第四話(1/4)「高揚感と違和感はごまかせない」
烏山ライカが「もしかして自分はすごいのでは」と思い始めたのは、小学四年生の頃だった。
じっとしているのは苦手だったが、活発な性格と上手くかみ合い、大人から可愛がられていた。大人というのは積極的な子どもが大好きなのだ。
容姿も良く褒められていた。大人というのはとりあえず子どもを褒めておきたい生き物だから、際立って目立つ長い手足と小さな顔は、挨拶代わりのように持ち上げられた。
そのことは当然、一部の妬みを買った。しかし幸いにというべきか、それとも残酷なことにというべきなのか、そのやっかみは直接ぶつけられることはなかった。口を使おうが手足を使おうが、一対一では彼女には太刀打ちできなかったし、徒党を組むほど陰湿な者もいなかった。
その代わり、彼らはライカに媚びへつらい、おもねった。そういった存在に囲まれて続けたせいで、元から聡かった少女は、周囲に対する観察眼も養われることとなった。
「昨日のテレビ観た?」と言われただけで、相手がこちらの知らない情報をひけらかすことでマウントを取ろうとしているとか、そういう言外のメッセージが見えてくるようになっていって、彼女は次第に周囲を見下すでもなく達観するようになっていった。
それなら少し精神年齢が高いというだけの話だが、その年のバレンタインに決定的な出来事があった。
知らない男子が人づてにチョコを渡してきたのだ。
女子同士でもらったりもらわれたりすることはあったし、十歳ともなると女子が男子に渡したという話を見聞きすることは相当あったけど、男子が渡してきたのはもちろん初めてで、相応の感情が込められているのは彼女特有の洞察力を用いずとも明らかだった。
結局、送り主が誰だったのかは分からずじまいだったし、ホワイトデーにも返事は出来なかったけれど、あの時食べたチョコの甘さは味覚を超えて脳裏に焼きついている。今にして思えば、あれが甘党に目覚めた遠因かもしれない。
そして「周りにそこまでさせる自分はすごい」と確信した彼女は、周囲からの賞賛を求めるようになる。
その頃にはもう、彼女はすっかりチヤホヤされる自分が好き、という歪んだ自己愛に目覚めていた。バレンタインの件は言いふらしたわけでもないのに事実だけは広まっていて、翌年以降、彼女は当たり前のように多くの男子からチョコを受け取るようになった。
(可愛いかなとは自分でも思っていたけど、男子から見ても自分はかっこいいんだ)
そう気づいてしまったことが強烈な自己肯定感に拍車をかけ、余計に女子からの反感と羨望を買うこととなったが、やはり面と向かって唾を吐きかける勇者や愚者はおらず、ライカは日に日に孤立するでもなく、しかし浮いた存在になっていった。
早熟な少女は、大人になるのも早く、他人に追いつかれることもなかった。
自然と誰にも頼らず一人で何でもこなせるようになって、それゆえの退屈を持て余していたあの日……少女は、彼に会った。
今日も今日とて嘘のように蒸し暑い一日だった。縦に盛り上がった雲が、駅前の大通りを囲む建物の向こうにくっきりと浮かび上がっている。
八月最終週、日曜日の昼過ぎ。烏山ライカは昨日と同じ喫茶店に向かっていた。昨今は授業内容増加のあおりを受けて、八月のうちに新学期を迎える学校も増えているという。ちょっと廊下を歩いただけで汗腺が開いてしまう酷暑の中、果たして能率よく勉学に打ち込めるのかと思うと、流石の彼女も自信がない。喫茶店で好きなものを飲み食いしながら自分のペースで自習するのが精々という気がする。
目的地が近づくたびに、昨日のことが思い起こされる。
夢のような一日だった。
しかし、頬をつねるまでもなくそれは現実だ。
LINEで思い出が思い出になる前に咲哉と思い出を語らうことや、映画の半券やレシートを確認することも可能だったが、あえてしなかった。必要を感じなかったからだ。半日前に抱いたあの高揚感が、現実でないわけがない。
それに彼の賞賛の言葉は、思い出す必要もないくらい、常に脳裏に焼きついている。
(ああ、会いたい!)
