ハンノキ公園
カササギがギギギと鳴いた。
日曜の午前九時。
陽気に誘われて近所の公園へ足を運んだ。空は高く、薄い雲は青色に張り付いて動かない。
小春日和という季語を使うのは十一月からだとニュースでは言っていたけど、そう言いたくなるくらいのホッとする朗らかな朝だった。
やってきた公園はハンノキ公園と呼ばれているけど、正しくは三旗町六号公園だ。
それなりに大きな公園で、テニスコートが二面と、バスケットコートもある。数年前に遊具が新しくなって、子ども連れが増えたらしい。
俺の家からは五分もかからない距離だけど、この公園を含めて向こう側は泉小学校、含めずにこっちが俺の通っていた緑小学校の学区で、小学生の頃は家から歩いて十分はかかる三旗町四号公園、通称桜公園まで行って遊んでいた。
間に五号公園もあったけど、小さな公園で遊具も少なく、どことなく寂れた雰囲気で、子どもには人気がなかった。
愛称にハンノキと付けられているのに、この公園にハンノキは二本しか植えられていない。さして立派な木というわけでもない。
公園沿いに住む子どもがアレルギーを発症して、家の人が市に切らせたという噂話を聞いたことがあるが、でたらめだと父さんは言っていた。なぜ二本残すのかと。俺もそう思う。
どうしてそんな噂が立ったのかは知る由もないけど、俺は学区の違うハンノキ公園に立ち入ってはいけないというきまりを中学生になるまで守っていた。我ながら律儀な子どもだ。
四つ並んだブランコのひとつに腰を下ろすと、低学年らしい男の子が三人、すぐそこで走り回っている。
手にはそれぞれ派手な衣装の人形が握られていて、誰が敵で誰が味方なのかは分からない。きっとみんなヒーローなんだろうけど、少年たちは濁音を発しながら互いの人形をぶつけ合っている。
誰も倒れず、誰もめげない。次第に、誰が一番複雑な効果音を生み出せるかが勝敗を分けそうな様相になって、俺は少し笑ってしまった。そしてふと、自分はあんな風に遊んだことがなかったなと思った。
ボール蹴りや鬼ごっこのように走り回って遊ぶのは好きだったけど、ヒーローになって戦うのには興味がなかった。
周囲でごっこ遊びが始まると、気がそがれて一人でボールを蹴っていた。
幼少のいつ頃か、おじいちゃんが戦隊シリーズのおもちゃを送ってくれたことがあったけど、俺はそれで上手く遊ぶことができなかった。
「さ、変身して!」
カメラを構えた母さんに催促されて、俺はただ立ち尽くした。
腰に巻かれたピカピカ輝くプラスチックのベルト。ボタンを押すとパカッと開いて、付属のカードを挿入すると音楽が鳴り始める。そこでお決まりのポーズを決めていざ変身! という流れ。
それは分かっている。分かっていたけどできなかった。
そもそもそのテレビシリーズを見ていなかったんだから母さんの催促も無茶だったんだけど、その当時の俺は、ヒーロー適齢期でありながら、ヒーローに変身したいと心から思っていなかった。
母さんも父さんも、動けないでいる俺を笑った。興味がないのを知っているからだ。案の定だと笑って俺を解放した。
ベルトから抜け出した俺はホッとして、それでもお礼を言わなくちゃいけないのは理解していた。考えた結果、そのおもちゃの絵を描いて、ありがとうと書き添えて郵送した。
申し訳なさからとても丁寧に仕上がった絵を見たおじいちゃんは、俺がたいそう喜んだんだと勘違いして別のおもちゃも送ろうとしていたらしいけど、母さんが誤魔化してサッカーボールに替えたらしい。その結果俺はサッカーに何年も夢中になったから、母さんはいいアシストをした。
七年続けたサッカーは今年の夏を前に辞めてしまったけど、身体はまだランニングの時間を覚えている。今朝も目が覚めて、春のような陽気もあって、つい馴染みの公園に足を運んでしまい、今だ。
ちらほらと遊歩道を人が行く。走る人、歩く人。年配の男性が多い。
ランニングくらい続けたっていいのかもしれない。でもそんな俺を見かけたら、サッカーに未練があるように思うかもしれない。
