黒いおじさん
早朝5時。
私は「よし!」と自分を鼓舞して家を出た。
今日は早番だ。本当は5時半に家を出ても間に合うのだけど、私には持病があって、服用している薬を、できれば7時頃に飲みたい。
食後の薬だから、朝食から1時間半も時間を開けたくない。それなら、職場で朝食を取ってしまう方が手っ取り早いと、早く出ることにしたのだ。
我が家は国道沿いにたつアパートで、駅まで歩くとおよそ1時間。
車通りが多い国道は、灯りの感覚が広いこともあって、暗い時間に家を出る時は、いつも白っぽい服装をしている。今日だって、白いパンツに、明るいベージュのダウンだ。良く目立つ訳じゃないけど、うすぼんやりそこにいるくらいはわかる服装。
イヤホンを耳に差し込んで、いざ出発。
私は懐中電灯のスイッチを押し上げて、足下を照らしながら歩き出した。
10分ほど歩くと、杖の軸を握ったおじいさんが、元気良く腕を振って歩くのと並んだ。
名前は知らないけど、顔見知りではある。以前、5時半に家を出ていたときはすれ違っていた人だ。お年寄りは朝が早いなぁ……なんて思っていたけど、現実はもっと早かったらしい。すれ違っていたのは、行きではなく帰り道だったみたいだ。
おじいさんは私を追い越して、次の信号を元気に腕を振りながら左折していった。
おじいさんが曲がった信号を渡ると、ドーナツチェーンの店舗がある。
ここの従業員も、すごく朝が早い。店の前を通りかかる時間帯には、もう生地を揚げる甘い匂いが漂っているし、時々、制服のお姉さんが売場を整えているのがガラス越しに見えたりする。
決して自分の腹に入らないドーナツの匂いを吸い込むと、胃がきゅっと小さく動いた。
ドーナツチェーンの店舗をすぎると、次にあるのは和食チェーンの店舗だ。それを通りすぎると、市民病院の職員駐車場。ふたつの境目辺りで、私はビクッとして歩みを止めた。いつの間にか、目の前におじさんが立っていた。
まだ日が昇るには早い時間。上から下まで真っ黒な格好で、雨も降っていないのに黒い傘をさしている。昼間に見たら、ダンディなおじさんだと思えるだろう、整った顔をしていた。
おじさんが立っていたのは、ちょうど、街灯と街灯の間で、どちらの光も届かない位置だ。道もでこぼこしているからと、私が足下ばかり照らしていたのも悪かった。
「何か用かい?」
背が高いおじさんの、そこだけ異様に青白く見える顔を、思わず懐中電灯で照らした。咄嗟に疑ったのは、変質者か通り魔だ。
刺されるんじゃないかと恐怖しながら、
「いいえ!」
おもいっきり首を横に振って、私は再び歩き出した。
走っちゃいけない。追いかけられるかもしれない。
頭の中で、誰かが言う。バクバク鳴る心臓を宥めるように深呼吸を繰り返し、ダウンのポケットに入れていた手で、そっと音楽プレイヤーの音量を下げた。
しばらく背後の気配を意識して歩き、十分離れたところで意を決して振り返る。
黒尽くめのおじさんの姿はもう、闇に紛れて解らなかった……。