第五話(2/3)「尊大な彼女は尊大な彼女を認めない」
「なにやってるの、二人とも」
小鳩は死んだ魚のような目で、こちらを見つめていた。
ライカはとうとう最後まで気が付かなかったけど、彼女が手を広げて「私の胸に飛び込んでくるがいい」と言ったあたりで、咲哉は教室のドア越しに小鳩がこちらを覗いていることに気づいた。彼女の目には、ライカが合意もなく強引に少年にのしかかったように見えたはずだ。
それは咲哉の意図した通りだった。こうすれば、彼女が助け舟を出してくれるはず。
もっとも戸惑っていたのか、実際に入ってくるまで結構時間がかかったけれど。
「お前こそどうしたんだ、こんなところまで来て」
自分の体勢について、ライカはしらばっくれる。
「サクが全然戻ってこないから、探しに来たの。もうみんな教室で打ち上げやってるわよ」
「おっ、そうだったのか。それじゃ先輩、自分はこれで……」
白々しくその場を去ろうとする咲哉を、ライカは名残惜しそうな顔で見送ろうとした。
小鳩が立ち止まったのは、その時だった。
「ねえ、サク。そういえば今晩、付き合ってもらえる」
「!」
その言葉に、ライカの耳も反応する。
「付き合うって?」
「スマホを買おうと思うの。今日は文化祭の準備もないし」
「ああ、そういうことか。不便だもんな」
「来週の文化祭当日までには欲しいのよね」
「在庫があれば、今日から使えるんじゃないのか」
「じゃ、よろしくね」
小鳩はうっすら微笑んでいた。咲哉はどうしてそんな話を、今ここでしたのだと尋ねたかったけど、彼女の意味深な表情の前では言葉が出てこなかった。
無事ミッションを成功させた二人は、ファミレスで夕食を摂っていた。
「おかげで納得のいくものが買えたわ」
無個性なスパゲティをフォークでくるくると巻き上げながら、少女は上機嫌でそうつぶやく。テーブルの上には、フィルムを剥がしたばかりの真新しいスマートフォンが置かれていた。
「っていうかお前、もう親からハンコもらってたのかよ。プランとかもちゃんと分かってたし、俺がいなくても全然平気だったんじゃないのか?」
ハンバーグをナイフで切り分け中のチーズを流出させながら、少年は疑問をぶつけてみる。未成年は親の同意がなくては買えない、というのは既に持っている人間にとっては常識だが、小鳩がきちんと準備しているのは意外だった。
「そりゃある程度は調べてたわよ。でも携帯電話って、水際で訳の分からないオプションを言葉巧みにつけさせて儲けてるんでしょ。私一人だったら言いくるめられていたかもしれないし」
「偏見だろ」
周囲から制汗剤の匂いがする。隣では同じ学校の少年少女たちが、特に行事とは関係ないうわさ話で盛り上がっていた。一対一でダウナー気味に喋っている自分たちは、思いのほか悪目立ちはしていないようで安心した。
「ね、早速ラインの交換しましょ」
「そうだな、クラスのグループにも招待しとくか」
それもひと段落したところで、自然と話題は空き教室での顛末に移る。
「それにしても、災難だったわね」
「ああ、まったくだ……はあ」
「ライカは焦ってるのかもしれないわね」
連れだってドリンクバーに向かいながら、小鳩はそう言った。
「焦り?」
「もう知り合って三週間近く経つわけでしょ。最初に告白されたとき、相当手応えあっただろうし。今更だけ、私が割って入らなければ、即付き合ってたんじゃない?」
「……そうだったかもな」
あのときは恋人はおろか、友達だっていらない、小鳩だっていらない、一人で生き抜かなくてはならないと本気で思っていた。出来るわけがないって気づいただけ、少しは成長したのだろうか。
そんなかたくな心の隙間に、鋭く割って入ったのが烏山ライカだった。彼女はこちらのこだわりを覆し、ねじふせる、圧倒的な輝きを放っていたわけで。
……でも。
