カマキリに恋して
「ねえ駿ちゃん、私ちょっと酔っちゃったみたい」
香奈は、ビールを片手にしたまま、とろんとした目で俺を見つめてくる。終電逃すぞ。俺はぶっきらぼうに忠告して、彼女の視線に気づかないふうにそっぽを向いた。
狭くうす汚い居酒屋の店内は、仕事帰りのくたびれたサラリーマンたちの愚痴大会で賑わっている。俺だってくたびれたサラリーマンであることに変わりはないが、あいつらと違う点が二つある。
ひとつは、俺は一流企業の社員であり、きっとあいつらの中の誰よりも高収入であるということ。もうひとつは、俺の目の前には酒に酔った美人が座っていて、俺を誘ってきているということ。小さな優越感が俺をいつもより大胆にした。
俺たちは、どちらからともなく立ち上がって勘定を済ませた後、その店を後にした。代金は二人で折半した。
香奈と歩く夜の街は新鮮だった。
香奈は高校時代の同級生で、こうして会うのは十年ぶりくらいか。連絡してきたのは香奈の方からだった。いつになったら開かれるのかわからない同窓会まで待ってなんかいられないから、二人で会って一緒にお酒でも飲みましょうよ。そんな、フランクな誘いだった。
かつては黒髪に黒縁の眼鏡をかけていた地味な香奈も、今では茶髪にコンタクトで、ずいぶん洒落たブティックに勤務しているそうだ。社会人デビューってやつか、なんて肩を小突きながら、二人の目指すべき場所を目指して歩いた。この時間帯に出歩く男女の目的地は、だいたい決まっている。
俺たちは熱い夜を過ごした。
情事を終えて、心も体も落ち着き始めた頃、俺はベッドに寝そべって香奈の肩を抱きながら、高校時代の友人を抱いてしまったという背徳的な感慨に浸っていた。香奈も同じ心境だったらしく、彼女は俺のそうした表情を指摘すると、ワンナイトラブってやつかな、なんて笑ってみせた。
「ねえ、私ね、駿ちゃんのこと昔から好きだったの」
「昔って、いつから」
「ううん、高校の修学旅行くらい」
「告白してくれたらよかったのに」
「なによ。気付かない駿ちゃんが悪いんでしょ」
「そういうものかな。今も?」
「そうじゃなかったらこうやって抱かれてないよ」
なんでもないように答えたが、内心は飛び跳ねたいほど嬉しかった。こんな美人に愛の告白を、しかもベッドの上でされて、嬉しくない男はいまい。俺たちもそろそろ三十路だし、結婚を考えても良いかも知れないな、と思った。
香奈はしばらく考えるようにして、言った。
「駿ちゃんにだから相談するわ。私ね、独立しようと思ってるの。自分のお店出して」
「へえ」
チャンスだ。香奈の心を掴もう。今夜を一夜の過ちで終わらせてはいけない。この機会を逃せば次はないような気がする。
「それ、手伝ってやろうか」
「駿ちゃんは駿ちゃんの仕事があるでしょ。それに、男の働き手は募集してない」
「そうじゃないよ。資金とか。開業するのに。俺、貯金がけっこうあるんだ」
「えっ。悪いよ」
「いいんだ、どうせ使うあてなんてないし」
事実だった。趣味も野心もない俺には、ただ貯まっていく金の使い道などなかったので、どうせなら誰かのために使ってやりたいと思っていた。それが香奈なら尚更だ。それに、もし彼女と結婚することになれば、金は俺のもとへと戻ってくる。香奈という特大のおまけつきでだ。結婚したらどんな生活になるかな。広がる妄想に身をゆだねているうちに、意識は鉄色の夜の底へ落ちていった。
香奈の店は開業当初からぐんぐんと売上を伸ばしていった。香奈は事あるごとに、あの時のお金は駿ちゃんに返すよと言ってきたが、俺がその都度に断っていると、そのうち言ってこなくなった。どうせいつかは返ってくるのなら、わざわざ急いで取り立てる必要はないだろう。
それからしばらく経って、香奈の店がついに二号店を出したらしいという噂を聞いた頃、俺は相変わらず、仕事に忙殺されていた。
今日は何日ぶりの休日だろう。
家の冷蔵庫を開けて、ビールを2本取り出した。まだ昼だが、構わない。今日は一人でゆっくり飲もう。日々の仕事で疲れた体に、ビールの爽やかなうまみが染み渡っていくようだった。
そういえば、昨日、昼休みに同僚たちが面白い話をしているのを聞いた。
「なあ、知ってたか。カマキリのメスが交尾の後にオスを食っちまうのって、習性ってわけじゃないらしいぜ。なんでも、メスにはオスとエサとを識別する能力がないから、交尾後にさんざん疲れて腹が減ったときに、目の前で動いてるオスをエサだと勘違いしちまうらしい。でも、オスの方も、交尾後のメスがとる行動を知ってるから、交尾が終わったら全力でメスから逃げるんだってよ。笑えるよな」
「なんだそれ、笑える。俺ずっと、オスが自ら食われに行ってるんだと思ってた。献身的だなあって」
俺は傍で聞いていたのを思い出しながら、そんなお人好しでバカなオスがいるかよ、と笑った。
ちょうどビールを1本飲み終えたとき、玄関の方で、カツン、と何かが投函される音がした。