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先生、おやすみなさい  作者: けもの
中学生
2/85

帰りたい夜



 小学二年から続けていたサッカーを辞めた。

 親友を好きになったからだ。


 中学から一緒になった泉小の孝一は、三年生が抜けてすぐからうちの不動のキーパーだった。

 ディフェンスも上手かったけど、とにかく背が高かった。

 誰からも好かれる穏やかな性格で、頭も良かったし、この年の男子にしては珍しく清潔感があった。

 決定的に周りと違ったのは、責任ということについてよくわかっていた所だ。

 中学生としてやらなきゃいけないことを理解して、面倒だと思う気持ちを自分で処理して行動できた。学業、クラブ、一年生、ポジション。

 だからもちろん大人ウケも良かった。


 俺はというと、小学生の時から人よりも幾分サッカーが上手くできた。いや多分かなり上手かった。

 ユースから声をかけられたこともあったし、そもそも対峙した相手を上手いと思うことがなかった。すごいすごいと知らない人にすら褒められるから、俺は小学生のうちはかなり自分に自信があったと思う。周りを下手だなあと思っていたし、点差が付きすぎるとつまらないと思った。でもあまり思ったことを言わない性格だったことで、そこまで嫌なやつだとは知られずに済んだ。

 高学年になる頃には試合全体をコントロールできていたと思う。

 監督が望む試合展開になるよう働くのは面白かったし、チームメイトが思惑と違う行動をすると、監督よりも先にさりげなく指摘した。

 監督は怒りっぽかったし、注意されたチームメイトが萎縮するのが嫌だった。


 中学に入ると、俺は先輩たちからすでに一目置かれていた。

 うちの市は地域クラブ化が進んでいて、いつも小学生と中学生は隣り合って活動していたし、先輩は殆ど馴染みのある元チームメイトだ。

「お前が中学生になるのを待ってた!」なんて言われたりして、チャンスをくれる監督に応えてそれなりに活躍できていたと思う。

 元々守備力が高いチームだったから、俺のおかげで勝率が上がったと、かなり甘やかされた。

 そのうち俺目当てらしいファンみたいな子も試合を見に来るようになって、噂を聞いた同級生に特別な眼差しを向けられた。

 思春期にそんな扱いを受けても俺が調子に乗らずに済んだのは、そこに孝一が居たからだった。


 孝一はそれまで別のクラブに所属していたが、うちの監督に教わりたいと中学に上がってから移ってきた。

 新一年生の自己紹介でそう言った孝一に、俺はそんな理由でクラブを変えることがあるんだなあと感心した。

 俺は隣で中学生を教えている田所先生がどんな指導をしているかなんて一度も気にしたことがなかった。赤色が好きな五十代くらいのおじさんとしか思っていなかった。

 孝一のいたクラブは市で一番規模が大きくて強い。弱いというならまだしも、強いチームから抜けるのだから、レギュラー争いに負けたのかと邪推したくなるが、孝一の体格を見れば誰もそんな考えには至らなかった。

 成長に必要な栄養をたっぷり摂取してきたんだろうという感じ。身体の全てのパーツが大きくしっかりとしていた。

 孝一は点を取るという意味では俺よりもサッカーが上手いわけではなかったけど、明らかに守備的なポジションを得意としていた。体格に恵まれ、冷静で頭が良かった。

 目を惹かれずにはいられなかった。

 俺は直感的に、彼には自分の驕った心を知られたくないと思った。得点やアシストを決めるたびに伸び上がりそうになる鼻を何度も叩いて落ち着けた。傍若無人になりそうな俺の『子ども』を落ち着けるための、孝一は言わば指針だった。