束縛したくはない、次に会う機会を楽しみに待ちたいという気持ちと、今すぐ話がしたいという相反する感情が、分かちがたく複雑に絡み合っている)
一切それまで何か月も彼のことを遠巻きに見るだけの日々を送っていたのに、今ではたった一日が耐えがたく長く感じられる。
今はとにかく欠かすことなく、彼と会いたかった。スマートフォンさえあればお互い顔を見たまま話すことも出来るわけだが、画面越しでは微妙な感情の機微までは伝わらないだろう。
ふふふふ、と笑みがこぼれる。
もどかしくも少しずつステップを刻んで、二人は仲を深めた。
咲哉は想像以上に奥手だったが、彼女の見立てではあと一押し――いや、とっくに惚れている。昨日、彼を陥落寸前まで追い詰めたのは間違いないだろう。あとはそれが剥き出しになるのを待つばかりだ。
もうすぐ、サクは自分のものになる。
ずっと他人に興味を持てないでいた自分が、ずっと興味をひかれていた、欲しかったものが手に入る――。
あの日、彼を往来で抱きかかえたときの感触がよみがえる。
恋愛感情と一緒くたになった支配欲が、溢れ出して止まらない。
(明日こそお前から、告白の返事を引き出して見せるぞ)
始業式の前日まで夏期講習があると言っていたが、ライカはもう終わりだ。咲哉と昼食を共にしたいからといって登校すれば、間違いなく文化祭の準備に駆り出されることだろう。それが面倒ではあったが、やむを得ない。
駅前の駐輪場に停め、ずんずん喫茶店へと向かう。ただでさえ足が人より長いところを、大股になっているからあっという間に目的地が近づいてくる。
入店すると、奥のテーブル席に咲哉がいた。
おまけに、すぐに目が合った。
戸惑っていたのは一瞬だった。望外のチャンスに、少女の脳内を会話のシミュレーションが駆け巡る。まるで将棋や囲碁の棋士のように、二手先、三手先まで見晴るかす。
「奇遇だな少年、まさか今日もここで会えるとは!」
「あっ……どうも、先輩」
一瞬で違和感を覚えた。おかしい、目を伏せたまま視線が合わない。
テーブルを見ると、咲哉の正面にもトレイが置かれていた。
「誰かと会っているのか?」
「ええ、まあ。今トイレに行ってるんですけど。……先輩は」
「教科書に目を通しておこうかと思ってな。家でも良かったんだが」
「そうですか。夏休み中だって言うのに偉いですね」
そう褒める声も、昨日より沈んでいる。上手く会話が続かず、ライカは再び違和感を覚える。まさか浮気の現場というわけでもないだろう。いや、まだ正式に恋人になったわけではないけれど。
やがて顔を上げたかと思ったら、やはり視線が合わない。
そこで彼女の方から合わせてみることにした。
少しかがんで平行の視線で彼の瞳を覗きこむ。
「どうした、トイレの方ばかり見て。お前も我慢しているのか?」
「あの先輩、どうして当たり前のようにそこ座るんですか」
「予定変更だよ。折角お前と会えたんだ、昨日の延長戦と行こうじゃないか」
「いやあの、他の人と会ってるんで」
「別の人間がいたって構わないだろう。むしろいつも通りじゃないか」
「すみません……ちょっと今はそういう気持ちになれなくて」
そのセリフに、思わずゾワッとなった。
「無理」とか「出来ない」じゃなくて、「そういう気持ちになれない」。
やんわりとだが、明確な意思をもって拒絶されている。
ほんの半日の間に、壁が出来ている。
昨日なら、多分出てこなかったセリフ。違和感は気のせいではなかったのだ。
「……先輩。やっぱり、俺は……」
咲哉がそう言いかけたのと、背後から気配がするのは同時だった。
「あれ、烏山か?」
その声に、少女も聞き覚えがあった。二人の共通の知り合いだった。
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