二人の罪、俺の過失
落ち着かない空気のまま五時間目の授業が始まって、六時間目が始まる前に担任の溝口先生が俺を呼んだ。
クラス中が静かになって、出口へ向かう俺にみんなの視線が刺さった。
職員室の横の会議室に入ると、学年主任の蛯名先生と女の先生がいた。確か教頭先生だ。
引き戸が閉められて六時間目のチャイムが鳴った。その音が終わるのを待って、溝口先生が口を開いた。
「高瀬は、さっきの件について何か言いたいことはあるかい?」
「いいえ」
「何もないのか」
蛯名先生の威圧感のある声に、もう一度首を振るのがためらわれて言葉を探した。
「二人とは、今年に入ってからは距離を取っていたので」
「どうして?」
溝口先生の穏やかな声を頼りに、お正月の出来事を思い返す。
「友達が、二人は俺のことが好きだと思うと言ったので」
「高瀬もそう感じた?」
「いいえ」
「じゃあなぜ距離を取る」
視界で蛯名先生の足先が苛々と揺れている。
唾を飲むと、喉に釣り針でも引っかかっているみたいな痛みがあった。
「気持ちにこたえられないからです」
「友達だった?」
「はい。去年の十一月の終わりごろから話すようになって」
「じゃあ、よく話していたのはひと月くらいなんだ」
「はい。初めは別々のきっかけで知り合ったんですけど、初詣の神社で二人に会って、その時に友達だと聞きました」
「きっかけっていうのはどんな?」
渇いた口の中の少ない唾液をかき集め、言葉を選び取る。
「松島さんは図書委員で、俺は図書室を利用するので」
「うん」
「森崎さんには、シュークリームをあげたんです。買えずにがっかりしてたから」
「そうなんだ」
溝口先生がゆっくり頷いて、じれったそうな蛯名先生が姿勢を直した。教頭先生は黙っている。
「二人は中学生の時、高瀬のファンだったそうだ」
「ファン、ですか……」
やっぱり、嘘っていうのはそのことなのか。
薄ぼんやりした記憶の中の、俺のファンと呼ばれていた幾人かを思い出そうとしてみるけど、二人に似た面影さえ思い出すことはできなかった。
そして唐突に、甲田が俺に言った、「ファンとやりまくっている」という言葉が頭の中で響いて、喉が締め付けられるように苦しくなった。
「中学時代に声を掛けられたりしなかったのか」
蛯名先生が相変わらず鋭い口調で問い詰めてくる。
「そういうのは、うちの監督が禁止していたので」
「じゃあ、話すようになるまで二人のことは知らなかったんだ」
溝口先生の質問に、また頷いた。
空気をかき乱すように蛯名先生が深く息を吐いた。
「俺のせいなんですか?」
俺は三人の先生を順番に見ながら訊ねた。教頭先生と目が合い、少しだけ微笑んでくれる。
「君のせいというか、二人で君を取り合ったみたいだね」
溝口先生が、穏やかに事情を教えてくれた。
「二人に何か気を持たせるようなことを言ったか」
そこが一番重要な部分だというように、蛯名先生が圧を乗せて問う。
「蛯名先生」
勢いを諫めるように、溝口先生が蛯名先生を呼ぶ。
俺はただ首を横に振った。
そんなことをしたつもりはない。でも俺には分からない。
俺が友達のつもりでも、相手は俺を好きになったりする。三人の友人は、俺を悪い男だと言った。あれが本当なら、俺は知らないうちに二人に気を持たせるようなことを言ったのかもしれない。
でも俺はゲイだ。二人と付き合うことはできない。
でもそれを二人は知らない。知ってたらあんな事にはならなかった。それは絶対にそうだ。だからやっぱり俺のせいだ。
「泣かなくていいよ」
肩に温かい手が置かれた。
「顔に、怪我してた」
「あんなもんはかすり傷だ」
蛯名先生が鼻で笑った。
「高瀬君」
教頭先生が俺を呼び、俺は涙を拭って顔を上げる。
「これは強制ではないけど、放課後、君のスマートフォンを見せてもらえる?」
「二人とは、連絡先は交換していません」
「それを信じてもいいんだけど、相手の親御さんには、私たちがチェックしてそうだったという方が納得してもらえると思うから」
俺はポケットからスマホを取り出した。
「放課後でいいですよ?」
「俺は、先生たちにも納得してもらいたいから」
教頭先生は微笑んで、俺のスマホを受け取った。
