第四話(3/4)「黄金の意志は揺るがない」
タメ口を利くようになったのは、いつからだろう。
野水小鳩は、子どもの頃から何かと世話焼きだった。親が語るところによると、それに気づいたのは彼女が七歳のとき、初めて親族を家に泊めた際のことだったという。小鳩は教えたわけでもないのに率先して玄関の靴を並べ、トイレと寝室の場所を伝え、向こうが恐縮するまでコップの水をつぎ足し続けたのだとか。
気が利くと感謝されることも多かったけど、その行動原理は人の役に立ちたいというよりは、自分に出来ることは自分がやらなくてはいけない、そうでなくては落ち着かないという、ある種の強迫観念のようなものからだった。そんな自分に嫌気がさして、心が擦り切れていったのもあって、彼女からは自然と愛想というものが薄れていった。
その頃はとにかく男子のことが羨ましかった。もちろん女子にもいただろうけど、男子は皆自意識に囚われず、思うまま常に自然体で振る舞っているように見えた。咲哉もその羨望のまなざしの先にいた一人だったわけだけど、それを聞いたら彼はどう思うだろう。
委員会活動や部活動では、誰もやりたがらないことを率先してやった。学級日誌や休日の花壇の水やり、果てには行事の来賓客の対応にいたるまで……。日直がローテーションでやるはずの仕事が、いつの間にか彼女に任せられていたこともしばしばだった。体よく仕事を押し付けられることも、偽善者と後ろ指をさされることもなく、大体の人間は素直に彼女の存在をありがたがってくれたけど、その度に何とも言えない居心地の悪さを感じていた。
烏山ライカと委員会で一緒になったのは、中学入学直後のことだった。自分とは正反対の性格で、周りからの評価を求めるがゆえに、あえて面倒ごとを引き受けるタイプの人間だった。彼女の辞書に「影日向に働く」という言葉はないらしく、相手が先輩だろうが教師だろうがお構いなく、「やっておきましたよ」「助かりましたよね?」なんて感謝の押し売りを真顔で言ってのけて、それでも受け入れられている姿に、いつしか小鳩はいら立ちと憧れの入り混じった感情を抱いていた。
見てくれへのコンプレックスもあっただろうか。お互いの身体が大人びていくにつれて、厚みを増していく体型を必死にごまかす自分と、どんどんメリハリのついた体型になっていくのを隠しもしないライカの違いを間近でみせられて、複雑な感情はっきりとした愛憎へと変質していった。タメ口を利くようになったのは、この頃だったろうか。
ライカのようになりたいけど、反面教師にしたいところはいくつもある。見習うべきなのか、そうでないのか。相反する感情にけじめをつけることが出来ないまま二年が経過し、彼女は嵐のように卒業していった。
一年遅れで卒業した小鳩は、それまでの滅私奉公の甲斐あってか、推薦入試で彼女と同じ蛍雪高校にもぐりこむ。同じ学校にいるとは知っていたけど、ライカとはあえて連絡を取らなかった。新しい環境では過去の自分を知る者は少なく、今後は献身的な振る舞いは控えよう、そしてライカのことは完全に忘れよう、と心に決めて高校の門を叩いた。
しかしそうして部活にも委員会にも生徒会にも所属しなかった彼女は、ほどなくクラスで浮いた存在になってしまっていた。
縦のつながりを自ら断ち切ったことが致命傷だった。物心ついたころから一緒にいて、義務教育終了にあたってバラバラにしまった四人の親友を除くと、仲が良かったのは、それこそライカのように同じ組織に所属し協力しあう人間ばかり。全くの初対面であるクラスメイトと、どうやって仲良くなればいいのか。誰と波長が合うのか見当もつかなかった。
