かに」と笑う。
先生が体勢を変えた気配がした。
「慣れていくしかないよ。高瀬も、みんなもね」
「みんな?」
「どんな噂があっても、毎日そこに居る高瀬を見ていたら、それがみんなの高瀬になる」
「毎日緊張するじゃん俺」
「そのままでいいんだよ、変わったりする必要ない」
高校三年間を平和に乗り切りたいと目標を掲げた俺は、好奇心に満ちたみんなの中で初めからズレていた。みんなが出会いを求めていることに気が付いていたのに、それが自分に向けられるとは思ってもいなかった。
友人だと思っていた女の子に立て続けに告白をされて断ると、そこには何も残らなかった。
喋ったこともない女の子が俺を好きになる理由は今も分からない。
森崎さんと松島さんはサッカーをやっていた俺を知っていた。だから、少しだけ納得できた。
今の俺の好意的に受け取ってもらえる部分はどこだろう。勉強に真面目で、清潔感はあるつもりだ。話していて、感じも悪くはないはずだ。多分……。
孝一に倣った部分が女の子にうけたのかもしれないな。そう思うと、なんとなく嬉しかった。
「俺のままか」
「そうだよ、心配しないで大丈夫」
「うん」
先生の言葉には、簡単に俺を頷かせる力がある。
大人だからかな。信頼してるからかな。俺は何がきっかけで先生を信頼したんだっけ。どうしたら人に信頼して貰えるんだろう。
俺はやっぱり孝一を思い浮かべる。
毎日正しく生きるしかないのかもしれない。それは凄く大変そうに見えたけど、先生はそのままでいいって言ってくれる。それならできそうだと思える。
「先生、いつもありがと」
「お礼なんか要らないよ、気も使わなくていい。いつだって迷惑なんかじゃないからね」
自分がそのままで居られることが、こんなにホッとするなんて知らなかった。
自分が孝一のそれになり損ねたことを俺はいつまで後悔するだろう。
「さ、今日が終わるよ、眠れる?」
「うん、おやすみなさい」
「おやすみ、また明日」
電話を切って、少しだけ孝一のことを思って眠った。