「あのとき俺が先輩に対して感じた感情は、どんどん目減りしてる。すごいって思うところは何も変わってないけど、彼女自身に対する尊敬は……」
「私と一緒じゃない」
小鳩はくすりと笑っていた。
コーヒーサーバーからカプチーノが注がれる様子をじっと眺めつつも、その横顔は静かに笑っていた。
彼女はその日ずっと、はにかむような照れたような、楽しげな表情をしていた。
店を出て改札をくぐって、
自分だけトイレに行ってからホームで合流して、
列車に乗って隣の座席に座って、列車を降りてまた改札を出て――
なおも背中越しにも分かるくらい、終始はっきりと陽の気配を漂わせていた。
愛想の良いやつならデフォルトだろうけれど、基本仏頂面か渋面の小鳩がそのような様子なのは、ライカ基準だと喜色満面、口を大きく開けての高笑いに相当するんじゃないだろうか。それなりに濃い付き合いだから、咲哉にはよく分かった。
よっぽどスマホが欲しかったのか、いや……。
「ねえ、サク」
別れ際、彼女の家の前で呼び止められた。笑みがまだ持続している。
「どうした?」
「…………!」
重苦しい沈黙ではなかった。
彼女の高揚感はピークに達していた。
まるで花のつぼみが、初めて咲く様を早回しで観ているかのようだ。
彼女自身も戸惑って見えた。
「…………」
「…………」
やがて、何事もなかったかのようにしぼんだ。
「やっぱり今はいい」
そう言って、軽やかに背を向けた。
「……おう」
なぜか追求しようという気持ちにはならなかった。
彼女に背を向けて帰宅してから風呂に入って、少年はベッドに倒れこむ。
まだ20時過ぎなのに、身体がどんどん沈み込んでいく感覚に襲われる。ふとスマホを充電してないことに気づき、必死にベッドの下に腕を伸ばして、カバンの中のスマホをつかむ。
無意識の動作で通知画面を見て、目が醒めた。
『私に乗り換えたら』
野水小鳩からのラインだった。
そのコメントは、風呂に入っている間に送られてきたものだった。
本当に、「ハッ」という言葉にならない声が漏れた。見間違いかと思って、本当にごしごしと目をこすった。まごうことなき現実だった。
アプリを起動したが、前後の文面はなかった。
何と返事をすればいいのか分からない。
見て見ぬふりをするべきなのかとも思ったが、既読の通知は向こうに届いているはずだ。
さんざん悩んだ末に電話をかける。十回コールした末に、彼女は出た。
「…………もしもし」
予想外の、平常時と同じくらいのローテンションだった。
「さっきのコメント見たけど」
どういう意味だ?と強い語気で詰問したかったが、ぐっとこらえる。
「あ……」
「…………」
気まずいような、そうでないような沈黙。
「……あ~あ」
やがて、大きなため息。
「ラインって消せないのね。本当は送るつもりなかったんだけど。間違えて送っちゃって」
その口調は、なんだかやけを起こしたみたいだった。
「それはつまり、冗談ってことか」
「……本音よ。本音だから漏れちゃったの」
いつも以上にぶっきらぼうな調子で、確かに彼女はそう言った。
「ああ、もう!」
スピーカーの向こう側から、ボフン!と音がする。毛布に飛び込んだ音か、枕を投げた音か。彼女もまた、ベッドの上で横になっているのかと思うと、シンクロニシティを感じた。
「もうごまかしようがないから言うけど、私、あんたのこと、好きになったみたいだから」
「他人事かよ」
「仕方ないでしょ、こんな大きすぎる気持ち、直視できるわけないじゃない」
「待てよ、じゃあさっき、別れ際に何か言いかけたのは」
「直接言おうかと思ったけど、とても言えなかったのよ。初めて知ったけど、面と向かって『好きだ』だなんて、まともな神経してたら言えないわね。恥じらいが少しでもあったなら、自分の一番弱いところなんて晒せないもの」
「うまく伝わらないかもしれないけど、順を追って説明するわね」
「ああ」