共通ツールであるところのスマホを持っていなかったのも痛かった。周囲が関係を維持するための当然の前提としてスマホを使っているのに、家にしか電話がない自分は入っていきづらかった。仮にもしスマホを調達しても友達が出来なかったらどうしようと思うと、親にねだることも躊躇してしまっていた。初めて、自分が内気な小心者であることを認識した瞬間だった。
そんな折、天啓のように現れたのが桜尾咲哉だった。小学校のときずっとクラスが同じだったけど、一方的に名前を憶えているだけの間柄。向こうは忘れているかもしれない。そもそも認識されたことがなかったかもしれない。だが彼もまた、見るからにクラスで孤立していたのだ。
とっかかりはそれだけで充分だった。
当初は異性と親しくすることに若干の抵抗はあったけど、それ以上に誰かに何かしてあげることで満たされたいという代償欲求が強かった。咲哉は煙たそうな態度ばかり取っていたし、向こうから話しかけてくることはなかったけど、こちらの罪悪感が紛れてむしろ好都合だった。
結局のところ、自分は誰かに何かをしてあげることにしかアイデンティティを見いだせないのだ。その対象が特定の個人になったというだけの話だ。
そうこうするうちに、咲哉はなぜ自分がクラスで浮いてしまったのかを少しずつ打ち明けるようになった。ただ無気力じゃなくて、コンプレックスにまみれているがゆえに積極的に消極的な態度をとっているのということを知れて、そのことがちょっと愛おしくなった。
やがて一学期が終わり、夏休みに入ると幼馴染たちは勝手に付き合いだしたことが露呈し、そして夏期講習が始まり――あの蒸し暑い昼下がり、彼女はライカと再会する。
一年半ぶりに向かい合った彼女は更に大きく、凛々しく、本質的には何も変わっていないようでいて――自分のそばにいる少年を奪い去ろうとしている点だけが、唯一の変化だった。
デートの翌々日、ライカが三鷹から事の顛末を聞いた翌日の月曜日。
午前中の夏期講習を終えた咲哉は、そそくさと自分の教室へと向かう。
「ご苦労だったな、ねぎらわせてもらおうか!」
角でクラスTシャツの上からYシャツを羽織った、珍妙な姿のライカが待ち構えていた。
「……」
咲哉は一瞥したものの、返事もせず止まらない。
両者の間に一瞬、変な空気が流れた。
ライカは追いかける。背後からこれを見ていた小鳩も、慌てて彼を追いかけていた。
おとといのデートを終えた段階で、自分の役目は終わったと思っていた。保護者のフリは止めて、あとは二人に任せようと心に決めていた。だから今朝は咲哉と顔を合わせても、何も話さなかった。それなのに。
なぜこう物事はうまく運ばないのだろう。どうして自分は老婆心を捨てられないのだろう。
「おい、サク!」
咲哉の身長は一七〇センチ程ある。小鳩より一〇センチは大きいし、決してチビということはないのだけど、彼より頭半分大きいライカが長い脚を小刻みに動かしついていく姿は、やはりどうにもアンバランスだ。
「一体どうした、急ぎか?」
「クラスの出し物を手伝いたくて」
「今すぐ行く必要があるのか?」
「まあ、講習が終わる時間はみんな知ってますから」
「腹ごしらえは必要だろう、その後でもいいんじゃないか」
「……いいですけど」
咲哉の態度がおかしい。ここ最近ずっと傍で見てきた、本当の気持ちに逆らい、喉元まで出かかっている言葉を必死に我慢していた姿とは、まるで別人のようだ。まるで本当にライカのことをうっとおしく思っているかのような……。
いやよく考えると、あの素っ気ない態度は、普段の小鳩に対するそれによく似ている。つまりこの一日余りで彼のライカに対する好感度が大きく目減りしたということか。
(一体どういうことなの?)
困惑していると、突然咲哉が振り返った。
「小鳩、今日も来るか?」
その一言は、まさに青天の霹靂だった。まさか彼の方から声をかけてくるなんて。
昨日一日の間に、何があったのかと小鳩は困惑させられる。会ってないはずではないのか?
