第五話(1/3)「勝利の女神は微笑まない」
文化祭の一週間前には、体育祭がある。前哨戦のような位置づけであり、二つの行事を合算しての表彰もあるためおろそかには出来ない。
この季節になると、咲哉は思い出すことがあった。
確か小学三年生のときだった気がする。市制五十周年だか六十周年だかを記念して、市内全ての小学校が合同で、大きな競技場で運動会を開催したことがあった。
前例のない大規模なイベントに自治体が大わらわで、おまけに台風のせいで土壇場で一ケ月延期になったせいで市の予算を著しく圧迫したことは未だに語り草となっている。
当日の現場は大混乱していて、最初はちゃんと学校ごとに整列していたのが、次第に学校も学年も入り混じった状態になっていった。
そのとき、仲良くなった女の子がいた。
当時の咲哉は良く言えば正直、悪く言えばませていた。今となっては考え難い話だけれど、自ら少女に近づき、先に話しかけていた男子に便乗する形とはいえ積極的に話しかけた。
やがてグループが生まれ、それを取り仕切る女子が現れた。運動会が終わった後も、彼らは週末になると集まって遊ぶようになった。学年も住んでいる場所もバラバラだから、いつも二十数名のうち半分くらいしか集まらなかったけど、咲哉が行くと不思議といつも彼女もいた。彼女にとっては取り巻きの一人に過ぎなかっただろうけど、少年にとっては十二分に多幸感を与えてくれる、唯一無二の存在だった。
年が明けて二月に入ったころ、咲哉は彼女にバレンタインにかこつけて、手紙を添えたチョコレートを渡すことにした。
とても相手の顔を見ることは出来そうになくて、彼女のそばによくいた少女に渡すよう頼んだ。緊張なあまりおじぎをしたまま腕だけ前に突き出す、不格好の極みみたいなポーズだったけど、それでもその子は笑って引き受けてくれた。
クリスマスに集まったとき何も言えなくて、焦っていたがゆえの行動だったと記憶しているけれど、のちに振り返ってみればチョコレート以外の選択肢はなかったのかと思えてならない。
ただ今になって思う。
あの頃はまだ、自分の率直な気持ちを伝えたい、直接言葉で示すことは到底できそうにないけれど、それでも伝えたいという意志があったのだ。それを思うと、当時の自分は退化している気がする。
二人の関係は、それから間もなく終わりを迎えることとなった。
三月は一度も招集がかからないまま新年度を迎え、そのまま彼らは一度も集まることはなかったのだ。
仕切り役が進級で忙しくなったのか、それとも飽きたのか、あるいは誰かがトラブルを起こしたのか、はたまた自然消滅か。今となっては彼女の名前どころか、そもそも他に誰がいたのかさえ判然としない。返事を聞く機会もないまま、今では彼女の顔さえおぼろげになってしまった。同じ市内なのだから、きっと道端ですれ違ったことだって何回もあっただろうに。
半年に満たない、合計十回に満たない邂逅だったけれど、少年は折に触れて思い出す。
風化しつつも、美しい部分だけは決して色あせないままに。
例年、特別進学クラスは体育祭で苦戦を強いられていた。一〇〇メートル十二秒台のライカは別格にしても、文武両道タイプの生徒が意外と多く、平均値で見ると普通クラスと大差はない。しかし、一定数いるガリ勉タイプがどうしても足を引っ張りがちだった。
だが、昨年に続いて彼らは二連覇を達成した。
MVP相当の活躍を見せたライカは表彰式の壇上に上がり、左手で表彰状を掲げ、右手で力強いガッツポーズを見せる。ふわりと風が吹いて、長い髪とハチマキが風にそよいだ。その様子は、トロフィーを抱えた先輩と優勝盾を抱えた後輩よりはるかに目立っていた。クラス対抗全員リレーにのみ参加した桜尾咲哉は、輝ける彼女の姿を、複雑な感情で遠巻きに見つめていた。
「サク!」
背中を丸めてそそくさと退散しようとしていた少年の背後から、力強い声が届いた。
陽の傾き始めた時間帯に、大きな影をしたがえた少女が、大輪のような満開の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。いつもの不敵な笑みとはやや趣の異なる表情だ。
六種目出場の疲れも炎天下のしんどさもおくびにも見せず、相変わらずのタフさだ。咲哉はなぜか小鳩の姿を慌てて探したが、先に教室に戻っているのだろうか、姿はなかった。
「お久しぶりです。お疲れ様でした」
「他人行儀な挨拶はよせ。早速だがねぎらってもらえるか?」
「いいですけど……昇降口に向かいながらでいいですかね」
スキップしそうになっているのか、ライカの身体は必要以上に弾んで、額のハチマキも弧を描いている。
「ふふふ、お前が褒め殺してくれるものかと思うと、つい気合が入ってしまってな。驚いてくれただろう?」
「先輩の凄さは十分に存じ上げているつもりでしたので、驚きよりは『流石だなあ』と感心しましたね」
「どこに感心したのか、聞かせてくれるか?最後のリレーで野球部のアンカーをまくったところもか?それとも騎馬戦か?」
