第2話 終わりで始まり。
「ディートリヒ! 今だっ!」
名を呼ばれた瞬間、ディートリヒはその場に剣を突き刺した。視線の先では、黒髪の男が、仰向けに倒れた巨大な人型の魔物の胸に、剣を突き立てている姿が見える。空気が震え、地面が揺れる程の絶叫は、魔物の口から零れる断末魔の叫び。
地面に突き刺したディートリヒの剣から真っ直ぐに、地を這うようにして、かの魔物の方へと影が伸びる。魔物の身体へと辿り着き、その身体を中心としてじわじわと広がるその影は、ディートリヒが手足のように使う、闇魔法そのもの。
生きる者も死した者も、等しく喰らう、漆黒の闇だった。
「ベルンハルト! まだだっ!」
広がった闇が少しずつ魔物を溶かし込んでいくのを見て、剣を抜こうとする黒い短髪の男にディートリヒは声を荒げる。まだ駄目だ。早すぎる。今ベルンハルトが剣を抜けば、あの魔物はまたこの場を逃げて行く。
これまで何度も対峙した時と、同じように。
「分かった!」と応えたベルンハルトは、さっと周囲を見渡して人を捜す。「カサンドラ!」と、彼はディートリヒの背後に控えていた少女の名を呼んだ。
「こいつがディートリヒの闇に喰われたら、すぐに僕を風魔法で飛ばしてくれ!」
ディートリヒの使う闇魔法は、誰も彼も、等しく喰らう。目を離した一瞬の隙に、腕の一本でも喰らっていく。敵だろうと、味方だろうと、構うことなく。だから決して、油断してはいけない。
闇魔法使いの騎士として名の知れた、ディートリヒ自身であっても。
「分かったわ! ディートリヒ、合図して!」
背後のカサンドラが言うのに頷き、ディートリヒはただじっとその光景を見つめた。魔物の大きさゆえか、強さゆえか、溶け込む速度はいつもよりもずっと遅く、しかし徐々に徐々に、闇は魔物を呑み込んで行って。
「今だっ!」と、ディートリヒは叫んだ。
途端、一陣の強い風がディートリヒの傍らを擦り抜け、ベルンハルトの身体を吹き飛ばす。拘束が緩んだ魔物は、逃げようともがき出すけれど。
「……させるか……っ」
言うと同時に、闇からいくつもの黒い手が伸びて、魔物を捕らえた。息が詰まるほどの長い時間をかけ、闇は少しずつ、しかし確実に魔物をその中に呑み込んでいって。
ついに、闇その物が、ディートリヒの足元へと戻った。いつも通りの、静かな影として。
「…………終わっ、た」
静まり返った空間で、ぼそりとディートリヒが呟いた。それと同時に、響く少女の歓声。おそらくカサンドラの物だろう。やっと終わったのだ。やっと。七年の歳月をかけて、やっと。
「魔王を、倒した……!」
カサンドラに吹き飛ばされていたベルンハルトが、泣き笑いのような顔で呟くのが聞こえた。そんな彼に元に走り寄る少女は、今まで後方に控えていた、回復を司る光魔法の使い手、マリー。二人は嬉しそうに、抱き合って喜び合っていた。
この世界には、数百年に一度、魔王と呼ばれる存在が現れる。普段は単独で人間を襲う魔物たちが、その時ばかりは魔王の指示に従い、群れで人間を襲うのだ。人間からすれば、戦争相手の周辺各国よりも恐ろしい存在である。
そんな今代の魔王がこの世界に現れたのが、五十年前。人々は魔物の脅威に怯え、神託を降されると語り継がれている巫女姫と、巫女姫が神託により選んだ勇者が現れるのを、ただひたすらに待ち望んでいたのだ。
そして今から二十五年前、女神レオノーレの神託を受ける、女神の愛姫、メルテンス王国の第一王女、アウレリアが生まれたのである。彼女が生まれたことにより、魔物の被害を予知することが可能となり、人々は少しずつ、その覇権を取り戻していって。
七年前の運命の日、彼女はとうとう勇者に関する神託を受けたのだった。
勇者の名は、ベルンハルト。当時はメルテンス王国の片隅で見回りをしていた、しがない兵士であった。
女神レオノーレは他に、三人の人物をアウレリアを通して選び出した。
その当時から天才と呼ばれていた少女、光と闇以外の全属性魔法を使いこなす、大魔法使いカサンドラ。
光魔法を使い、奇跡と呼ばれるほどの力で人々を救っていた、聖女と名高い少女、マリー。
闇魔法を使いこなし、騎士としても名の知れていた王国軍騎士、ディートリヒ。
この四人を指して、人々は勇者一行と呼んだ。
