66話 大魔獣ハーゲンティ(前編)
――ォ……ォォ……ォォ……ォォォ……ォォ……ォォ……
低い不気味な声が、瘴気混じりの淀んだ大気中に響く。
俺は飛空魔法を使って、巨大な黒い獣を高所から見下ろした。
二百年間にわたりグレンフレア帝国を悩ませてきた生きた災害――大魔獣ハーゲンティ。
思えば、その全体を見るのは初めてだった。
ぐるりと周囲を見回す。
大魔獣を包囲するように、帝都付近の帝国軍が陣を敷いてしている。
その数、約二十万。
もしも『囮役』の俺が死んだ場合、次に大魔獣の犠牲になるのは彼らだ。
帝都に大魔獣の侵入を許してはならない。
それが、皇帝陛下からの帝国軍への厳命と聞いている。
彼らにとってこの戦場は、死地だ。
上空からでは帝国軍人たちは豆粒のようにしか見えないが、その中でも軍を率いる者は目立つ。
天馬に跨った幼馴染もその一人だった。
こちらを心配そうにじっと見つめている。
――作戦はユージン殿の合図で開始します。好きなタイミングで合図をお願いしますね。
運命の巫女様から、そのように説明をされている。
「ふぅ……」
小さく息を吐く。
皇帝陛下から譲り受けた神刀を握る手が少し震えていた。
(怖いの? ユージン)
「武者震いだよ、エリー」
(ふふふ、そうよね。私が見込んだ男だもの)
魔王との会話で気が紛れた。
……よし! 覚悟を決めた俺は、事前に手渡された魔道具をポケットから取り出し、大魔獣に向かって放り投げた。
ドーン! と大きな音と、光が弾けた。
殺傷力のない、ただ派手なだけの魔法だ。
大魔獣を取り囲んでいた帝国軍が一斉に動き始める。
作戦が開始した。
帝国軍の魔法使いたちが一斉に杖を掲げる。
無数の魔法陣が輝く様子は、壮観だった。
大魔獣の古い封印を解除するための魔法だ。
新しい封印は、古い封印を外してからでないとかけられない。
しばらくは変化がなかった。
俺は空中で待っている。
……パリン
どこかで。硝子が砕けるような音がした。
……パリン、 ……カシャン、 ……パリン、…………カシャ、カシャン、パリン、
そこかしこで、砕ける音が響く。
大魔獣を大地へ封印する魔法の杭。
それが一つづつ壊れていく。
それが連鎖的に連なり、ついに……。
――ォオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!
大魔獣が吠えた。
地面が大きく揺れ、帝国軍の人たちが幾人も倒れている。
地震ではない。
大地に縛り付けられていた大魔獣が解放された余波だ。
「くっ……!」
暴力的な瘴気があたりを満たす。
常人であれば、息をするだけで気を失うだろう。
結界魔法で全身を覆っているにも関わらず、思わず口元に手を当てた。
――ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!
爆発音のような咆哮。
そして、二百年の封印が解かれた大魔獣がその全身を現した。
「…………これ……が」
俺は大魔獣を見上げながら、思わず呟いた。
さっきまで見下ろしていたはずだ。
しかし、封印が解かれた大魔獣の大きさは想像を遥かに超えていた。
生きた災害の名に相応しく視界に収めることすら難しいその巨大さは、神々しくさえあった。
(そこから逃げなさい!!! ユージン!!!)
焦ったような魔王の声で俺ははっとする。
大きすぎる大魔獣の前足がゆっくりと振り上げられていることに気づかなかった。
そう、大魔獣ハーゲンティの狙いは『俺』なのだ。
二百年間何も喰っておらず、聖神様の封印魔法により大地に縛り付けられていた恨み。
まさにそれを晴らす、うってつけの生贄が俺だ。
眼の前に迫る大魔獣の黒い腕は、言われなければ腕だとは思えないただの黒い壁だった。
俺は飛行魔法を止め、地面へと降り立った。
「結界魔法……聖域」
俺が扱える最上位の結界魔法。
普段なら一回使えば、俺の魔力が空っぽになる。
が、聖女候補の魔力によって俺の魔力量は嵩上げされている。
(ユージン!!! 逃げろって言ってるでしょ!!!)