「全部カッコよかったですよ。先輩は顔も小さいですから、おでこのハチマキもやたら長く見えるんですよね。身長だけなら同じくらいの男子もいましたけど、おかげで遠くからでもよく分かりました。本当に、入場行進から表彰式まで、余すところなくカッコよかったです」
いつものお世辞としか思えないフレーズが、思いのほかすらすら出てくる。
嘘偽りない本音だったが、どうしてだろう、今日は心がチクチクする。
咲哉は昇降口の下駄箱から上履きを取り出す。さっきからまともに彼女の顔を見れていなかった。遠巻きに見ていてもすごい人が、自分に向かって好意剥き出しで話しかけてくる。やっぱりそのことがしんどい。
「これは自慢じゃないが――いや自慢だが、大縄跳び以外全てで一位だったからな。ふふ、やはりこうやって頼られるのは悪くないものだな……おい!」
一階にある自分の教室にそのまま向かおうとして、少年は再び呼び止められる。階段の前でライカが「ついてこい」と目くばせしていた。
角を回ると、喧騒が遠ざかる。すぐに気が付いたが、彼女の向かった先はいつもの空き教室だった。陽光そのものは若干やわらいでいるものの、まだまだ蒸し暑いこの時間帯、ひっきりなしにセミが鳴いている。
「先輩、早く教室に戻らないと」
彼女の長い背中に向かって、咲哉はクギを刺す。何か、嫌な予感がした。
ライカは教室の奥、変なところで立ち止まる。
「文化祭の準備は順調か?」
「いえ、遅れ気味みたいです」
「そうか、それじゃあ今後も忙しいままなんだな」
「残念ですが。それがどうかしました?」
「いい加減、この辺ではっきりさせておこうと思ってな」
「……何をですか」
「とぼけてくれるな」
振り返ったライカは、ゆったりと回り込んで咲哉の背後に立つ。そして、一歩前に踏み出す。
「この数日、ほとんど話せていなかった。私はもう限界なんだ。分かるだろう」
「それは……」
「どうしてもお前に言わせたい言葉がある。お前の口から直接聞きたい言葉がある。それはずっと、そして今もお前の胸の中に眠っている言葉だ」
一言ごとに、彼女が迫ってくる。その分、少年は後ずさりする。角に追い詰められていく。
「ずっと、お前を落とすための最後のピースを探していた。どうだ?」
「……」
「私は自分が特別だと思っている。どれくらい特別なのか今日、改めて分かっただろう?」
そう言って、彼女は両手を広げた。
「……!」
「もはや手を差し出すまでもないな。ただ自分に正直になって、私の胸に飛び込んでくるがいい」
その瞬間、咲哉は自分の中にある、彼女に対する抵抗感の正体を知った。
それは自我だった。
プライドと言い換えても良いだろう。
両想いということは、お互いに近づくということだ。咲哉が地雷原を歩くかのように慎重に、そろりそろりと彼女に向かって近づく一方、ライカはこちらの作った壁をいともたやすく突き破ってきていた。そのことが、自分が無視されているように思えて、堪えていたのだ。
なんとも不合理な感情だ。
その理屈では、一生彼女など出来っこない。
自分の顔が引きつっていくのが分かった。本物の自己嫌悪だった。
素直になれなかった、少年はくるりと背を向ける。
刹那、背中にやわらかい衝撃が走った。想像通り、ライカが抱きついてきたのだ。あごが後頭部に押し付けられる。長い腕がおへそのあたりまで、迫ってくる。汗だくの人間のものとは思えない匂いが立ち昇る。
バイクに轢かれそうになって、彼女に抱きかかえられたことがあった。あの時のホールドと、感情のこもったハグはまるで違った。
ぶるぶると、身体が震える。悪寒が走る。三十度を大きく超える室温が嘘のように、鳥肌が湧く。この冷たさは、彼女に伝わらないのだろうか。
震えていたのは、彼女の身体もだった。感情が昂ぶり過ぎてしまったのか、ぎゅうと咲哉を締め付け続けている。抜け出そうとするものの、動揺しているせいか、単に彼女の馬鹿力のせいか、身動きが取れない。
彼女に包まれたまま、その場にうずくまることしか出来なかった。
「――そのまま聞いてくれないか」
お互いの震えがやや収まったころ、耳元に生暖かい息がかかった。
「以前、言っただろう。告白をやり直したいって」
「……そうでしたっけ」
「とぼけてくれるな。ワガママなのは承知だが、なし崩しで付き合うのだけはどうしても嫌なんだ。どうしてもお前の口から、直接好きだって言葉が聞きたい。なあ、私が何をしたらお前はそう言ってくれるんだ?」
「…………」
沈黙でもってして、時間稼ぎをする。
「いきなりこんなこと言われても無理ですよ」
「いきなりじゃないだろ」
「とにかく、こちらにも気持ちの準備ってものがありますから、勘弁してください。次の機会にしましょう」
「言ったな?次の機会と」
「……ええ」
内心、しまったと思ったが、訂正は出来なかった。
「分かった。尊重しよう」
基本流されるままだった自分が、自分の意見を押し通したのは、これが初めてのことだった。それはその分、彼女に対する感情が薄らいでいることの証明だった。
空き教室のドアがガラリと音を立てて開いたのは、その直後だった。
更新が遅くなり申し訳ありません。
明日は必ず投稿したいと思います。頑張ります。