そうして今まさに、そんな勇者一行の最終目的とも言える、魔王討伐任務が終わりを迎えたのである。四人が揃い、旅を始めてから、実に七年の歳月が過ぎていた。
「お疲れさま。やっと終わったね」
背後から歩み寄って来た赤く長い巻き髪の少女、カサンドラが、顔や服、手や足にいたるまで、汚れた姿でそこに立っていた。おそらくは自分も似たようなものだろう。「ああ。終わった」とだけ、ディートリヒは応える。
やっと終わった。やっと。
「これで帰れるね。……ふふ。英雄とか呼ばれたりするのかな。私たち」
楽しそうに言うカサンドラに、「さあ、どうだろうな」と返す。素っ気ないディートリヒの態度にも慣れているカサンドラは、気にする様子もなく楽しそうに笑っていた。
「ベルンハルトとマリーも、これでやっと結婚できるでしょうし。世界は平和になるのよね。……よーし、帰ろう! ね、ディートリヒ!」
言って、カサンドラがディートリヒの手を取り、歩き出す。いつも通りの唐突な行動に僅かに嘆息するも、言葉を返すのも面倒になり、歩き出そうと地面に突き刺していた剣を抜いて。
ぴたりと、ディートリヒは動きを止めた。
『~~~~~~~~』
何だ、これは。
「ディートリヒ? 大丈夫?」
動こうとしないディートリヒに驚いたように、カサンドラがこちらを向いて声をかけてくる。
しかしディートリヒは、それには答えなかった。答えられなかったという方が、正しいかもしれない。
頭に響く、奇妙な声。
『~~~~~~~~』
「……どこから……」
ぽつりと呟き、周囲を見回す。ここは魔王が居城としていた、魔王城の中。ぽっかりと一つ、広い空間が開けているだけの、石造りの古びた城。全て倒して闇に呑み込んでしまったため、辺りに魔物の姿はなく、こちらを不思議そうに見つめるカサンドラと、向こうから歩いて来るベルンハルトとマリーの姿が見えるだけ。
では一体、どこから。
「……影」
『~~~~~~~~』
足元に伸びたそれを目にした瞬間、一際大きく響いた声に、ディートリヒは眉根を寄せた。
ざわりと、影が、騒いでいる。影に溶けた闇が騒いでいる。言葉と思えぬ言葉を紡いで、足を伝い、身体を伝って、ざわめく声は頭に響く。
『~~~~~~~~』
何なんだ、これは。
「ディートリヒ? ねえ、本当に大丈夫? ベルンハルト! マリー! こっちに来て! ディートリヒが……」
どうやらカサンドラには聞こえていないらしい。この、頭に響く、不快な声が。金属に爪を立てた時のような、気味の悪い声が。
うるさい。ただただうるさくて、気分が悪い。
「ディートリヒ様、大丈夫ですか? お待ちください。今、回復を……」
カサンドラの声を聞きつけて、駆け寄って来た淡い水色の長髪の少女、マリーがそう言って光魔法を使う。ディートリヒの方にかざした彼女の両の手が光に包まれると共に、ディートリヒの身体もまたその光に包まれて。目に痛いほどの光が落ち着くと同時に、身体中の痛みが消え、怪我という怪我、不調という不調がなくなったのを感じた。けれど。
『~~~~~~~~』
頭に響く、この声だけは、消えない。
「ディートリヒ、大丈夫か? 顔色が悪いみたいだ」
ベルンハルトが心配そうに言うのに、「疲れただけだ」と短く返す。響く声が、頭の中を回り、気分が悪い。
「早い所、近くの街まで戻るとしよう。皆も、疲れているだろう。長年の宿敵、魔王を退治したのだから」
何でもない風を装って言い、頭を抱えた状態で歩き出す。三人はそんなディートリヒの様子を訝しく思っているようだったが、その場に留まっているわけにもいかなかったのだろう、ディートリヒのあとを追ってくるのを感じた。
……疲労のせいかもしれんな。ひとまず、休息を取ろう。
そうすれば、いつの間にか聞こえなくなるかもしれない。この不快な声も。
思い、ディートリヒはただ足を進め続けた。影はそんな彼の足元を、追いかけるようについて行った。
目が覚めた。窓の向こう、月が煌々と照らす、夜闇の中で。眠りが浅くなる度に聞こえてくる不快な声は、どうやら自分を寝かせまいとしているようだった。今日の夕刻には、国王との謁見が控えているというのに。
『~~~~~~~~』
……うるさい。うるさいうるさいうるさい……!
