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剣豪魂  作者: 富野夷
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武蔵は武蔵に逢いに行く。

剣豪は人を超越したものである。

逆には人の温もりを許されず、

極楽でも地獄でもない無辺際に追いやられたと言ってもよい。

故に武者修行は時空を超えたものになる。

だから無辺際の武蔵が、この世の塚原卜伝に挑むことも可能なのである。


今、佐々木小次郎に敗れた武蔵は修行中であった。

何をすべきか、

ようやく思いついたのは自身を振り返ること、

宮本武蔵を観ることであった。

武蔵むさし武蔵たけぞうに逢いに行った。


そもそも考えたことは山籠りであった。

古来、人は山を神聖視した。

寺の名前に、成田山のように山号が付いているのも、その現れである。

登山はもともとは信仰のために行った行為である。

修験道の山伏は、その山に登るという行為そのものが修行であった。

余談だが、大相撲の力士に、なんとか山が多かったのも、この影響であろう。

事実、極真空手の大山倍達氏が実際に山籠りを行っている。それが昭和の時代である。その頃までは、山籠りは現実だったようだ。

しかし今、スポーツ科学に照らしてしまえば、それは体に良いとはやはり思われない。

宮本武蔵は図らずも佐々木小次郎により、それを認識させられた。


そこで武蔵は時空を超えて自分を観る。

武蔵たけぞうは武芸者と闘った。

無謀なほどに正面から挑んで、なんと力任せに勝利した。

武蔵むさし武蔵たけぞうにうなずく。

そして、吉岡清十郎。

武蔵は決闘に遅参した。

それを観た武蔵はうなずかない。

吉岡伝七郎。これもまた遅参であった。

さらに清十郎の一子、又七郎及び数多の門人たち。

これには時間前に走り出て、切り捨てた。

巌流島。

佐々木小次郎に対しても、またしても遅参であった、


この武蔵は、

ただ奇襲だけの、

剣術であったのか。

武蔵は初めて我が身に、疑いを抱く。

そしてまた、時空を彷徨い始めていたのであった。




武蔵はふつう「むさし」と読まない。

むさしの国という古名があって、それに後から武蔵を当てたものらしい。

また、佐々木小次郎の小次郎も、記録にはないらしい、

もしかすると吉川英治先生が、燕の古名の「つばくろう」から「こじろう」を連想したものではないかなあと、私は思っています。

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