エリーの声が頭の中に響く。
「俺が逃げたら、俺が向かう方向に大魔獣が追ってくるだろ?」
そうすれば犠牲になるのは、周囲にいる帝国兵たちだ。
(だからって……あーもう! わかったわよ、馬鹿ユージン! でも、私の言うことは聞きなさい。真正面から『星の獣』の攻撃を受け止めたりしたら、魔王でもただじゃすまないんだから)
「エリーでも?」
会話する間にも大魔獣の前足は大きく振り上げられ、それがこちらへ迫る。
(そうよ! いい? 『星の獣』はその巨体ゆえに物理的な肉体は持っていないわ。自重に耐えられないから。身体を構成するのはほとんどが汚れた魔力である瘴気。つまり大魔獣の攻撃そのものが、特大の魔法みたいなものだと思いなさい)
エリーの言葉は難しく、全ては理解できなかった。
「一応、踏み潰される直前に避けようと思ってるんだけど」
俺は『空歩』の構えをとっている。
大魔獣の足が迫る。
まるで真上から夜空が落ちてくるようだ。
(甘いわね。『星の獣』の攻撃範囲は見た目よりもずっと広いわ。『横』に逃げても間に合わないわね)
「そう……なのか」
とすると、結界魔法を最大まで高めて耐えるしか。
(ふふふ、私と契約をしていることを感謝しなさいユージン。今からやるべきは、ユージンは大魔獣の身体に向かって突っ込むのよ)
「……え?」
俺が聞き違いかと、聞き返す。
(質問はあと! 魔法剣を使って、大魔獣に向かって飛びなさい! 全身を覆う結界魔法も止めちゃ駄目よ?)
「わ、わかった! ……弐天円鳴流・火の型」
スミレから分けてもらった魔力で神刀を覆う。
刀身が赤く輝いた。
もはや頭上には、黒い壁しか見えない。
(GO! ユージン!)
「……まじか。くそっ!」
俺は覚悟を決め、片翼を広げて大魔獣に向かって突っ込んだ。
真っ黒な壁に赤い刀を差し入れた。
……どぷん、と水……いや、沼に身を投げたような感触が身体を襲った。
確かに大魔獣の身体は、肉の無い仮初のモノだった。
「くっ」
息をすればその瞬間、肺と内蔵が腐り落ちると確認するほど濃い瘴気。
いや、ここは毒沼の中だ。
一瞬で、上下左右の感覚を失う。
俺は背中の翼に任せ、ひたすらに上を目指していると。
ドン!!!!!
とてつもない爆発が背中を襲った。
「がっ!!!」
結界魔法に守られなおふっ飛ばされる。
とてつもなく長い衝撃が過ぎ去った時。
「はっ……はぁ……はぁ……はぁ……」
気がつくと地面を転がっていた。
口の中に鉄の味が広がる。
(ほら、ユージン。上を見て)
魔王の声が無ければ、頭をあげることすらしなかっただろう。
「放て!!!!」
聞き覚えのある号令が、かすかに耳に届いた。
幼馴染の声だった。
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
無数の魔法が、大魔獣に降り注いだ。
数万の帝国軍所属の魔法使いたちが、一斉に攻撃魔法を仕掛けている。
現在、大魔獣の封印が解かれているため攻撃は全て直撃する。
ャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!
大魔獣の悲鳴とも思える叫びが響く。
大魔獣の黒いモヤのような外皮が、ボロボロと崩れ落ちている。
(脆いでしょ? 大地から瘴気を吸い上げた『星の獣』は、その巨体が最大の武器だけど防御力は無いに等しいの)
「運命の巫女様の言った通りだな……」
息も絶え絶えだったが、なんとか言葉を返した。
雨のように魔法が降り注ぐなか、小山のような巨大な炎の塊が大魔獣を直撃し、爆発炎上した。
(あれは……スミレの火弾か?)
(うわ、これだから炎の神人族は……)
魔王ですら呆れる威力のようだ。
大魔獣からは、さらなる苦しげな悲鳴が聞こえた。
その時。
ボコ……ボコ……ボコ……
と、地面から黒い生物が生えてきた。
大魔獣から産み落とされる忌まわしい獣――『黒羊』。
(こんな時に……いや、こんな時だからか?)
