狐憑き(三十と一夜の短篇第63回)
通い慣れてきた通学路を回り道してみようと思ったのは、ただの気まぐれだった。
ひとりきりの気楽な帰り道だ。教えられた道よりも手前の角をふい、と曲がってみる。
急に変わった景色にどきりとした。
ひなびた、と言えば聞こえはいいけれど実際は過疎が進んだ町のすみ。それでも通学路にはちらほらと新しい家が建ち、ひとの暮らしの活気を感じる。
それが、回り道した先にはまったくない。
舗装されず土を踏み固めただけの道路は曲がりくねり、あまり太くない道幅をより窮屈に感じさせる。
ぽつぽつと建つ家はどれも古く、ひと気がない。乾燥気味の雑草があちらこちらで伸び放題に伸びているせいだろうか。
引き返そうか。
とっさにそう思って、片足を引いた。
そのとき。
「くぅ?」
子犬が鼻を鳴らすような声がして、顔を向けた。
右手に建つ古い家の玄関が細く開いて、そこから顔を出したのはひとりの少女。
「あ……」
ぱちりとぶつかった視線に、あいさつをしようとくちを開いた。
知らない男が家を凝視していたら、不審者だと思われる、と考えたから。
けれど、開いたくちから当り障りのないことばを吐くより先に、少女が咥えたものに気が付いて声が出なかった。
生魚。
それも、水を滴らせた生魚が、少女のくちに咥えられている。
赤い唇を濡らすのは魚から滴る水か、あるいは歯を剥きだしにした少女の唾液か。
見定めるよりもはやく少女に背を向け、地を蹴って逃げ出していた。
*****
「あー。あそこ行っちゃったのか。しかも会っちゃったんだ」
翌日、学校で級友におかしな少女のことを話したのは、笑い話にしてほしかったから。
「何かと見間違えたんだろ」と笑ってほしくて話したというのに、返ってきたのは気づかわし気な苦笑い。
「え……有名な子、なの?」
「うん、まあ。お前ん家、引っ越してきたばっかだもんな。知らないよな」
教室で話すことじゃないから、とことばを濁され、放課後に連れられて向かったのは町の中央にある神社。
盆地になっている町のまんなかに、ぽっこりと盛り上がった丘のうえの神社だ。
「こんな、とこまで登る必要、あるのか……?」
丘のてっぺんまで続く階段をひたすら上り、膝に手をついて息を整える。
「ここならひといないからさ。それに、ほら。話すと寄ってくるっていうから」
なにが、と聞こうと顔をあげて、級友の背後に見えた厳めしい社に納得した。
神仏や妖怪など信じるどころか興味関心すらなかったのに、どうしてか「ああ、ここなら安心だ」とわかったのだ。
神社の鳥居をくぐり、境内のすみにある朽ちかけたベンチに並んで腰かけた。
見上げた空は、枝を伸ばしたご神木に遮られて狭い。
丘は上から下までさまざまな木が生えており、そのどれもが太く高いせいで周囲も見渡せない。
閉じられた空間はまるで結界のようだ、なんて思う。
「あの子は、狐憑きなんだよ」
「きつねつき?」
聞きなれないことばに首をかしげれば、級友はほほをかく。
「都会じゃ、もう聞かないかな。ここら辺では昔からあってさ、おかしなことを言ったりしたりするひとを狐に憑かれたって呼ぶんだ」
「……そうか」
そんな世迷言を、とは言えなかった。
「まあ、知らずに会ったのは驚いただろうけど、何事もなくて良かったよ。くちにすると狐が寄ってくるって言って、なかなか周りが教えることもないだろうから」
「そうか」
「これからは、あのあたりに近寄らないようにしておくんだな。狐が移ることもあるって聞くからさ」
「そうか……」
あれこれと言い含めてくれる級友の声が、耳から入ってはするりと抜けていく。
狐憑きという耳慣れないことばが、どうしてかひどく馴染んで胸を満たした。
*****
その次の休みの日に、いなり寿司を買ったのは気まぐれだ。
気まぐれだ、と自分に言い訳をしながら通学路を歩く。
休みの日で学校に行く用事などないのに、いなり寿司の入った袋を下げて通学路を歩く。
どうにも後ろめたい気持ちで足が鈍るけれど、立ち止まることも引き返すこともせずに歩いて、気がつけばいつかの回り道に立っていた。
来てしまった。
そう思う脳裏に、級友の忠告がよぎる。
近寄るな、と言っていた声を覚えている。
けれど、それよりも鮮明に焼き付いているものがあった。
先日はぐうぜん目を向けた古い家に、意識して視線を向ける。
「あ」
いつの間に出てきたのか、玄関先にこのあいだ会った少女が立っていた。
今日は魚を咥えてはいない。
滴る水こそ無いものの、焼き付いて離れない真っ赤な唇がゆるく開いて誘っているようだ。
いやに澄んだ青白い眼球を動かして、真っ黒な瞳がこちらを向いた。
かさり、と手に下げた袋が音を立てたのは、意図してだったか偶然だったか。
少女の視線が袋に向かい、小ぶりな鼻がひくひくと動く。
黒目がちな目を大きく見開いた少女の顔が、ぱっと輝いたように見えたのは錯覚か。
まじまじと見るより先に、少女が飛びついてきた。
「キャン! キャン!」
はしゃいだ犬のような声をあげて、少女が袋のまわりで跳ね回る。
四肢を地につき、服が乱れるのも長い髪が絡まるのも構わないその姿は、若い娘がするには異様なものだと頭ではわかっていた。
なのにどうしてか、手足を土で汚してはしゃぐ少女がかわいく見えて、仕方がない。
「そんなに慌てなくても、ちゃんとあげるから」
思わず笑いながら彼女の家へ向けて歩けば、少女がうれしそうに左右を行ったり来たりしながらついてくる。
まるきり犬の所作をする少女に気を取られて、その唇がことばを紡いだことに気がつかなかった。
「やれうれしや、新しい身体が手に入る」