2-3 東の大陸から
ユドゥンの屋敷を出るとすっかり周囲は暗くなっていた。
ユドゥンの屋敷の周りには建物はなく、光と言えばルーランの光と月と星の光のみである
。
馬車は既に帰ってしまったし、ユドゥンの屋敷からヴァロたちは徒歩で帰ることになった
。
フィアはユドゥンと接したことで予想以上に憔悴していた。
途中から見かねたヴァロは強引にフィアを背負う。
ユドゥンとの対面でかなりフィアは消耗していたらしくそれほど抵抗はなかった。
「大丈夫か?」
「…大丈夫、ありがとヴァロ」
人目がある場所まで来るとヴァロはフィアを背中から下した。
明日から始まるという祭りのためか、街で出歩く人間はまばらだった。
通りを宿に向かって歩いていると、こおばしい何かを煮詰めているような匂いをかぎつけ
る。
それに呼応するかのうように腹の音が鳴る。それはどちらのモノだったかわからない。
ヴァロとフィアは顔を見合わせ笑いあう。
周囲を見渡すと食堂らしき場所から光が漏れていた。
「宿に着く前に少し食べていこうか」
「…うん」
ヴァロはまだ空いている食堂を覗き込む。
食堂の中には老人と一人の女性がいた。
「まだ開いてる?」
「開いてるよ」
二人は店に入るとカウンターに座る。
「おばちゃん、注文いいかい?」
ヴァロはカウンター越しに、頭を小突かれた。
「お姉さんだろ、あたしはロノア。あんたらの名は?」
彼女の表情には気さくさが漂う。
その女性は下町のおばちゃんのような感じででどこか憎めない。
「マールス騎士団領フゲンガルデンから来ましたヴァロ・グリフです」
「同じくフゲンガルデンから来たフィアです」
ロノアは名前を聞いて思い出すしぐさをしてみせる。
「グリフ…ひょっとしてグリフ商会のケイオスさんところの血縁者かい?」
「はい、ケイオスは私の実兄です」
「なるほどね。一度ここには食べに来てくれたことがあるよ。
すっごい美人の黒服の護衛さんと一緒にさ。ルーランの女どもが騒いで仕方がなかったよ
。
今年フゲンガルデンから出てきてルーランに商会をかまえたって聞くけれど…。
あんたら本当に似てないね」
「…よく言われますよ」
罰の悪そうな顔でヴァロ。
兄貴の話を出されるとそう答えるしかない。
「…昼間あの方の名を大通りであの方のことをしゃべっていたのはあんたらだね」
「ええ」
いきなりの問いにヴァロは戸惑いながら返事をする。
「ここじゃあの方の名は口に出すんじゃないよ。皆が怯えるからね」
「昼間見ていらしたんですか?」
フィアはロノアに語りかける。
「見てはいないさ。いやでも噂になるよ。若い二人があの方の名を口にして、
あの方の屋敷に向かったってね。
人の出入りは激しいが、ここは昔からの人間も多い。なにかあればすぐに噂になる」
確かにユドゥンの屋敷まで一本道の上に交易都市を一望できる。
それは逆に言えば、丘の上の屋敷に向かう人間がいれば、
交易都市すべてから見られるということでもある。
「…ルーランの人はどうしてそんなに怯えているんですか?」
「よそもんのあんたたちからすればわからないだろうけれど
あの方は私たちにとって神同然なのさ。
あの方の陰口でも叩こうものなら大変なことになるって話だよ」
「大変なこと?どうなるというのですか?」
フィアは身を乗り出してロノアに問う。
「あたしも実際に目にしたわけじゃないからね。
知りたいならそこにいる酔いつぶれてる爺さんに聞いたほうがいい」
は奥にいる老人に視線を向けた。
注文を受け取るとロノアは店の奥に引っ込んでいった。
ヴァロはフィアと視線を合わせ、頷きあう。
「おじいさん少しいいですか」
その老人は酔いつぶれて
「な、なんじゃ?」
反応が薄いのでヴァロは耳元に近づく。
「おじいさん、あなたはユドゥンの力を使ったところを見たことがあるんですか?」
その一言にまるで雷に打たれたかのように老人はびくんと反応を示した。
先ほどまで生気が宿っていなかった瞳に光が宿る。
ユドゥンの名でこれほど反応するとは思わなかった。
酔った老人は驚いて立ち上がりその場をあとにしようとする。
「私はそれが使われたところを聞きたいんです。どうか教えていただけませんか?」
立ち去ろうとする老人にフィアは追いすがる。
少女の懇願に老人は少し考え込む。
「…あんたら旅の者かい?」
「はい」
端でこちらの話を聞いていた老人は少し落ち着いた様子で再び席に座る。
「酒はもらえるかな」
ヴァロはロノアに酒を注文した。
しばらくして酒瓶をロノアが持ってきた。
老人は酒を一口口に入れると、静かに語り始めた。
「その日はなんの前触れもなかったんじゃよ。
巨大な貨物船が港に来ていて見慣れない水夫が酒場にあふれていたことくらいじゃった。
これと言っていつもと同じ何も変わらなかったのじゃ」
老人はその時のことを一つ一つ思い出すように話す。
「一人の航海から帰ってきた水夫が酔った勢いであの方を罵倒し始めたのじゃ。
仲間は止めたが、その男は一向に罵倒をやめなかった。
しばらくするとその男が突然消えたのじゃよ」
「消えた?」
聞きなれない言葉にヴァロは思わず耳を疑う。
「そうじゃ。それこそ地面に吸い込まれるようにな。
ちゃぽんという水音だけを残しての…。
戻ってきた水夫は精神を病んでしまい、仕事を辞め、
ある日川に浮かんでいるのがみつかったそうじゃ」
老人は恐怖に顔をひきつらせながらそう語る。
「わしはあの音だけがずっと耳にへばりついておる…」
老人は頭を抱えるようにしていた。
そこにあるのは恐怖。ユドゥンが使うといわれている暗黒結界。
その片鱗を見た気がした。
「いいかい、命が惜しければ絶対にこのルーランであの方を悪く言ってはならん」
そう言い残すと老人はよろけた足取りで店を出て行ってしまった。
料理は港町らしく海の幸がメインだった。
細く長い麺類に海老や帆立を混ぜたものだ。
東の大陸からもたらされた黒胡椒がふんだんに使われている。
ロノアの料理は想像以上で、ヴァロたちは思わず舌鼓を打つ。
出てきた馳走をヴァロたちが平らげていると、店を閉じかけていたロノアが口を開く。
「見なよ。あの黒マントの集団」
窓の外を黒装束の人間たちが集団で歩いている。
女が指さした方向には顔を黒服で包み、札を額につけている。
服装は東の大陸独特のもので
隊列を崩さず、真っ直ぐ進むさまはただただ異様だった。
「最近じゃ東の大陸からも物騒な連中がうろつき始めていてね。
なんでも最近できたリューウレン商会の連中らしいけれど、不気味だね」
「大陸からですか…」
現在東の大陸とは貿易を行っている。
百年前から政情も比較的安定しているらしく、交流も活発化している。、
「東の大陸の侵攻は百年前にもあったみたいだね。
それこそ海を埋め尽くすほどの大船団が東の大陸からやってきたって話だよ。
その時には運よく嵐が吹いて、一晩で船団が消えたって話だけれどさ…。
もし今度同じことがあればうちらも無事じゃすまないかもね」
ロノアは苦々しく応える。
「全く物騒な世の中になったもんだよ」
ロノアのつぶやきは闇に飲まれた。