第二話(3/3)「今日はまっすぐ帰れない」
最終下校時刻、午後六時を少し回ったころ。
太陽はその向こう側へと沈む稜線、尾根にかすかに赤みを残すばかりだった。
振り向けば星空がいくつもまたたいて見える。とはいえ直射日光がないとは思えないくらい辺りは蒸し暑く、まだ夏が終わる気配など欠片もない。
三人は徒歩で帰路についていた。ライカは自転車を押していた。前かごがないから、ヘルメットの顎ひもをハンドルにひっかけている。
駅へと向かう四車線の街道は、緩やかな弧を描いた、緩やかな下り坂。
心地良いそよ風が、胸元のネクタイをはためかせる。遠くの林から、セミの鳴き声が繰り返し響いていた。
咲哉は、この時間が過ぎ去るのが惜しいと感じていた。そんな感覚、久しく味わっていなかった。
学校を出たときはまだ確かに夕方なのに、駅に着く頃にはぐっと夜が近づいている。わずか十分ほどの間に目に見えて時間が流れていくのがたまらなかった。そんな時間にこうやって誰かと一緒に歩いていると、例え黙っていても、何かが充実しているような気持ちになる。
「それにしても、やっぱりA組の人は賢そうでしたね。なんだか口ぶりからして頭の回転が速そうだなーっていうか」
「賢そうっていうのは確かにそうかもしれないけど、その極地がライカなわけでしょ」
「そうだ。そもそもクラス分けなんて一発勝負の試験の結果に過ぎないのだからな」
「だけど、たかだか文化祭の出し物で部外者に意見を出させて本気で良くしようなんて、そんな発想自体、俺たちのクラスにないだろうし。やっぱスペックが違うんじゃないの」
「個々の能力は高いかもしれないが、統率するものがいないからな。貴重なご意見が揃ったところで、果たして誰がまとめてくれるのやら……。今日来てないやつは、夏休みが終わるまで来そうもないしな」
「そもそもあんたも大してやる気ないでしょ」
「ハハ、ばれたか。当日好き勝手するためにゴマをすってるだけだからな」
「そう言えば、あの日呼ばれてたのは何だったんですか」
「あの日?」
「俺にその……告白してて、小鳩が誰かが呼んでる、って言ってきたときですよ。急ぎだったんですよね」
「……ああ」
何かを思い出したライカは、納得したかのようにうなずく。
「あれはな、クラスTシャツの代金を督促されていたんだ」
「そんなのありましたね」
咲哉のクラスは一斉に徴収したのが六月で、一学期のうちには配られたはず。
「ってアンタ、何ケ月踏み倒してたわけ?」
「特別に注文し直したんだ、XLでも着れなかったからな。まったく、一世一代の愛の告白を、あんなどうでもいいもののために中座してしまったのかと思うと……」
語尾がトーンダウンしたかと思うと、やがて彼女は自転車を押しながらも、真剣な表情に切り替わっていく。
「おい、サク」
「なんでしょうか」
「折に言って頼みがある」
ライカは正面を見据えたまま、咲哉に凛々しい横顔を見せつけるようにして歩き続ける。その表情に、少年は恋焦がれる感情とは別種の苦しさを抱く。
「明日は土曜だろう。何か用事はあるのか?」
その一言で、小鳩がさっと表情を曇らせる。
「いや、何も……」
「文化祭の準備で、何か手伝ったりとかは?」
「先輩のクラスと同じで、一部の人間が頑張ってる感じなんで。多分ずっと家にいると思います」
「なあ少年、そろそろ良いだろう?」
「良いって、何が」
「お前とお喋りをするのは楽しい。だけど、お前はなかなか心を許してくれなかった。だが、今日は一気に近づいた気がする。小鳩もそう思っただろう?」
「腹立たしいけど、クラスメイトともあの自信満々の態度で駆け引きしてるのは流石だと思ったわ。やっぱりサクが特別ヘタレだから強気に出てる、ってわけじゃなかったのね」
「私はな、みすみす好機を逃すような人間ではない。相手の頑ななガードにほころびが見つかれば、そこを攻めて追い詰めざるを得ない性分なんだ」
「はあ」
「かくなる上は、お前に更なるアプローチをしかけて、私のこと以外考えられなくさせてやる。素直になれないというのなら、その枷を完膚なきまでに打ち砕いてやろう」
「何が言いたいんですか」
烏山ライカは前を向いたまま、自転車を押し続ける。スポークがカラカラと音を立てる。
「少年、明日はデートをしよう。私がエスコートしてやる」
