第三話(4/4)「やっぱり僕は救えない」
午後十時前、駅前のビルの電光掲示板には「26℃」と表示されていた。気温は大分下がったはずなのに、すぐに背中からじんわりと汗が噴き出してしまう。まだまだ蒸し暑い。
小鳩は腕時計を確認してから、駅前の交番をちらりとうかがった。
「もう、条例ギリギリじゃない」
「長々と引き留めてしまったな」
「いえ、自分も名残惜しいです。こんなに充実した一日は高校入学以来初めてでした」
目の前の少女が寂し気な顔をしているように見えるのは、そのことと無関係ではないだろう。
ほんの数十分前のライカの姿を思い出す。それは初めて会ったとき、あの校舎の裏で口説かれていたときに伸びてきた、あの腕と同じ意味を持っていることは明白だった。
「自分を受け入れて欲しい、受け止めて欲しい」という意味が明確に込められた、右腕。
とうとう、咲哉が彼女の手を取ることはなかった。
「きょう決着をつけるとか、さんざん宣言してたのにね」
「言い訳のしようがないな。本当に確信めいた予感があったんだがな」
「嘘をつかせてしまったのは俺ですし」
「一応念のため聞いておくが、お前は私に惚れていると思っていたのだが、まさか違うのか?」
「よく分かりません。確かに先輩に対しては、今まで感じたことのない感情を持っています。とても好意的な感情です。でもそれが本当に恋なのか、実は恐れの裏返しに過ぎないのか」
「恐れ?」
「先輩がとても魅力的な人だってことは、よく分かりました。どれだけ俺のことを好きでいてくれているのかも。だけど愛されれば愛されるほど、人ごとのようというか、先輩が別次元の存在のように思えてならなくて」
「別次元?私はここにいるぞ?」
また手が前に出そうになって、後ろで組んでごまかす。
「自分のことを過小評価してやいないか。確かに私は相応に魅力的な人間のつもりだ。だが、そんな私が執着している地点で、お前もまた十分に魅力的なはずだ。必要とあらば、私は壁ドンだろうが、お姫様だっこだろうがやってみせよう」
「壁ドンって」
「お前の誉め言葉には力があるからな。全く同じことを他人に言われても、ここまでは惹かれない」
「力があるだなんて……買いかぶらないでください、気のせいですよ」
咲哉は自信なさそうにうつむくばかりだった。
「難しいものだな。詰めの一手が、どうしても分からない」
小鳩が再び腕時計と、列車案内をチェックする。
「サク、そろそろ」
「む、今日はここまでか……だが!」
ライカの瞳、その輝きが再点火される。
「逆境に立たされれば立たされるほど、私は燃えてしまうのだよ。なるべく早く決着をつけようじゃないか」
「夏休みも終わりますしね」
「そしたら行事ラッシュだ。体育祭だって、文化祭だってある。お互い忙しくなって、疎遠になるかもしれない。はっきり拒絶されるならともかく、自然消滅だけは認められないからな。だから私もお前を惚れさせることに、改めて全力を注ごうではないか」
微妙に違和感と不安を覚える言い回しだったが、少年はそれをうまく言葉にすることは出来なかった。
ライカに見送られて、残された後輩二人はホームに並んだ。
「小鳩、今日はありがとな」
不意に少年はつぶやいていた。
「一緒にいてくれて本当に助かった」
素直に出てきたその言葉に、咲哉自身が驚いていた。
「お礼を言われるようなことじゃないわよ。その場にいただけだし」
「いや、頼まれても普通出来ねえよ。二人きりだったら絶対にキツかったって」
「お邪魔じゃないなら良かったけど」
距離が縮まったのは、ライカだけではなかった。むしろ印象がマイナスからプラスに覆ったという意味では、小鳩の方が大きな変化ともいえる。
かつては登下校のタイミングが被っても、いつも足を緩めたり、あるいはコンビニに寄ったりして、小鳩を視界から消すことも多かった。彼女もこちらの意図をくみ取ってか、無理に距離を詰めてくることもなかった。
でも、状況は急激に変わっていた。
きっとこれからは、彼女の優しさにいら立ちを覚えることはないだろう。
他人の好意をそのまま受け入れることが出来るのだ。それだけのかすかな、でも確かな余裕が、自分の中に生まれたのだ。
今までどれだけ他人の善意を無下にしてきたのかを思えば、今更許されることではないだろう。けれど救いようもないクズから、多少は救いのあるクズになれたんじゃないだろうか。
ヘッドランプをつけた列車が入線してくる。混んでいるかに見えたが、一気に客が降りてたため、混雑はさほどでもなかった。
「でも、どうしてライカの手を取らなかったの」
「さっき話しただろ」
「理由はなんとなく分かったけど、そこまで慎重になる必要あるのかしら。単純に、向こうがあそこまで積極的に迫ってきて、あんたが他に好きな人がいないからOK、ってわけにはいかないの?」
「なんでだろうな……どうしてあの人が俺のことを好きになったなのか、良く分からないからかな」
「そういうのって、理屈じゃないんじゃない?良く知らないけど」
「行きずりの後輩とちょっと話したくらいで何か月も好きって気持ちが持続するの、訳分かんねえよ」
「別にいいんじゃない」
「いいって……」
思いがけない一言に顔を上げると、小鳩は神妙な面持ちでこちらを見つめている。
「ねえ、私と連絡先、交換できる?」
「出来るけど、お前スマホ持ってないんだろ」
彼女がなぜそのようなことを言ったのか分からなかったけど、それに対して、自分が面食らうこともなく即答できたのも輪をかけて訳が分からなかった。
「ライカの前ではああ言ったけど、買おうかなとは思っているのよね。ただきっかけがないだけで」
「ふーん……」
それきり不自然に会話が途切れたまま、降りる駅が近づいてくる。
「そういえばサク、あれって今でそう思ってるの」
「あれ?」
「ライカに告白されたとき、自分はクズだから、って言ってたじゃない」
「ああ……」
「あんたのどこがクズなの?全然そんなことないと思うけど」
「……本当に、心の底からそう思っているか?」
「思ってるって」
咲哉の脳裏に、ある人物の姿がよぎった。
少年が自らを卑下し続けていた直接的な理由は、小鳩の好意を素直に受け入れられないことだった。
だが、それは結果に過ぎない。
そうなってしまったのは、そんな風に歪んでしまったのには原因があった。
各駅停車は二人の最寄り駅にたどり着いた。一斉に降りた乗客が改札を抜け、北口へ南口へと散り散りになっていく。等間隔で並ぶ街灯の下を、誰もかれもが足早に駆けていく。
咲哉の歩調がなぜか小鳩と重なってしまい、等間隔を保っているのが息苦しくなる。お互いをはっきり認めている今、寄り道をすることは出来なかったからだ。
「じゃあな、お疲れ様」
「ええ、今度は月曜かしら」
静かな夜の住宅街が見えてくる。小学校が同じだったのだ、二人の家は五百メートルも離れていない。彼女の家の手前で別れ、少し歩くとあっという間に自分の家が見えてくる。
なぜだか胸騒ぎがした。
今日一日であまりにも幸せを享受しすぎたせいか、と思ったけれど、家の前まで来て、その理由に気が付いた。
足を揃えて立ち止まってしまう。
なぜか、自分の部屋の窓に明かりが灯っている。
この時間に泥棒はないだろう。だとすると……。
ただいまのあいさつもそこそこに、階段を上がり自室を開ける。
良く見知った、縦に長い人物が横になってくつろいでいた。
毎日更新したいと思います。頑張ります。