またカササギが鳴いて、声を頼りに姿を探していると、向こうの入り口から幼い子どもを連れた男性がやってきた。
まだ歩き始めたばかりという女の子は、気の早い白いコートを着せられて、手も降らず前のめりに進んでくる。その後ろを水筒を肩にかけた父親が心配そうに何度も手を伸ばしながら後を追っている。
近付いてくると、その男性の正体が分かった。あれは近所の山崎さんの息子だ。
俺は目を皿のようにして見てしまった。あまりにも意外だったからだ。
山崎さんの息子は学生時代、相当な問題児だった。
近隣住民が「山崎の奥さん」と呼ぶやよいちゃんは、うちの母さんと仲が良く、時々家に来ては息子の話を聞かせていた。
二人は幼い俺には理解できないと思って、会話中も俺の存在を気にしていなかったけど、理解はできなくとも記憶には残っていて、年を重ねるにつれ理解も追いついた。
彼は悪童と言ってよかった。
一度、警察が山崎さんの家に来たことがあって、一人寝を始めたばかりの俺の部屋にパトカーの赤い光がチラチラと届いて、とても恐ろしい気持ちになったのを覚えている。
それまで息子さんには何度か構ってもらったことはあったけど、俺はこの日をきっかけに、二度と彼に近付かないと心に決めた。
一人息子の問題行動に、やよいちゃんは時々うちでお酒を煽っていたほどだったけど、高校をなんとか卒業し、就職して家を出たという話を聞いてから、息子さんの話は断片的になっていき、やよいちゃんがうちでやけ酒を飲むこともなくなった。
結婚して孫も生まれたと聞いてはいたけど、こうして実際に目にすると妙な感動がある。どこに居ても違和感ないただの若い父親だ。感慨深いとはこういう感情だろうか。
俺が回想に浸っているうちに、親子は芝生の敷かれた丘の上に登頂を果たしていた。
かつて思春期と言う名の下にあらゆる悪行で大人たちを困らせていた彼が、幼い我が子に優しい眼差しを向けている。
すっかり落ち着いたんだなあ。
俺には何も不都合はないはずなのに、つい今度はあの子が父親を悩ませてくれるといいなと、ちょっと性格の悪い事を思ってしまう。
俺もいつかあんな風にして、この公園へ戻ってくる日が来るんだろうか。
そう考えて、胸がぎゅっとなった。
「祐!」
始まりかけた憂鬱を覚えのある声が打ち消した。
「おー」
突然現れた親友に気の抜けた返事をしたが、さっきぎゅっと縮んだ胸はそのままだ。
砂地を蹴って駆け寄ってきた孝一は、走ってきた勢いのまま窮屈そうに隣のブランコに収まって、「おはよう!」と変わりない笑顔をくれた。
クラブ用の赤いジャージを着て、いつも通り短髪がきちんとセットされている。
「おはよう、練習?」
俺の問いに肯定的な音を漏らして、孝一の視線が公園の時計に向けられる。
「十一時から練習試合。十時集合だから、もう少ししたら出るよ。窓から祐が見えたからさ、ダッシュしてきた」
そう孝一は白い歯を光らせて笑った。
笑顔の向こうには公園に隣接した孝一の家がある。もちろんそれは知っていた。ほんの少し、こうして会えることを期待していたから、湧き上がった感情に動揺して、まぬけな声が出てしまった。
「試合か」
「うん」
どこと、とは聞かなかった。
夏の大会が終わると三年の殆どは引退する。けど高校でもサッカーを続けるつもりのやつは親が許せば孝一のように残る。
ほんの数か月前まで一緒にサッカーをしていた親友は、変わらず日に焼けて逞しかった。
早鳴る心臓のそばがちくちくと痛い。
孝一から目を逸らすために山崎さんの息子を探したが見当たらなかった。丘の向こうへ下りたのかな。
「どがずばどーん!」
近くにいた男の子が発した炸裂音にハッとして、会話を続けなきゃと気がはやった。
「クラスはどう?」
「クラス? 静かだよ。みんな受験生って感じ」
まるで自分は違うみたいな口ぶりに突っ込みを入れかけたが、孝一の成績を知っているから言う必要はなかった。
