九十一、 首を縦にふれない
「待て瑛。それは余か、でなければ栢里がやる。お前が――」
「嫌よ」
妹を説得しようとする兄に、麗瑛はにべもなく言い放つ。
「これ以上お兄さまにわたくしの後宮を引っかき回されるのは御免です」
「余がいつ引っかき回したと――」
「じゅ、う、ぶ、ん、に、引っかき回されてるわ」
青元の鼻先に細い指を突きつけて麗瑛が詰め寄った。
その細い指もしなやかな身体も、帝たる兄に真っ向から向かって、すこしも震えたり揺れたりしていない。この兄妹が飾りのない言葉をぶつけ合うのは常日頃からそうだと言われればそのとおりなのだけれども、いつものそれとはまた違う――大げさに言ってしまえば、後宮の差配役としての矜持を覗かせて、麗瑛は言う。
「いいことお兄さま? 先ほども言いましたけど、御史を踏み込ませるのならばまず、わたくしか丁夫人に一言あるべきでした。けれどお兄さまはそれを怠られた。わたしも丁夫人も何一つ聞いてはいないわ」
そうでしょう? と丁夫人に確認をとる。しっかりと丁夫人が頷くのを見て、もう一度青元に目を転じ。
「罪があるからそれを追及する。それは良いとしましょう。けれどわたしが聞きたいのは、なぜ誰にも何も断らずに、どういう判断でいきなり監察御史などを、後宮に踏み入らせたのかを聞いているのです」
采嬪は罪を犯して宮中を乱しかけたのかもしれない。だが、だからと言って青元もまた、後宮を乱していいわけではない。
麗瑛が一番怒りをあらわにしたのは、そこだ。
先に麗瑛に、あるいは丁夫人に話を回した上でことに及べば、麗瑛はわざわざここまで激昂することもなかったのだ。
そしてそれは、明らかに青元の手落ちであった。
「お兄さまは罪人を追い詰めているおつもりなのかもしれませんし、後宮の妃嬪がお好きになれないのはわかるわ。けれども、後宮を軽んじられるのもいい加減にしてくださいませ」
「だが、だからと言ってなぜお前に任せなければならない?」
青元の言葉に答えず、麗瑛は栢里に問う。
「御史室長? この細工が証拠と言ったわね。ならば、お兄さまはそれ以前には証拠もなく、采嬪に疑いをかけていたということで良いのかしら?」
「答える必要はないぞ栢――」
「いかにもそのとおりです、公主殿下」
「栢里!」
あっさりと麗瑛に屈した御史室長に、青元は抗議の声をあげる。
栢里は悪びれた様子も見せずに言う。糸目の向こうの瞳は見えない。
「と申されましても主上、今の理屈は公主のほうが通っておられるかと」
「つまり、お兄さまはまったくの予断で、采嬪の舎に、御史を踏み込ませたというわけですわね?」
「だから、それはだな」
「そんな予断のあるお兄さまに任せていては、采嬪は盗人にされてしまうわ――咎のあるなしに関わらずにね」
麗瑛は言い、天香は腑に落ちる。
自分から乗り出したのは、それを考えてのことだったのか。
「お前は、采嬪が盗んだとは思わないのか」
「お兄さまは証拠が見つかるよりも前からそう思っていたのでしょう? なぜかは知らないし、聞きもしませんけど。けれどそれじゃあ、何を言っても先に決めてしまっているのと同じじゃないの。――だから、わたしがやります。お兄さまにさせておくよりはよっぽどマシだわ」
乗り気だ。采嬪の依頼を聞いていたときとはまったく違う乗り気の表情を見せている。
けれど――だからこそ、天香はその麗瑛を、止めなければいけない。
「瑛さま」
「なに、天香」
「そのお役目――私は反対です」
麗瑛が、こちらに視線をキッと投げつけてくる。
その鋭さにすこし押されてしまうけれど、天香は何とか踏みとどまった。
さっきは青元に対して麗瑛が、後宮差配役の意地を賭して向かっていったのだ。今度は、自分が麗瑛に向かう番だった。麗瑛と同じように――自分にも、意地がある。
語気に険を含ませて、麗瑛は天香に問う。
「どうして? お兄さまに任せておいては采嬪は罪人にされてしまうわ」
「それはわかっています。私だって、それはいけないと思います。もし采嬪さまに咎がないのなら。……けど」
一度そこで言葉を切って、天香は麗瑛に半歩近づく。
「お忘れですか瑛さま。瑛さまこそ仰いましたよね、采嬪さまの一件、私に任せるって」
「それは――でも、今とは事情が違うじゃない」
あっ、という顔になりながら、それでも麗瑛はそう返した。
「いいえ違いません。任された以上は私にも、瑛さまよりも先に、その権利があるはずです」
「じゃああなた、これがあの呪いの話と繋がりがあるというの?」
「だって、あまりにも間が良すぎるじゃないですか。渡りに船って言いますけど、これじゃあ最初から船が待ってたくらいの間の合い方ですよ?」
「――待て、待て待て。お前たちはいったい何を言っているんだ? 呪いとか聞こえたがそれは何の話だ。さっぱり話が見えないぞ」
妹達の言い争いに、我慢しきれなくなったように青元が口を挟んだ。
呪いの件はもちろん青元には話していない。ことが後宮の中の――つまり麗瑛たちの管轄範囲だし、こんな事態になるなんて思いもしなかったのだから当然だ。
麗瑛と目配せを交わして、天香は手短にかいつまんで青元にあらましを説明した。
采嬪から持ちかけられた呪詛についてのこと。そして、采嬪が李妃派の中で浮いていたらしいということも。
ちなみに目配せの内容は、
(どっちが言いますか?)