次の日の土曜日、親も呼ばれて話合いになった。と思っていたが、俺と俺の両親は別室に通されて、隣の部屋にいる松島さんと森崎さん、そしてそれぞれのご両親の話合いには参加しないと言われた。
「どうして俺はあっちに行かなくて良いんですか?」
隣室の微かな人の気配を気にしながら訊ねると、溝口先生は両手を組んで優しく笑った。
「君の言う通り、連絡は取り合っていなかったね。二人もそう言ってた。二人が君の事で揉めたのはそうなんだけど、どうも二人とも、中学時代からお互いに面識があったみたいなんだ。それを隠して君に近付いたみたいだね」
「なんで拗れたんですか?」
先生は視線を母さんに向けると、少し口調をハッキリとさせた。
「そもそもライバル視していたみたいです。お互いフェアにアプローチしようと言っていたみたいなんですが、何がきっかけか、まあそもそもがライバルだったわけですから」
俯いた先にある、青白くなった手を握り合う。
「もう、サッカーはしてないんですけどね」
「それはきっかけだったんだろう。ただ君のことが好きで、ライバルがいたこともあって、強く執着してしまった」
あんな風になるほどの価値が今の俺にあるんだろうか。中学時代だってあったとは思えない。
「そうだ、君の友人が証言に来てくれたよ。二人からプレゼントを渡されていたけど、全部きちんと断ってたって」
鶴見たちだ。わざわざ言いに来てくれたんだ。
「……はい」
だって気持ちには応えられないから。
「偉かったね、もし貰っていたら少し話は変わっていたかもしれない」
偉くなんてない。だって俺は重要なことを隠してるんだ。ここにいる両親にも言ってない。誰にも。
落ち込んだ瞬間、血の付いた二人の顔が思い出されてゾクッとした。
「二人はどうなるんですか」
父さんの質問に、溝口先生は顔を曇らせて俺から目を逸らした。嫌な予感が胸に広がる。
「暴力がありますから、三日から、一週間の停学処分となります」
「停学処分ですか」
母さんが驚いたように呟いた後、言葉を失くした。
ああ、二人の人生が曲がってしまった。俺なんかのせいで。
「実は——」
先生はテーブルにあったタブレットを取って、幾つか操作をした後、画面をこちらに向けた。
映し出された画像を見て、息が止まった。
それは写真を投稿するSNSのスクリーンショットで、表示されていたのは、夏休みに発表会を見に行った時に真結ちゃんと写したツーショット写真だった。
「この子は?」
母さんが俺を見る。
「孝一の妹の、真結ちゃん」
「ああ……」
母さんはハッキリと思い出せたとは言えない声を出した。真結ちゃんが母さんの記憶よりもずっと成長しているからだろう。
先生が画面をスワイプして、コメント欄のスクリーンショットに変わった。
『高瀬くんにくっ付くなブス!』
文字がこめかみを強く痛めつけた。咄嗟に目を逸らして、それからもう一度見る。
お友達からの、『頑張って』のコメントや、kouichiと書かれたアカウントからの、『祐サンキュー! 真結頑張れ!』のコメントが下に続いているのに、その酷いコメントにいいねが10も付いている。
「これは松島さんのアカウントです。彼女と森崎さんで、複数のアカウントからこのコメントにいいねを押したそうです。全てではないですが、いくつかは二人で。この子はどういう知り合い?」
硬く握った手に涙が落ちる。
「友人の妹です」
「お付き合いしてる子?」
「いいえ。友人が遠くの学校にいるので、代わりに発表会を見に行ってあげて欲しいと言われて」
「そうか……」
先生がため息と共に肩を落とした。
何ひとつ正しくなくて、全て俺が起因している。
俺がゲイじゃなかったら、二人に見覚えがあったろう。
俺がゲイじゃなかったら、告白してくれた誰かと付き合っていただろう。そして恋人がいる俺を見て、二人は喧嘩なんてせずにすんだだろう。
でも俺はゲイで、それを隠しているせいで、普通との齟齬が生まれている。もうずっと。
一体何のために有るのかが、もうよく分からなかった。
こんなことになってしまうなんて。
君は何も悪くないよ。
溝口先生がそう言ったように聞こえたけど、幻聴のようにも思えた。
隣の部屋から誰かの啜り泣きが聞こえて、母さんか父さんが、俺の背中を摩った。
森崎さんは一週間の停学になり、松島さんは転校した。
俺は何の罪にも問われなかったけど、翌週からみんなの視線に晒されることになった。
