第一話(3/3)「美少女に口説かれるのは楽じゃない」
まさかとは思ったけれど、彼女が繰り出したのはあまりにも唐突で直球過ぎる告白だった。
しかも、断られることなどまるで想定していない物言い。
咲哉は「はい」と言えず、かと言ってはっきり「いいえ」とも言えず、うつむき加減で困惑の表情を浮かべるのがやっとだった。
「はい」という言葉は喉元まで出てきていた。
誰かに交際を申し出されたのは初めてのことだった。そのことに素直に舞い上がる自分もいた。
ちょっと風変わりなようだけど、幸いにして、彼女のことを良く知るらしい人物も身近にいる。何よりとびきりの美人だ。無下にすることもない……。そう思いつつも、「はい」の一言は彼の喉元を超えることはなかった。
「いいえ」の理由も溢れんばかりにあった。
それはかつて、自らに課した誓約が原因だった。
(自分は誰かを好きになることはないし、好かれることもないだろう)
入学当初から、そう決め込んで高校生活を過ごしてきた。高校入学当初から他人に興味を持ってはいけないと、かたくなに自分に言い聞かせ実行してきた。それを、あっさり宗旨替えして良いのか。
そもそも自分はあのような女性に惚れ込まれるような器ではない。何か担がれているのか、あるいは小鳩が認識している以上に常軌を逸した人物なのではないか……。そんなことばかり考えてしまい、完璧におぜん立てされたシチュエーションでなお一歩を踏み出すことが出来なかった。
(俺ってどうしようもないな)
誰とも帰るタイミングが被らないよう、長めにトイレに寄ってから帰り支度をする。今はとにかく誰にも話しかけられたくなかった。そういう精神状態ではなかった。
ふと小鳩の顔が頭に浮かぶ。唯一継続的にコミュニケーションを交わす、友人未満の存在。
今日は彼女に対して何度もいら立ち、当たってしまった。
普段から親しげに話してくる彼女に対して、理由もなくいら立ちを感じることは多かった。それでも普段はお喋りと呼ぶにはかなりあっさりした事務的なやりとりばかりだったから、時たび感じるうっとおしさも頭の片隅に押し込めることが出来た。
だけど、流石に今日はどう思っただろう。
なぜだか機嫌が悪いという風に思ってくれればいいけれど。
そして明日もいつものように、これまで通りに話しかけてくれればいいけれど。
我ながらムシの良すぎる願望だった。
(俺って、最低だ)
彼女は、野水小鳩は本当に優しい人だ。学校で居場所を上手く見つけることのできない自分のようなクズに対して、気を使って接してくれる、本当に優しい人だ。
恩を着せるようなことだって、一度たりとも言ったことはない。何より、俺のことを良く見ていてくれている。ただその優しさを憐れみという風にしか受け取れず、傷ついていく自分が嫌だった。
(俺って、本当に最低だ……)
校門を出たとき時刻はちょうど正午を回ったころだった。暦の上ではとっくに残暑だが、湿度、不快指数は共に高く、まだまだ酷暑の様相。
駅へと向かう四車線の街道は、緩やかな弧を描いた、緩やかな下り坂。
歩道を歩いているのは咲哉一人だった。足元の照り返しが厳しく、目を開けているのがしんどいくらいだ。途中に涼むコンビニはおろか、木陰もない。不意にタクシーに追い越され、呼び止めたい衝動に駆られる。
ともすれば熱中症になりそうな道すがら、咲哉はぼんやりとした頭で先ほどのやり取りを思い返した。ライカの言葉よりも、あの嬉々とした表情が鮮明に蘇る。
初めて他人から向けられた、明確な好意。
ポジティブな感情を向けられることが、あんなに怖いとは知らなかった。
明日、もし彼女に会ったら何を話せばいいんだろう。
小鳩に謝るのは……無理だろうな。
様々な感情はいつまでもくすぶったままだった。駅前のコンビニに何となく突入し、何を買うでもなく、しばらく涼を取ってから少年は帰路に着いた。
翌朝も夏期講習だった。
午前八時前、通学路の開けた街道を登って登校する。
本当はもっと遅くても間に合うのだけれど、時間ギリギリに気温が上がった坂を登るしんどさと、朝早く起きるしんどさを天秤にかけた結果だった。
既にむせかえるような蒸し暑さの坂道を、丸まった背中がとぼとぼと登っていた。
野水小鳩だ。
この時期、律儀に制服のベストを着ているのは彼女くらいのものだ。
気配を察したのか、彼女の方から振り返る。
「おはよ、サク」
「……ああ」
「ねえ、大丈夫?」
簡潔な口調が逆に身に染みる。
「どうってことねえよ」
「なら良かったわ」
つっけんどんな返事だったが、小鳩は安心してくれたようだった。そのことが救いだった。
実際、一晩中思い悩んだせいで、昨日のやり取りが白昼夢か何かのように思われてきて、何にとらわれていたのかさえおぼろげになっていた。
「いきなり名前も知らない人から好きだ好きだって連呼されたら、怖くってたまらないわよね」
「っていうか、なんかの冗談だったんじゃないのか」
そうだ、昨日の先輩のセリフは、彼女なりの冗談なのかもしれない。それが、一晩考えた末に少年が得た結論だった。
四か月も前に二言三言喋っただけで、名前も知らない後輩に惹かれるわけがない。