小回りのきかない大魔獣が、自分の手足の代わりに生み出したようだ。
「メ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"!!!」
「ひぃ!」
「くそっ!」
全身を黒い触手で覆われた気味の悪い黒羊が、至る所で帝国軍を襲っている。
大魔獣に魔法攻撃をしている魔法使いを守るため、帝国騎士たちが黒羊と戦っている。
善戦しているようだが、中には黒羊の巨大な口に丸呑みにされている者。
黒い触手に囚われ、絞め殺されている者。
混戦になっていた。
(スミレはっ!?)
心配になって思わずそちらを見ると、光の矢が巨大な黒羊を貫いているのが見えた。
どうやらスミレを、サラが守っているらしい。
(ユージン。人の心配をしている場合?)
エリーの声に、気付かされる。
「メ"エ"エ"エ"エ"!!!」「メエ"エ"エ"エ"エ"!!!」「メ"エ"エ"エ"!!!」「メ"エ"エエ""エ"!!!」「メ"エ"エ"エ"エ"!!!」「メ"エ"エ"エ"!!!」「メ""エ"エ"エ"!!!」「メ"エ"エ"エ"エ"!!!」
俺のほうへ、大量の黒い獣たちが殺到している。
と、同時に。
……ズン!!!!
大魔獣ハーゲンティがゆっくりと。
しかし確実に俺のほうに身体を向けていた。
(くっ……、動け……)
身体を動かそうにも、先程の後遺症か身体が重い。
その時だった。
――聖なる光刃
百体はいたであろう黒羊を、光の刃が薙ぎ払った。
「無事か! ユージンくん!」
ドシン! と地面をゆらし俺の隣に現れたのは、帝国が誇る最高戦力の一人――剣の勇者様だった。
片手で軽々と持っている青く輝く神聖な両手持ちの魔法剣の名は聖剣『コールブランド』。
彼が窮地を救ってくれたらしい。
「ありがとう……ございます」
「ははははっ! よし、大丈夫そうだな!」
あまり大丈夫ではないのだが、何にせよ助かった。
その時。
「メ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"エ"!!」
竜よりも巨大な黒羊が眼の前に現れた。
な、なんだ……? この大きさは。
俺があっけにとられていると。
――弐天円鳴流・『雷の型』神狼
次の瞬間、巨大な黒羊が縦に裂けた。
トン! と軽い音で俺の隣に何者か――いや、誰かが勿論わかっている。
「よう、ユージン。生きてるか?」
飄々と俺の隣に立っているのは、無造作に黒髪を後ろで束ねた無精髭の剣士。
手に持つのは妖刀『天羽々斬』。
帝国最凶の剣士、『帝の剣』である親父だった。
「なんとか生きてるよ、親父」
「よし、この場は俺とエドワード殿で時間を稼ぐ。ユージンはアレの相手だろ?」
親父がくいっと、親指を指す先には勿論ゆっくりとこちらへ迫る大魔獣の姿があった。
大魔獣は殺気を含んだ眼で、俺たちへ向けて再びゆっくりと両足を振り上げる。
いけない。
このままだとまずい。
「親父! 剣の勇者様! 逃げないと!!」
二人は俺のように結界魔法を得意とはしてないはずだ。
というか親父の魔力属性は俺と真逆。
黒一色に近い、攻撃特化の魔法剣士だ。
大魔獣の瘴気には耐えられない。
俺が叫ぶと、親父と剣の勇者様は顔を見合わせた。
「どうする? 帝の剣殿」
「そうだなぁ。息子の言う通り、我々では大魔獣の相手はできないが……」
「逃げるだけは癪だな」
「よし、俺は左から行こう」
「なら、私は右だな」
「……え?」
二人が何を言っているのか、理解する前に。
ダッ! と帝国の最高戦力二人が、大魔獣に向かって駆け出した。
「おい!!!」
思わず怒鳴る。
既に二人の背中は、豆粒ほどしかない。
「真・聖なる光刃」
「弐天円鳴流・『雷の型』 奥義・麒麟」
白い閃光と、黒い閃光が交差した。
ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!