二人の処分が重たかったこともあって、詳細をみんなが知りたがっていた。
SNSに知らないアカウントからメッセージが幾つも届いた。俺はそれを通知だけ見て開かなかった。
クラスのみんなは気を遣って様子を窺っているようだったけど、他のクラスの生徒や上級生たちは、些かのためらいもなく俺を見て何かを囁き合っていた。
朝会で溝口先生が出欠を取っている最中に、甲田が、「先生」とだるそうに声を上げた。
「何ですか?」
「どうして高瀬は処分がないんですか?」
「何についてですか?」
「女子の流血事件です」
甲田の声が少し大きくなった。
「二人の停学に至った暴力に、高瀬君は関係が無いからです」
溝口先生は穏やかに言った。
「二人は高瀬のファンだったんですよねえ?」
俯いている俺にも、甲田が振り返ったのが分かった。
「終わった話は蒸し返しません。学校の調査の結果、高瀬君は関係ありませんでした」
先生は残りの生徒を目視で確認して、日直に挨拶を促すと教室を出て行った。
「上手いことやったなあ、高瀬」
甲田が言って、教室中が以前のように俺が何か言い返すのを待ったが、俺はもう何ひとつ、どこの筋肉を動かすつもりもなかった。
甲田などどうでもよかった。学校中の視線もどうでもよかった。
自分が全然関係ない生き物のように感じて、甲田の直接的なからかいにも、なんの感情も動かされなかった。
俺が好奇の視線に晒されても。それについて何も喋らなくても。二人を弄んだ挙句に捨てて、流血沙汰を引き起こさせたという噂が広まっても、林さんと鶴見と持田はそばに居てくれた。何も言わずに、ただ近くに居てくれた。
三人が先生に俺のことを話してくれたと分かっているのに、俺はお礼すら口にしようと思えなかった。
噂の盛り上がりは衰えないまま、春休みに入り、俺の高校一年目が終わった。
一日は黙っていても過ぎて行く。俺は黙々と教科書を読みながら、もうすぐ来る高校二年の新学期を待つ。
両親は心なしか静かで、すっかり無口になった俺を気遣ってくれている。
夜になると、自分という存在がより無意味に思えてくる。
時々、あの時の事がフラッシュバックした。
血で汚れた二人が、お互いを罵り合う光景。
俺の心は動かされないことを知らずに、我を忘れて、お互いを傷付けて。
あの獣のような唸り声が今も耳に残っている。
最近はSFを止めて、宇宙関係の本を読んでいる。惑星の図鑑だとか、写真集だとか。悩みがちっぽけになるとどこかに書いてあったから。
でも時々我慢できずに外に出た。そっと、眠ってしまった両親に気付かれないように。
四月が近付いていたけど、夜はまだ少し肌寒い。
静かな家々の間の道を、時々壁に身体を擦り付けながら、取り止めのない足取りで歩いた。
俺を何処かへと誘うように、ぽつりぽつりと明かりの灯る窓があって、静かな界隈に、音楽やテレビの音や、話し声なんかが漏れ聞こえる。
一人じゃないと感じられる気がして、人の気配を辿って歩いた。
まだ、真結ちゃんの件を孝一に連絡できていない。
今思うと、冬休みに会った時にはあの書き込みを知っていたんじゃないかと思う。
どうして何も言わなかったんだろう。
溝口先生に二人からの謝罪を提案されたけど断った。俺のことは気にしなくていいから、SNSの書き込みを消して欲しいと頼んだ。先生は了承してくれて、書き込みも消えていたけど、それがどんなやり取りを経てそうなったのかは報告してもらえなかった。
いったい二人はどう納得し合ったんだろう。真結ちゃんには謝罪したんだろうか。俺のことは忘れてることにしただろうか。
消化できない感情が今にも口から溢れてきそうになって、唇を噛み締めた。
俺を気遣ってくれる友人にも、変わらずに見守ってくれる親にさえ、俺は嘘を継続している。
俺のせいじゃないと言ってくれた友人が、先生が、何も言わないでいてくれる両親が、俺がゲイだと知ったら、俺を見る目はどう変わるだろう。
黙っていることは罪じゃないはずだ。でももう謝ってしまいたいくらい息苦しい。
なんでこんな自分にも明日が来るんだろう。静かな夜を辿って、明日から逃げ続けられたらいいのに。春が来なければいいのに。
願いもむなしく昼と夜はくり返し入れ替わり、俺を入れ物だけ大人にしていった。