寝そべった咲哉はスマホをスピーカー状態にして、画面を眺める。電話越しだと、あいづちを打たなくても良いからこちらも楽だ。
「正直、四月に初めてサクに話しかけたときは、クラスで浮いている者同士で集まっとけば、お互い得かな、ってだけの感じだった。でも、少しずつお互いのことを知っていって、案外良いやつだなってなって……」
「待てよ。最初っからツッコミどころ満載じゃねえか」
「どうして?」
「俺のどこがいいやつなんだよ。その……ついこないだまでつっけんどんな態度だったし、お前の世話になってばかりじゃねえか」
「ペコペコするよりよっぽどいいじゃない。あんたがただ単に生まれつき卑屈なわけじゃなくて、受験で失敗したからって知ったとき、何となく推薦で入った私よりよっぽどしっかりしてる、って思った。それを打ち明けてくれたのも嬉しかった」
「…………」
「サク?」
「俺の一番嫌いなところを、簡単に肯定しやがって」
「ほんと電話越しだと、何でも言えるわね。とにかくそんなこんなで、ぼっちが嫌とか、そういう消極的な理由より、二人でいるのが楽しいっていう積極的な理由の方が強くなってた。あんたがライカとイチャイチャしているのを傍で見てて、なんとなくむず痒い感覚はあったけど、それが今日、一気に好きって感情に変わった。そう、はっきり気づいたのは今日の今日。今ここであんたを奪わないと、取り返しがつかないことになるってそう思った」
あまりにも積極的な発言に、咲哉は困惑する。これじゃライカと大差ないじゃないか。
「ね、私のこと嫌い?」
「そんなわけねえだろ。でも、異性だと思って見たことはなかった」
「好きって言われて、引いてる?」
「ある意味な」
「ある意味?」
「優しくしてくれる奴にいちいち惚れてたら、気持ち悪いだろ」
「何となく一緒にいるだけで好きになった、私の立場はどうなるのよ。私もクラスで浮いてるってこと、分かってるでしょ。遠慮なんかしなくていいんだから」
「そうは言うけどよ」
「言っとくけど、私は誰にでも優しい、博愛主義者なんかじゃない。心を開いてもいいかなって思えた人としか、仲良くできないから。お互い一人では生きてけないのに、手を差し伸べてくれる存在もえり好みしちゃうような存在なわけだから」
「…………そうは言うけどよ…………」
今度は咲哉が沈黙していた。
「ライカのこと?」
「……そりゃまあな。っていうか、この俺が二人の人間から同時に言い寄られているのかと思うとな」
「だったら私に乗り換えればいいじゃない。高慢だと、尊大だと後ろ指を指されても構わないわ」
「そんなの、裏切り以外の何物でもないだろ」
「まだ『はい』って言ったわけじゃないんでしょ。あの人に対する気持ち、大分薄れてるって言ってたじゃない」
「……嫌いになったわけじゃねえよ」
「ライカはきっと、一人でも生きていけるわよ。今日あんたたちを見て改めて思ったけど、やっぱり私の方がいいんじゃない?って気持ちがあるのよね。ホント、なんであいつがサクに執着してるのか分からないけど……」
「…………」
「そうだ、ライカと私、同時に付き合ってもいいんじゃない?私はなんとも思わないから」
「それだけは絶対に嫌だ」
即座に否定する。
煮え切らない気持ちの中で、そこだけは本物だった。
「っていうか無理。一人に言い寄られることがこんなにしんどいのに、二股だなんて」
「別に無理強いはしないわ。向こうは焦ってるみたいだけど、こっちはいくらでも待てるし」
小鳩はささやき続ける。
「ねえサク。私はライカほど賢くはないし、あんたを引っ張れるほどしっかりしていない。……体型もずんぐりむっくりだけど、そのぶんあんたに近しい存在でいられると思うから。それだけは忘れないでいて」
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