 邪な心は持たず、まるで人生二週目みたいな孝一のように振舞う。

 そうして中学時代の俺は、自分の才能を鼻にかけない、清潔で落ち着きのある男子としてみんなの記憶に残っていったと思う。

 堅守だった三年生が抜け、二年生が主力のチームになると守備力は落ちた。以前よりも失点は増えたけど、前の工夫で得点も増え、見ている分には面白い試合をしていたと思う。

 結果、キーパーに入った孝一の存在感は強くなったし、俺の得点力もさらに持て囃された。二年にあがる頃には、うちは俺と孝一のチームだったと思う。




 いつも赤色のジャージを着た田所先生は、選手の自発性を育てることを意識した人で、勝利よりも育成を念頭に置いていた。

 前時代的な精神論はなく、トレーニングも個別に組んでくれたし、指示にも常に理由を語った。俺にとって一番面白かったのは、監督が対戦チームについて詳細に情報収集していたことだ。そのくせ試合展開については相手がどう来るだろうという予想はしても、どういこうかという部分は俺たちに決めさせた。ハーフタイムにも状況分析をするだけという人で、「さあ、どうする?」と問われた殆どのチームメイトは戸惑っていたけれど、俺は自分の思うようにできるとわくわくした。それは新しいサッカーの楽しさだった。

 ますますサッカーにのめり込みながら、俺は孝一を真似て勉強にもきちんと取り組んだ。孝一には追いつけなかったが、百六十人程の学年の、二十番辺りをうろうろしていた。

 サッカー以外の流行りものには興味がなかった。

 みんながスマートフォンを持ち始めて、ゲームやSNSの話をしているのを聞きながら、何も知らないことをいじられたり教えてもらったりすることで交流はできた。

 俺はサッカーで多少持ち上げられていたけれど、目立つのを良しとしていなかったこともあって、流行りに疎い自分でバランスを取っていた。

 それに孝一も同じように、流行り物に興味がなかった。最新のスマホを持っていたけど、連絡以外で使っているのを見たことがなかった。そのことにも安心していた。


 孝一はその長身と穏やかな雰囲気で、どこにいても存在感があった。性格も良かったからみんなが慕っていたけど、孝一を見習って素行を真似ていた俺は、孝一にとっても気の合う友人になっていったと思う。

 全力でサッカーをして、チームメイトの下らない話で馬鹿笑いした。そして二人でよく勉強をした。

 勉強を真面目にやるチームのやつは他にいなかったから、いつも二人で学んだ。

 一番の親友は誰かと聞かれたら、迷わず孝一と答えていたと思う。あの日までは。




 六月の第二週、土日のクラブが休みになり、孝一に誘われて夜中の代表戦を観ることになった。

 夕食を済ませ、部屋着で孝一の家へ向かう。

 何度来てもこの家の立派な門を前にすると、インターホンを押すのをためらってしまう。でもその日は庭に孝一がいて、中から開けてくれた。

 俺を待ってくれていたのかと思ったけど、庭には小五になった妹の真結ちゃんもいて、いつもなら笑顔で話しかけてくれるのに、今日は無表情で白いガーデンテーブルに肘をついて座っている。

