吉岡清十郎の逆襲
吉岡清十郎も、雲上の無辺際には来ていた。しかし、日の当たらないような場所しか与えられていなかった。
そんな清十郎が出会ったのは、眠狂四郎であった。狂四郎も、この日の当たらない場所にいる。
清十郎は、狂四郎に師の礼をとった。
むろん、宮本武蔵に一矢を報いるためである。
狂四郎も、武蔵については熟知している。
それは、銀幕の宮本武蔵ではあるが――
「表情に力を入れすぎないことと、理解していただこう」
狂四郎の指導は、何より表情であった。
「かっと目を見開くような表情は、体まで緊張させてしまうし、あまつさえ、今の観客からは人気を得ないと心得ていただこう」
吉岡清十郎は謹聴している。
「言わずもがなも、言わねばならぬ」
狂四郎は語る。
「それもこれも全ては、美貌を備えた身体であるかが、前提なのである。それに値しない者の、師の礼は受けはしない」
その語る言葉もよどみがない。
「吉岡は京の名門の家であると聞いた、やはり血はあらそえぬもの。たまさか、貴公の風貌には、尊さというものが宿っているようだ。それあってこその、人を魅了する表情をつくれると、理解されたい」
狂四郎は語り終えて目を閉じる。
それは男の清十郎から見ても、惚れ惚れとするような表情なのであった。
表情の次は、構えであった。
「力がいずこかに偏っているような姿勢は、この狂四郎の思うところでは決してないと、理解していただこう」
清十郎は、狂四郎の姿勢を手本として立ち構える。
全身を研ぎ澄ますように立ち尽くす。
しかし、狂四郎から、諾との言葉を聞くことはなかった。
雲上にも季節はある。
日の当たらない場所にも花は咲き、花は枯れる。
それでも清十郎は立ち尽くした。
風が雨が、そして繰り返すような日常が清十郎を脅かしたが、彼は力を溜めることなく立ち尽くした。
「よくぞ忍んだ。剣の構えとは、人を殺すよりも美しくなるためであると、今は貴公自身が、しかと理解しているでことであろう」
狂四郎も、ついに表情に微笑をたたえた。
そして、その語るところは、清十郎には全くの意外であった。
「円月殺法、とは実は何もない」
宮本武蔵を倒すための究極の殺法と考えていた清十郎は言葉を失うしかなかった。
「あるのは、美しさである」
語るその表情が一際に美しい。
「その美しい構えに、見る者は感動するのである。感動に、言葉も我も失う」
清十郎は聞き惚れていた。
「後は、我を忘れ動きを失った者を、ただ斬る」
狂四郎は構えて、舞いのように斬る姿勢を演じた。
何よりの説得力であった。
宮本武蔵との決闘は、雲上という訳にはいかないので、うろこ雲下にて相対することとした。
もちろん武蔵は二つ返事であった。
そして約束の日、珍しく宮本武蔵は先に到着して待っていた。
中空を、眠狂四郎と吉岡清十郎は飛ぶが如く近づいていく。
「むむ」
狂四郎の表情が曇った。
「この異臭は何か」
その端正な口元が僅かながらもゆがむ。
「あ」
清十郎がうめいた。
「武蔵の奴め」
早くも清十郎は、その事実に気がついて、武蔵そうなのかと心に叫んだ。
武蔵は久かたぶりに風呂を拒絶し続けていた。きっかけは、この決闘のためでなく、心ならずも塚原卜伝の言葉に哀れを覚えてしまったことに因る。
「武芸者も必ず老いる。いつまでも強くはいられない」
過ぐる日、卜伝の言葉に、武蔵は心ならずも寂しさを覚えた。
しかし、武蔵に自信の喪失はない。
「この我の五体を満々の、やる気に溢れさすのである」
そう言葉にして風呂は絶っていた。
「帰る」
狂四郎である。
武蔵の異臭は狂四郎の研ぎ澄まされた美意識には耐えがたかった。
清十郎は一人残された。
そして清十郎にも美意識は芽生えていた。
「私も帰ろう」
うろこ雲の下には、宮本武蔵がただ一人であった。
「ふふ」
武蔵は嗤う。自分のやることは全て良い結果となると心に刻んでいる。
「塚原卜伝にも勝る、無手勝流であったようだな」
呟いた。
無手勝流は戦わずして勝つ、卜伝の流儀である。
雲の下には僅かながらも雨が滴る。
「久しぶりに風呂にでも入るかな」
また呟いて、武蔵は悠々と中空を飛ぶのであった。
市川雷蔵の眠狂四郎は1963年から、6年間だそうです。後は、松方弘樹が演じて、好評ではなかったそうですが。それにしても、殺法を前面に押し出せた幸福な時代劇の時代だと思います。
殺法は当然、殺し方ですから、今ならば何かしらの違和感を唱える人がありそうな気もします。今の時代劇は、ばったばったとは斬らず、刀を抜かないことが評価されたりもしています。戦国物も、平和をもたらすために、戦うというのが、むしろ主流のようです。
ここはひとつ、宍戸梅軒あたりに鎌の殺法を考えさせようかとも思っています。