それでもいつものコンビニで昼食を調達して、いつもの空き教室で食事を摂った。咲哉はパスタ、ライカは今日も今日とて弁当にロールケーキのセット。牛カルビ弁当を頬張った後に生クリームを大量に摂取する姿を見ると、こちらが胸焼けしてくる。
「サクのクラスは何をやるんだ?」
「……お化け屋敷です」
「……」
「……」
「そうか、お化け屋敷か。脅かす役になるのか?」
「……まだ特に何も」
やたらロード時間が長い、ぶつ切りの返事だった。合間合間に、入れ直したエアコンのゴーッという音だけが部屋に流れる。
隣で講習を受けていた先ほどまでは気が付かなかったけど、咲哉の表情はどこかくすんでいた。そしてその冷えきった空気に、小鳩は最初、ライカが何かとうとう致命的な暴言を吐いて、咲哉がキレたのかと思った。だが彼女がそれで悪びれもせず、変わらぬ態度で接しているのは流石におかしい。こいつがそこまで共感性に乏しい愚か者だったら、自分はもっと楽でいられたはずだ。
「私は当日の格好が決まったぞ。トランプやカードを自在に扱うものとして、相応しいコスチュームだな。一体何だと思う?」
「……」
マジシャンとかだろうか。
「バニースーツをリクエストしたかったんだがな、残念ながら市販で私の着られるサイズが見つからず、断念せざるを得なかった。この体格をうとましく思ったことは一度もないが、このところどうにも不便を強いられる機会が多いな」
そもそも文化祭でバニーガールだなんて、余裕で公序良俗に反するんじゃないの?あんたが言うとまるで冗談には聞こえないのよ、などと瞬時に突っ込みが脳内に湧いてくるも、小鳩は口を挟めない。ライカだけがいつも通りの光景に、「どうしたの?」「何があったの?」と切り出せれば、どれだけ良かったことだろう。
そんなこちらの気持ちが通じたのだろうか、不意に咲哉と目が合った。
「小鳩、今日もつきあわせて悪かったな」
また、彼の方から話しかけてきた。明日は雪でも降るんだろうか。声のトーンは葬式か通夜みたいに沈んでいるけれど。
「ううん、私も望んだことだから」
「お前に説明しないといけないことがあるんだ。それから、先輩も。ちゃんと自分から話させてください。長くなるかもしれないけれど、うまく理解してもらえるか分からないけれど、聞いてくれるか」
それから咲哉はぽつぽつと語り始めた。
ずっとイトコのタカさんという人物に憧れていたこと。だけど、追いつけないと悟って挫けてしまったこと。その劣等感が、ライカと、ひいては周囲と心を交わす最大の障害になっていること。
なんとなく、そんなことではないかと思っていた。ライカに惹かれつつもかたくなに拒む姿に、なんらかのトラウマが原因なのではないかと思っていた。すごく腑に落ちる話だった。
小鳩にとってもそれは他人事ではなかった。彼女もまた、烏山ライカを尊敬しつつも軽蔑している、というジレンマに何年も翻弄されていた一人だったからだ。
喋り終えてから、しばらくは誰も何も言えなかった。共感するがゆえに、それをどのように言い表せるのか、小鳩はそのような語彙を持ち合わせてはいなかった。
「じゃあ俺、先に教室行くわ」
そう言って咲哉は立ち上がり、その場を去る。
「……ライカ、これからどうするの?」
「別に何も変わらない」
「え?」
「私に出来ることは、彼に対して感じたときめきを、愚直にぶつけることだけだ。あいつに運命を感じたときのように、私も誠心誠意、心を揺さぶってみせようではないか」
「ちょっと待って、本当にそれでいいの?」
小鳩の困惑した表情に、ライカも困惑した表情になる。
「出来ないと思うか?」
「サクのコンプレックスはスルーするの?『普通クラスにしか入れなかったからって卑屈になる必要はない』とか、『蛍雪に入っただけですごいじゃ』とか、フォローしようは色々あると思うけど」
「そんな見え透いた慰めを私が言っても、余計に傷つくだけだろう」
「放っておくよりずっとマシでしょ。そもそも、サクは三鷹さんとライカを重ね合わせて捉えてるみたいなんだから、そこを解消してあげるべきだとも思うし」
「そうは言うがな、正直、私にはあいつのコンプレックスというものがよく分からないのだ。致命的なほどに心が挫けたことなど、覚えている限りではないからな。あるいは忘れているだけかもしれないが……とにかくあいつの辛さに寄り添ってあげても、それはうわべだけのものになってしまうだろう。小鳩、お前は違うのか?」
「そりゃあんたよりは上手くやってみせるって」
「なら、それはお前に任せようじゃないか」
やおらライカは立ち上がる。スカートと長い髪がひるがえった。
「とにかく、私は彼を口説くだけだ。本気で話して、クラスがどうとか、コンプレックスがどうとか、どうでも良くなるくらい惚れさせてやる。それで心を動かせないならそれまでだ」
ライカは、咲哉の出ていったドアを見つめる。
「サク……かつて自分以外に興味が持てなかった私が、初めて強烈な興味を抱いた他人という存在。それがお前なのだよ」
そして、自分の肩を力一杯抱きしめた。
「自分本位だと蔑まれたっていい、強引だと怖がられたっていい。だが最後には必ず、私のものにしてみせる」
そのセリフを聞いて小鳩は初めて、二人が付き合うことはお互いを傷つけるだけなのではないかと思った。
長くなってしまったので、中途半端なところで切らせていただきます。
申し訳ありません。
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頑張ります。