「なんかあったの?」

 真結ちゃんを見たまま訊ねると、「ちょっと親が揉めてて」と孝一が声を小さくした。

「真結ちゃんのことで?」

「いや、自分たちのことだよ」

 俺は驚いた。この家の夫婦喧嘩は、子どもが外に避難しないといけないほどなのか。

「帰った方がいい?」

「いや、すぐ終わるよ」

 孝一はなんでもないように首を振って、落ちていたボールを蹴った。

 孝一の言った通り、ほどなくしておじさんが外に出てきた。

「お、祐希くんか」

「こんばんは!」

 俺は直立で声を張って挨拶をした。運動部の癖だ。おじさんはチラッとそんな俺の全身を一瞥する。これはおじさんの癖だと思う。

 いつも通りおじさんの髪はきちんとセットされて、洒落た服を着こなしている。

 こういう人と対峙する時、こちらはダサくある方がいいのかお洒落な方がいいのか、正しい服装における謙遜について考えてしまう。いや、多分きちんとしてた方がいい。

「泊っていくんだって?」

「はい、サッカーを見ます!」

 ついもじもじしそうになる手を後ろに隠す。

 おじさんは社長という肩書のせいか自然な威圧感がある。余計な口を挟む余地がない感じ。まあ挟みたいこともないけど。

「メロンが冷えてるから食べていけよ」

「ありがとうございます! いただきます!」

 頭を下げてお礼を言うと、おじさんは笑顔のまま手を上げた。

「じゃ」

 え、と思ったが飲み込んだ。

 おじさんは孝一たちには何も言わず、さっさとガレージに入っていって、黒い高そうな車に乗ってどこかへと走り去った。

 ゆっくり閉まる電動シャッターの音を聞きながら、この時間からどこに行くんだろうと思ったけど、後ろの兄妹には絶対に聞くまいと思った。

「入ろ」

 孝一に言われて玄関に向かった。庭を振り返ると、真結ちゃんが芝生の上で大の字に寝転んで空を見上げていた。

 胸がざわざわした。見上げた空は曇っていた。


 いつも綺麗にお化粧をして、ひらっとした服を着て、「いらっしゃい祐くん」と笑顔で迎えてくれる孝一のお母さんが見当たらない。

 どこかの部屋で悲しんでるのかな。いつも通りのおじさんを見た後だからか、心配してしまう。

 でも、どちらが悪いのかは双方の話を聞いてみないとわからない。そう母さんが言っていた。


「ごめんな」

 部屋に入るなり孝一が謝った。

「孝一が喧嘩の原因なの?」

「いいや」

「じゃあ謝んなくていいよ。まあ、俺でも謝っちゃうと思うけど」

 段々声が小さくなる俺に、孝一が笑った。

「座ってて」

 言われてソファーに腰を下ろす。

 部屋にソファーがあるのを羨ましいと思っていたけど、広い部屋の真ん中に座らされるのは、タイミングによってはこんなにも居心地が悪くなるんだと知った。

 机に向かった孝一が、教科書だのノートだのをパタパタと閉じている。勉強もしていられないほどの言い合いだったのかな。

「ごめんな、タイミングが悪くて」

 あと五分遅ければ、おじさんが行ってしまった後だったのに。

「祐まで自分のせいじゃないのに謝るなよ」

 孝一の声がいつもより弱々しい気がする。そう感じてしまうと、それ以上続けられなくなった。

 トン、と辞書を立てた孝一が、思い切ったように口を開いた。

「うちの親、よく喧嘩するんだよ。お互いに何かにつけて突っかかってさ、そのうち聞いてるのも嫌になる。外なら聞こえないから、こういう時のために二階の非常口に俺と真結の靴を置いてあるんだ」

 この家は二階に非常口があったのかと思いながら、「そんなに大きな喧嘩になっちゃうのか」と感想を零す。

「もうお互いを信じてないんじゃないかな。でも外面はいいから外では喧嘩しない」

 孝一は呆れたようにハッと息を吐いた。

「息が詰まるよ」

 はっきりとわかるほど、孝一の表情は大人びていた。

 俺は孝一の大人な部分を見習ってやってきたけど、こういうことが理由だとは思いもしなかった。

「見られたのが祐でよかった」

「え、そう?」

 俺はちょっと慌てた。俺に人を慰めたり励ましたりする才能はない。そういうのは健人が上手い。

 チームメイトの顔を思い浮かべていると、孝一が俺を見て笑った。

 孝一は確かに笑顔を向けていたけど、俺は今にも泣くんじゃないかと思った。そんな孝一を見たのは初めてだった。

 誰にでも優しい孝一の心が、実はこんなにも弱っているんだと知って、俺の心はざわざわと揺れた。その揺らめきの向こうに見慣れない感情が見え隠れしている。

 誰も知らない友人の弱味を見たことを喜んでいるとしたら、俺は自分を殴りたいと思ったろう。でも俺は別の意味で自分を殴りたかった。孝一に触りたいと思ったからだ。

 泣き出しそうな顔で笑う孝一の頬に触れて、抱きしめたいと思った。はっきりと映像が浮かんで、全身がぞっとした。

 慰め、なんて言葉が誤魔化しになるとはっきりわかった。じゃあ何なのかと言われるとよく分からない。

 頭の中で自分が何かを叫んでいる。言葉にならない強い否定的な感情が側頭部を締め付ける。

 黙って机を片づけている孝一を見ながら、だんだん俺もおじさんのように車に乗ってここを去りたくなってきた。

 寒気のように全身が震えて、髪が根本から逆立つような感じがする。心臓がうるさい。車なんかいらないから走って逃げようか。


「今日が、祐が泊りに来る日でよかった」


 孝一の顔を見て息が止まった。

 安堵と疲弊が混ざりあって、裏側に何もないのが分かった。その無防備な表情に、また胸が強く打たれた。

 言葉を失った俺に気付かず、孝一は幾度目かの息を吐いて辞書を机の上の棚へ戻そうとする。伸ばした辞書を持つ太い腕、つっぱったシャツ、そして前のめりに机へ押し付けられた腰の辺りに目がいった瞬間、股間がうずいた。