世界の果てと言われる、魔王城のある黒の森を出て、倒し損ねた魔物を倒しながら帰路について。ディートリヒたち勇者一行は今、メルテンス王国の城下町にある宿屋に宿泊していた。
あの日から、もうすでにひと月は経っている。魔王を倒した、記念すべきあの日から。だというのに。
頭に響く声は、静まるどころか激しく騒ぎ、ディートリヒはこのひと月の間、まともに眠ることさえも出来ないでいた。煩くて、煩くて、堪らない。
おかげで、波打つようだった肩まである金の巻き髪は色をくすませ、光り輝くようだと称された美貌はすっかりやつれてしまい、目の下の隈はディートリヒのトレードマークのようになりつつあった。
「……また眠っても、同じことか」
ぼそりと呟き、諦めたように半身を起こす。碧い瞳を隠すように目許を手で覆って息を吐き、闇の中で瞬きを繰り返した。
これは、魔法なのだろうか。魔王を討った自分にかけられた、魔王の最後の魔法。そうして自分が弱って命を失えば、次は他の四人の誰かに移るのだろうか。まるで復讐でもするかのように。それとも。
勇者一行への復讐ではなく、自分だからこそかけられた、魔法なのだろうか。
魔王に連なるとされる闇魔法を使い、魔王のその身を闇に食らわせた自分だから。
答えなど、分かるはずもない。
『~~~~~~~~』
不快な声が響き渡る脳内に辟易しながら、ディートリヒは秋も近付くしっとりと冷えた空気の中、ベッドから抜け出して。
あてもなく、歩き出した。
城下町の大通りを馬車に乗って通り過ぎ、王城へと進み出た途端、周囲は歓喜の声で包まれた。普段は警備の厳しい王城の城門内も、今日ばかりは部分的にではあるが解放され、人々は口々に魔王の最後を祝い、勇者一行を英雄としてもてはやす。
五十年ぶりに訪れた平和を、人々は心から喜んでいた。
青白くなった顔を更に青くした、ディートリヒ以外は。
「ディートリヒ、大丈夫か? 僕たちはここで降りるから、馬車で出来るだけ奥へ行ってもらうよう伝えておくよ。さすがに王城の中は歩くことになるだろうけれど」
向かいの席に座ったベルンハルトが、窓に寄りかかるようにして身体を預けるディートリヒを心配そうに見ながら、そう声をかけてくる。ひと月前ならば無理にでも自分の足でと考えただろうが、残念ながら今のディートリヒには、そのように思う元気さえも残ってはいなかった。
「……頼む」と、呟く声は暗く、ベルンハルトだけでなく、カサンドラもマリーも、不安そうな顔でこちらを見ている。
と、がたん、と音を立てて、馬車がその動きを止めた。どうやらここまでのようだ。
「僕たちはゆっくり歩いてくるから、先に控室に行って休んでいると良いよ。マリー。カサンドラ。行こう」
「はい。では、ディートリヒ様。また後で」
馬車の扉が開き、歓声が狭い空間に響いて、ディートリヒはその顔を歪ませる。頭に響き続ける声と相俟って、がんがんと頭が痛んだ。
「ディートリヒ、私、一緒に……」
ベルンハルト、マリーの順に馬車から降りて行く中、カサンドラだけがそう言って声をかけてくる。おそらく自分を心配しているのだろうと、それは分かるのだけれど。
「早く行ってくれないか。カサンドラ」
苦痛に耐えるような表情で、そう、ディートリヒは言った。とてもじゃないが、他人に気遣いを出来るような状態ではなかった。
早く行って、扉を閉めてくれ。
この煩い場所から抜け出したい。
『~~~~~~~~』
頭の中に響き渡る声に奥歯を噛み締めれば、カサンドラは少し躊躇った後、馬車を降りた。扉が閉じ、少しだけ周囲の歓声が遠くなる。
それでも、この声だけは、消えない。
『~~~~~~~~』
一体、何なんだ、これは。
人目が無くなったことにより、取り繕う必要性も消え、ディートリヒは頭を抱えるように両手で耳元を包み込む。
うるさい。うるさいうるさいうるさい。
うるさくて仕方がない。
「魔王を倒した英雄たち、勇者一行に祝福あれ!」
