またリオ・オリンピックを見て思うこと。
オリンピックを見ていると、
「気持ちで負けていた」
という言葉を聞きます。
しかし、
「出る前に負ける事考えるバカいるかよ」
と言ったのは、プロレスではありますが、超一流のアントニオ猪木です。
確かに、その通りです。
誰も負けようというような気持ちなどないはずです。
では、アスリートが使う「気持ちで負ける」とは何か、考えてみた次第です。
まったく低い次元を例にとりますが、お許しください。
私は大学時代に、空手部でした。
まだ、シゴキということが、当然の時代でした。
たるんでいる一年生がいて、
「お前、シゴイテやれよ」
三年生が、二年の私に言いました。
「押忍」
と言って、うなずいた私ですが、
「シゴキなんやめたほうがいいよ。そんなに、やりたいなら、自分でやれば」
の気持ちでした。
そして、一年と組み手をしたのですが、なぜか負けるはずのない相手に、逆襲を許してしまい、冷や汗をかいた覚えがあります。
誰も、
「負ける」
とは考えないでしょうが、
「勝つと関係のないことを考えてしまう」
ということ、
別の言い方であれば、理屈みたいなことを考えていること、それが、
「気持ちで負ける」
ことなのかもしれません。
新聞記事を読んでいたら、こんなものがありました。
北島康介のアテネ五輪の心境は
「(ライバルを)ぶっ殺すぐらいの気持ちだった」
とのこと。
競泳でも、ぶっ殺す――
ぐらいの気持ちが、必要なのか。
これが、金メダルを取る人なんだなと思いました。
ゾーンとでも言うべきなのか、
そのリオ・オリンピックも終わってしまいました。
ということで、
つけ加えさせてもらってもいいでしょうか。
やはり、普通ぐらいの感情などでは、究極の境地にある金メダルは無理だと思うんです。
その優しさなんてものから生じる、
複雑な感情、つまり勝つ以外のこと、のために、
超一流になれないアスリートが、決して少なくはないはずです。
金メダルは、
人間を人間的ではない境地にまで追い込むものだなあ、
とも考えたしまった次第です。
さらに、
本当の殺し合いになる、
真剣勝負とならば、
どれほどの境地が必要なものか、
恐ろしくさえ思ってしまいます。
宮本武蔵は修行に出たまま行方不明ですが、気持ちでは負けていないと思います。