あんな華のある人が、俺なんかを口説いてくるはずがない。そうだ、きっとそうに決まっている――。情けなくもそう言い聞かせることで、咲哉はつかの間の平静を取り戻すことが出来た。いや、そう考えざるを得なかった。
小鳩を追い抜かそうと思ったけど、彼女があえてついてくるのか自分がバテてきたのか、そのまま長い通学路を並走することとなる。
「なあお前、ライカさん……?のことだけどさ」
「あんなの、『さん』付けしなくていいから」
不意に、口調がとげとげしくなる。
本気で先輩のことを疎ましく思っているようだ。普段の咲哉に対する淡々とした話し方は、彼女的には案外好意的に接しているのかもしれない。
「じゃああの人のことさ、もっと詳しく教えてもらえるか?」
「いいけど」
まさか自分から小鳩に話しかける日が来るとは。わずかに葛藤こそあったものの、背に腹は代えられない。
「なんだっけ、『褒めるところはたくさんあるけど』……」
「『あの人そのものは褒められない』。私が中学時代にずっと感じていた、鬱屈とした感情を一言でまとめると、そう」
「性格が悪いってことか?」
「ちょっと違うかしら。ある意味すごい素直で、本当に裏表がないんだけど、遠慮がなさすぎるのよね。高慢で、強欲で、おまけに大食らい……言うなれば、七つの大罪の詰め合わせってとこかしら」
「……そこまで言わしめる女子高生ってなんなんだよ」
「誰が七つの大罪だって?」
背後に大きな気配が走ったのはその直後、校門をくぐった瞬間だった。
そして、シャーッというフレームの音。
気配は、そのまま咲哉の正面で停止する。前傾姿勢のスポーティなフレームの自転車に乗った少女が、目の前で止まる。ヘルメットを外さずとも、昨日嫌というほど見た不敵な笑み顔が透けて見える気がした。
頭がフリーズした咲哉は、ただ単に目の前の障害を回り込んで避けようとする。
「待て待て!どうした、まさかこの私を、昨日の今日で忘れたのか?」
そう言いつつ、自分を指さすライカ。
「……またイキってる……」
小鳩の吐き捨てるようなつぶやきが、自分の気持ちを代弁してくれた。もっとも、自分はそこまで辛らつには思ってないけれど。
返す言葉を持たない咲哉が再び昇降口に向かおうとすると、彼女は再び回り込む。
わざとらしく首を傾けながら、競技用らしい洒落たヘルメットを脱いで、彼女はボリュームたっぷりの髪を、朝の風に泳がせた。そのいで立ちが不思議と制服になじんでいた。
「やあやあ諸君、ここでばったり会うとは、これはやはり運命か!?」
きのう彼女に対して抱いた印象を再確認するべく、咲哉は顔を凝視する。
やはり嘘のように大人びていて、美しかった。その自信に満ち溢れた顔つきは、オーラと呼んでも過言ではない存在感は、間違いなくきのう一日で目に焼き付いたものだ。
カッコつけているのに、カッコよかった。
……それなのに。
「ふふん、どうした少年?ついに落ちたか?」
そう言われた瞬間、胸の中の高揚感が、嘘のように醒めていった。
身体は熱を帯びているのに、手足は冷たい、風邪をひいた時のような感覚。
「……何しに来たの」
そんな悪寒を覚えたのは、咲哉だけではなかったようだ。
「相変わらずつれないな。中学のときは短くも濃い付き合いだったじゃないか」
「暑いのに、朝から元気いっぱいですね」
「はは、そうだろう!あまたある取り柄のうちの一つと言える」
棒読み気味で、歓迎してないという態度を精一杯示したつもりだったが、伝わらなかったようだ。
いや、あえて意に介さなかったのか。
「少年、昨日はいきなりすまなかった。どう考えてもお前に断られることはないと踏んで、強引な態度をとってしまったが、その場で返事してくれるとは限らないよな。一晩考えて気がつかされたよ。それでどうだ、腹は決まったか?」
「……すいません、全く考えていませんでした」
「そんなことだろうと思ったよ」
がっかりして見せるかと思ったが、ライカは揃えた指を胸元に突きつける。
「それなら改めてここに宣言しよう。いいか、私は今日から、お前を口説く。今もお前の胸の中にある、昨日引き出せなかった言葉を、今日こそ引き出させてもらう。今日が駄目でも、明日こそ聞かせてもらう」
昨日の記憶がフラッシュバックする。言いたくて、でも不安と戸惑いという枷に引きずられて出てこなかった言葉。見透かされているのに、抱え込んだまま手放せなかった言葉。
「なんで俺なんかにそこまで……」
「自分が自分のことを一番理解していると思ったら大間違いなのだよ。お前はお前が思っている以上に魅力的な存在なのだ。少なくとも、私にとってはな」
聞いているのが辛くなってきて、力なく空を仰いだ。
(……現実だ)
桜尾咲哉は、かすかにひきつった表情で後ずさる。
(現実なんだ。これは紛れもない、現実……)
この夏が、いや入学以来の日々が、特に何もないまま過ぎ去っていくことを、ずっと嘆いていた。
そこに妄想を超える出来事が、降って湧いてきた。なのにいざその番になると、自分はそれを素直に認め、受け入れることすら出来なかった。
(こんなに綺麗な人に言い寄られることが、こんなに辛いことだなんて)
振り払った手のひらをじっと見てから、再び空を仰ぐ。校舎の影から覗いた雲が、高く登っていた。
夏期講習は、もう少しだけ続く。
出来るだけ毎日更新したいと思います。
頑張ります。