大魔獣の両目が、斬り裂かれる。
耳を覆わずにいられないような絶叫が響いた。
同時に、大魔獣の身体が膨張する。
大地が揺れ、暴風が吹き荒れ、地面から稲妻が迸った。
大魔獣が苦しみ、悶ている。
それによって、この世の終わりのような光景が広がる。
大魔獣の外皮は、崩れ落ち続けている。
気がつくと一回り小さくなったように見えなくもない。
それでも視界に収めるのがやっとの大きさだが。
――オオオオオオオオオオオオオオオ
大魔獣の口が眩い光を放ち始めた。
(まずいわね……、あれは『星の獣』の『死の叫び』。それを聞いた生き物は肉体と魂が分離してしまう。叫ばせては駄目よ、ユージン)
「んなこと……急に言われても!」
俺は身体に残っていた、炎の神人族と聖女候補の魔力全てを神刀に移した。
普通の剣であればとっくに砕け散ってもおかしくない魔力。
しかし、神獣の牙を素材とした神刀はびくともしない。
「弐天円鳴流・飛燕!」
俺の放った赤い紅刃が、大魔獣の巨大な口に炸裂する。
と同時に、『帝の剣』『剣の勇者』『聖女候補』の放った追撃も加わる。
大魔獣は悲鳴を上げるが、『死の叫び』が放たれることはなかった。
(よか……った……)
俺はゆっくりと地面に膝をついた。
借り受けた魔力と、自身の魔力は空っぽだ。
体力も底をついている。
――運命魔法・女神の封印
歌うような、美しい声が響いた。
同時に数千の鎖が、大魔獣を縛り上げる。
(新たな封印魔法が……発動した……のか……)
使い手は、運命の巫女様。
もちろん、たった一人でこのような大魔法を扱えるはずがなく、たくさんの生贄術による魔力供給によって成し得る神技だ。
苦しげに悶える大魔獣の額には、第三の赤い眼が輝いている。
(あれを……壊せば……)
大魔獣を倒せる。
が、もはや俺の身体は指一本動かなかった。
(お疲れ様、ユージン)
魔王の声が優しく響く。
「エリー……魔力を分けてくれ」
俺はかすれる声で、契約者へお願いした。
(あんた……何を言ってるの? そのボロボロの身体で魔王の魔力なんて受け取ったら、死ぬわよ?)
「けど……この機会を……」
あと、一歩。
もう少しで、帝都の民が安心して暮らせるように……。
(あのね、ユージンのおかげで最小限の被害で星の獣を封印できたのよ? それで満足しなさい)
と言って魔王の念話は切れた。
エリーの言うことはきっと正しい。
魔王の魔力を今受け取れば、俺の身体は耐えられないのだろう。
大魔獣の苦しげな悲鳴は続いている。
それに呼応して、周囲は瘴気に汚染された毒の空気に満たされている。
俺の代わりに、大魔獣に近づける者はいない。
このまま地面に倒れ、結界魔法を解かないように気をつけ、救援が来るのを待つしか……。
「ユウ!!!!!」
聞き慣れた……懐かしい声が降ってきた。
なんとか視線を上に上げる。
瘴気で淀んだ空気の中にあって、煌めく金髪と純白の鎧を身にまとう美しい騎士。
「アイ……リ……?」
天馬に乗って、俺のもとに唯一やってきたのは幼馴染だった。
■感想返し:
>100階層クリア時に選んで7日以内に迷宮組合経由で届くって言われた完全オーダーメイドの恩恵の武器とは違うみたいですが、あれどうなったの?
勿論、そちらものちほどエピソード用意しております。
四章(魔法学園に戻ってから)です。
天使が、「あいつら取りにこねーなー」って100階層でぼやいてます。
■作者コメント
5月1日に、攻撃力ゼロ1巻の表紙を公開いたします。
※といいつつ、既にあるサイトでは公開されたりしてますが。
表紙はユージンと魔王エリーです。
スミレはカラー絵や挿絵に多数。
どっちも美しい&可愛いですよ。
 