「……え」
「予告しよう。お前とこの宙ぶらりんな関係に、一発で決着をつけてみせようじゃないか」
「……」
その言葉の意味を上手く受け止められなくて、咲哉は反射的に「分かりました」と言ってしまった。もちろん本当は何も分かってはいなかった。
「よし、それじゃあ明日は十二時に駅前だ。異存はないな?」
そこまで言われて、少年は初めて言葉の意味を理解する。
デート。先輩とデート。
瞬間、目の前が真っ白になった。一切視界に入る情報が処理できない。
「危ない!」
そう叫んだのは小鳩だった。その瞬間、初めて、自分が赤信号の横断歩道に飛び出していることに気づいた。バイクのエンジン音が鼓膜に飛び込んでくる。
景色がスローモーションで流れる中、視界の隅でバイクが現れる。
冷や汗が、背筋を凍らせた。
果たして、一日に何回ブラックアウトすれば気が済むのだろう。
ふわふわと宙を漂いながらも何かに包まれるような感覚に、最初は衝撃で五感がおかしくなっているのかと錯覚した。
「……しっかりしたまえ」
気が付いたときには歩道の上で、少年はライカに抱き抱えられていた。足が宙に浮いている。車道に出ていた身体は、彼女が無理やり引き寄せていた。自転車が足元に転がっている。
「大丈夫……よね?」
「……ああ」
バイクはブレーキ痕もなく、そのまま走り去っていた。クラクションを鳴らされたわけでもなかったし、どうやらそこまで危なかったわけではないらしい。冷静になって考えてみれば原付だから、スピードもたかが知れている、あのままでもかすったか、せいぜい軽くぶつかって、こちらがちょっと痛い思いをしたかどうか。
数メートル後方に、彼女が放り出した自転車を認める。傷がついたとしたら申し訳なかった。
「……すみません」
「気にするな、大したことじゃない」
彼女は自転車を立て直して、再び何事もなかったかのように歩き出す。幸い、目に見える窪みや傷はなさそうだ。それに、どういうわけだか……少し足取りが軽やかに見える。
「でも一目散にバッと駆け寄ってきてくれて、その、俺を抱き寄せてくれて……情けないですけど、本当にカッコよかったですよ」
「そう言われると、悪い気持ちはしないものだな。……それにしても」
「しても?」
「まさか初めての抱擁が、こんな形になるとはな」
「……すみません」
自分を包み込んだ女性の感触を思い返し、少年は顔から火が出そうになる。
「男の身体というのも、案外やわらかいものだな」
「ライカ」
「はは、そんな素直に叱ってくれるな。思ったことは正直に言わなくてはいられない性分なんだ」
「だから叱ってんのよ」
小躍りするような彼女の足取りを見て、咲哉は目の前の少女が、自分の完全上位互換としか思えないこの少女が、愚かで愚鈍なこの自分を、本気で好きでいてくれることを再認識する。そのことが、初めて認識したときほど気持ち悪いことではなくなっていることも。
ずっと自分のことを救いようもないクズだと思っていた。
だけど、ひょっとしたらそれは思い込みに過ぎなかったのかもしれない。
少なくとも、それを理由に彼女をかたくなに拒まなくても、赦されるのではないか。
夕焼けの色が少しずつ夜に溶けていく。駅前が近づいてくる。
何を思ってか、ライカはロータリーに入らず、遠回りをし始めた。自然と口数が少なくなっていた二人は「俺たち電車で帰るんですけど」などとは口を挟めず、黙ってついていく。
彼女の大きな背中を覆う、豊かな髪が風にそよいだ。
銀色に輝いて、少し早いススキのようだ。思わず見とれてしまう。
そして踏切を渡り、しばらく歩いたところで彼女は足を止め、振り返った。
三人が止まっていたのは、喫茶店の前だった。
「明日はここに集合でいいな?」
「……そういうことですか」
「私がエスコートすると言っただろう。デートは既に始まっているのだよ?」
「……あの~」
「なんだ?」
「デートだなんて正直、周りの目が気になるな、なんて」
「学校ではもうほとんどの人間がざっくり認識してるんだ、気にするな。というか気にならないようにしてやる。目の前の私を意識するだけでいっぱいいっぱいにしてやろうじゃないか。
答える代わりに、咲哉は複雑な表情で喫茶店の看板を仰いだ。
すみません、推敲が間に合わなさそうなので次回は明後日更新予定です。
頑張ります。