歓声に共鳴するように、頭の中に響き渡る声もまた一層大きくなる。吐き気さえも襲ってきて、溜まらず口許を抑えたところで、がたんと音を立てて馬車が動き出した。歓声は相変わらず馬車を包み込んでいたけれど、勇者であるベルンハルトが注目を集めてくれているため、声は段々と遠ざかっていく。頭の中の声が消えたわけではないが、それでも少しはマシだとディートリヒは息を吐いた。
人の気配が遠くなり、がらがらと馬車の車輪の音が聞こえ始める。視線だけで窓の外を見れば、どうやら王城の裏口へと回っているようだった。
もう七年も前になる。王国軍の魔法騎士として、毎日のように出勤していた職場。今ではもう、随分と懐かしい。
皆はどうしているだろうか。まさか同じ配置のまま、ということはあるまい。
人々が王城の広間で声を張り上げる中、静かに王城の裏手の護りを固める騎士たちを横目にそんなことを思う。自分が魔法騎士育成所を出て、初めて与えられた任務が、彼らと同じ裏門の見張りだった。何もかもが懐かしい。
声に引きずられるようにぼんやりとする思考のまま馬車に揺られていたら、王城の裏口に辿り着いたようだった。馬車が停まり、御者が恭しく扉を開く。立ち上がるのも億劫だったが、まさか抱えてもらうわけにもいかないわけで。一つ息を吐いて気を引き締めると、何事もない風を装って、ディートリヒは立ち上がった。ぐらりぐらりと、世界が揺れる。
馬車から降りれば、侍従が一人、姿勢を正してディートリヒを待っていた。静かな表情に笑みを載せ、「お初にお目にかかります、シュタイナー卿」と、彼は呟いた。
「体調が優れないとのお話を聞いております。控室にご案内いたしますので、勇者様方の謁見の間、そちらでお待ちください。国王陛下並びに王族の方々との晩餐の席のみご参加くだされば、後は休んで頂いて構わないと伺っております。それでは、こちらへ」
侍従はそう言うと、一度頭を下げ、踵を返す。すたすたと歩くその後ろ姿を追って、静かな王城の中を進んだ。廊下を歩き、角を曲がり、また廊下を進む。時折、王国軍時代の同僚とすれ違ったが、こちらが誰か気付いていない様子だった。それだけ、変わったということだろう。やつれた、と言った方が正しいかもしれない。
「こちらの部屋でお待ちください」
いくつもの扉の前を通り過ぎた後、とある一つの部屋の前で、侍従はそう言って足を止めた。扉を開き、その中を示してみせる。
ディートリヒの記憶が正しければ、この部屋は大広間の控え室だったはず。大広間で晩餐会を開くというのならば、適当な場所といえるだろう。
いくつかのテーブルとそれに合わせた椅子、壁際にもまた複数の椅子が備え付けられ、ディートリヒは部屋に入り、扉から最も近い場所にあった壁際の椅子に座った。
「お飲み物などお持ちいたしましょうか?」と、訊ねてくる侍従に「必要ない」と短く応えれば、侍従は深々と頭を下げた後、部屋の扉を閉めた。
そこそこ広い部屋に、自分以外の姿はなく。耳から入る音はないはずなのに、ただただ煩くて仕方がない。
『~~~~~~~~』
意味を持たない奇妙な声の羅列は、まるで羽虫のように頭の中を蠢く。身体を休めようと、目を閉じて意識を遠ざけようとするけれど、それと比例するように頭の中の声はその音量を上げて。
うるさい……!
頭を抱え、そう、思わず叫び声を上げてしまいそうになった、その時だった。
「こちらのお部屋が控室になっております。少し休憩なさってくださいませ」
がちゃり、と扉が開かれると同時に聞こえてきた、きびきびとした口調の女の声。その声に、「ありがとう、アマンダ」という、先の女とはまた別の女の声が返事をする。
勇者一行が凱旋した祝うべき日に、まさかひと気のない控室に来るとはと、自分の状況を棚上げして思ったディートリヒは、僅かに頭を上げて、開いた扉から部屋に入ろうとするその女の姿に視線を向ける。おそらくはどこかの貴族の娘なのだろう。長いドレスに隠された足が、一歩部屋の中に踏み出されて。
僅かに、目を瞠った。
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