「どこも同じだよな」
意味のない質問をしたと後悔した俺は、迷って真逆の話題を振ってしまった。
「親は?」
あ、と思ったがもう遅い。
孝一は眉を上げて、「変わらない、相変わらずだよ」と頭を揺らした。
「そっか……」
失敗した、せめて真結ちゃんのことを聞けばよかった。後悔から背筋が丸まる。
孝一を見ずに、その向こうにある大きな家へ目をやった。
立派な門扉。建物は濃いグレーのタイル張りで、差し色の白が映える外壁。電動シャッターのガレージと、計画的に植えられた庭木が柵の向こうでまだ青々としている。
並ぶ窓の全てがどの部屋なのか分かる。何度も入ったあの家に、今も孝一と両親と、妹の真結ちゃんが住んでいる。そのはずなのに、なんだか現実味がなかった。
孝一の部屋はあの日と変わらないだろうか、そんな風に考えはするのに、もう一度行って確かめたいとは思わない。
「祐、本当に高校でサッカーやらないのか?」
「え?」
あ、目が合ってしまった。
眉間に痛みが走って、さっきチクリときた胸がざわざわと揺れ始めた。
黙る俺に、孝一がゆっくりと首を傾げながら、真っ直ぐな眼差しを向けてくる。俺はその視線から逃れて、男の子たちに目を向けた。
ヒーローたちは座り込んで別の遊びを始めていた。人形は地に捨て置かれている。
「やらないよ」
俺の返事に孝一は黙ってしまい、この沈黙をどうしようかと考えていると、ふうっと息が吐かれた。
「言いたくないんだと思って追及はしなかったけど、正直に言うと俺も知りたいとは思ってたんだ」
ああ、結局孝一にも聞かれてしまうのか。
頭を抱えたくなるのを堪えて、手をお腹の前で組んだ。
「これっていう理由があるわけじゃないよ。もういいなって思っただけ」
こんな曖昧な理由しか言えないから誰もスッキリできないんだろう。分かっているけど、俺にはこれが精いっぱいだ。初めに絞り出したこの回答を俺は一生言い続けるしかない。納得してくれたのは、両親と担任の中屋先生だけだ。
「もったいないって色んな人が言ってる。説得しろって未だにつつかれるよ」
孝一は笑って太腿を掻いた。そして視線が俺の足元に落ちたのが分かった。瞬間、居心地が悪くなった。
「迷惑かけてごめん。でももう鈍ってるよ」
適当に履いてきたつぶれかけのランニングシューズ。チームのみんなとお揃いで買った。
未練があるように取られたかと過敏になって、逃れるように動かした。
履き口も擦り切れて、今日履いたら捨てようと思ったのに。履かずに捨てればよかった。
「みんなは元気?」
また意味のない質問だ。居た堪れない気持ちがブランコを揺らす。
「変わらずかな」
「そっか」
ブランコの座面を背中まで持ち上げ、地面を蹴って飛び乗った。ジッとしているのは限界だった。
耳に付く音を立てるブランコを二度、三度と大きく漕いで惰性に揺られた。首を抜ける風が涼しい。
「孝一はさ、サッカーが好きだろ?」
「好きだよ」
「俺はそうでもなかっただけだよ」
耳の縁で風が鳴っている。孝一の唇から零れた好きという言葉が胸に刺さる。
「でも、急に居なくなったからさ」
「居なくはなってないだろ」
もう一度脚を振って、大きく漕ぐ。
「サッカーを辞めただけだって」
勢いが落ちないように脚を振る。空を見て、地面を見る。振り子のようになって、時が早く過ぎるのを願った。
「俺が何かしたのかって思ったけど、お前はみんなから離れたよな」
視界の端でカササギが飛んだ。揺れる俺を孝一が目で追っているのが分かった。
ずっと孝一は俺にわけを聞かなかった。そのまま聞かれずにいたかった。
「サッカーを辞めただけだって」
「みんな寂しかったんだよ、理由が分からなかったから。俺も」
もう返事をしなかった。
理由は言わない。言いたくないんだ。謝罪はたくさんしたからいいだろう。
クラブに行く時間が来て、孝一は帰っていった。
いつの間にかひと気のなくなった公園で、俺はまた小さくブランコに揺られた。