「ひゅっ」と、喉が鳴った。

 明らかな違和感を股に感じて、顔面の毛穴が全部開いたかと思った。視界の端で孝一が動くのが見えて、慌てて近くにあったクッションを抱えた。

 心臓が早鳴り、息を吐くのを忘れそうになる。頭の中で言葉にならない声がまた喚いている。

 ぎゅっと目を瞑って、ちゃんとした言葉で自分を鼓舞する。

 落ち着け、息を吐け、ゆっくり! 落ち着いて!

 鼻から漏れる息が震えている。どうしよう、静かな空間が耐えられない。

 俺は股間がなにか変な音でも立てるんじゃないかと意味の分からない恐怖に駆られながら、素早く視線を動かしてテレビのリモコンを手に取った。

「テレビつけていい?」

「うん」

 孝一はペンをケースにしまっている。

 赤いボタンを押すと、暗い画面に番組案内が表示された。音声がきて、映像はまだこない。うちのリビングにあるより大きいテレビの初動が、異常に遅く感じた。

「この時間なにやってるっけ!」

 妙に明るい声が出た。と、隣に孝一が座った。

「なんだろうな」

 握りしめたリモコンがテレビの音量を大きくした。

「あっ、あのさ、言ってなかったんだけど!」

 慌てて音量を下げつつ、大急ぎで思考を巡らせる。

「なに?」

「実は……俺、めちゃくちゃメロン好きなんだよね!」

 俺が精一杯の笑顔を向けると、なぜか孝一は噴き出して、「了解。待ってて」と、部屋を出て行った。

 ドアが閉まり、足音が遠ざかる。


「はああああああっ!!」


 胸の中に溜まった色んな色の気持ちを全部吐き出して、抱えたクッションに突っ伏した。

 待って、いやなにこれ、やばいだろ、俺やばいだろありえないだろ!!

 顔面でクッションを叩き、落ち着けと何度も唱えて姿勢を整えた。

 ぴっと座って背筋を伸ばしてみる。そっとクッションをどけて様子を伺うと、膨らんだ股間が存在を主張して、ぞっとしてクッションを戻した。

 帰りたい。どうしたら帰れるだろう。

 違う違う! 考えるところが違うだろ! なんで俺は勃起してるんだよ! なんで急に勃起するんだよ! 興奮するところなんてなかっただろ!!

 脳内で喚きながら、さっきの孝一の表情を思い返す。

 日頃の穏やかな姿がギャップを生んで、胸が突かれるように切ない。

 そうだ、どれかっていうとあれは同情だ。すごく心配だし。あれ? もしかすると俺はサディストなのかもしれない。人が弱っている姿に興奮する生き物なのか? それはそれで大問題だぞ。

 あーーーーっ!!!

 思いもよらないことが次々に起きて、現象と原因を上手く繋げられない。けど今ここで解き明かしてはいけない気もする。なにせ夜はこれからだ。

 永久にメロンが切れなければいいのに。孝一がキッチンでメロンに手こずり続けて、俺は一人サッカーを見て、朝がきて家に帰るんだ。

 ガチャッとドアが開いて孝一が入ってきた。

「お待たせ」

 いや早すぎるだろ!!

「なんか切ってあったわ」

 お母さんかな、お母さんだろうね、用意がいいね。

 品のいい甘い香りが漂って、一口サイズに切れ込みの入った青肉メロンがガラス皿に乗せられている。

「めちゃくちゃおいしそう!」

「うん、食べよ」

「いただきます!」

 顔面が変になっているのは分かっていたけど、これが限界だった。逃げ出したかった。

 俺は抱えたクッションを汚さないよう、妙な姿勢でメロンを次々飲み込んだ。

 メロンは美味しかったし、バラエティのコントは面白かったし、サッカーは白熱したけど、すべてが動揺に飲み込まれていた。

 孝一にゲストルームのベッドを勧められたけど、立ち上がる勇気はもちろんなくて、ソファーで寝ることを選んだ。

 夜は静かだった。

 すぐそこで孝一の寝息を聞きながら、一晩中俺は自分を怖がった。


 

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