(あなたがやりなさい)
(……詰まったら助けてくださいよ?)
以上、伝心終了。
「――采嬪が呪詛をかけられている……だと?」
伝えられた青元はといえば、椅子に座りなおして宙を見上げた。その眉間にしわが寄る。
その横で、御史室長・栢里も顎に手を当てて考え込む姿勢をとる。相変わらず糸のような目は開いているのか閉じているのかわからない。
その一方で、麗瑛は別の反応を返してきた。
「采嬪が浮いていた? そんな話聞いていないのだけど」
「私も昨日聞いたばかりで――今日にでも聞きに行こうと思っていたんですけど」
「それに、茶会で見た感じ、そこまで浮いているようには感じなかったわよ」
采嬪から話を持ちかけられる前、麗瑛は彼女達の茶会に招かれていたのだ。
あの席でそんな違和感はなかった、と麗瑛は言う。
「そのお茶会の回数が減っている、みたいです。前は日をおかずにやっていたものが、最近は数日に一度とか、それ以上とか」
とはいえ天香も麗瑛も、采嬪たちがどれほど自分たちで寄り合いを持っていたのかなど知らないから、比較のしようもない。福玉の証言を信じるなら、そういう話が流れている、ということである。
「ええい、茶会の数など今関係あるか。重要なのは采嬪がこの細工を盗んだ――あるいは誰かに盗ませたのか否か。それから、采嬪に呪詛をかけたのは誰か、この二点だろう」
青元がうんざりしたように唸り、麗瑛が意外そうな声を上げる。
「あら、お兄さまにしてはわかりやすい要約ね」
「お前は俺をどう思ってるんだ……」
「とにかく、お兄さまにはこれ以上自分勝手にかき回さないでほしいと言っているの」
「だ……だが、盗難だけならともかく、呪詛といわれては――」
諦め悪く食い下がろうとする。最後にははっと思いついた顔になって。
「その呪詛とやら、自作自演ということはありえないか?」
「なぜ?」
「盗みから目を逸らさせるためだ」
やはり、青元は采嬪が手を下したと考えているらしい。
兄帝の言葉に麗瑛が顔をしかめて、天香も同じような表情になる。
「こちらに話があったのは、盗難の件が表沙汰になるよりも前ですよ? それとも発覚することまで計算に入れてやったとでも?」
「お兄さま、どうしてそんなに采嬪が直接手を下したということにしたいの?」
妹達のじっとりとした瞳から顔をそらすようにして、眉間を指で押さえながら青元が言う。
「……密告があったのだ。采嬪が、盗品を持っていると」
「密告?」
「どなたが?」
「それは――わからん」
険しさを増した二人の目に言い繕うように青元は言葉を接ぐ。
「わ、わかっていても、それを漏らしたら密告ではないだろう?」
それはそうだが、それ以前の問題である。
「つまりお兄さまは誰かも明らかでもない密告を真に受けて」
「確たる証拠もつかみ切れていないままに采嬪さまを下手人と決め付けて?」
「わたしや丁夫人に話も通さずに」
「御史をいきなり踏み込ませたと」
自分たちでもすこし驚くくらい、息がぴったりと合った。
二対一の追及を受けた青元は視線をめぐらせて――助けを請うたのか、単に逃げ道を探したのかはわからないが、とにかく御史室長からも女官長からも救いの手は伸ばされない。
がくり、と頭を垂れた。
「わたしたちに任せてもらいます、いいですね」
「…………わかった」
沈黙を挟んで、低い声で青元が言った。
「本当にわかっているのかしら。何がわかったか仰っていただけます?」
「……今回の件は、余が先走りすぎた。その……悪かった」
「もう一声」
バサリと叩き切るように畳み掛けた麗瑛の声に、えっ、と天香は声を上げてしまう。もう十分の気がするのだが。
「采嬪への聞き取りはお前達に任せる。……だが忘れるなよ、細工が盗まれたこと事態は事実なんだからな」
「ええ。何かわかればお兄さまにお伝えしますわ」
ねえ、と同意を求められ、天香はこくりと頷く。
そんな二人にもの言いたげな視線を向ける青元の顔がある。
天香が首を傾げると、麗瑛も似たように疑問符を顔に貼り付けて兄の顔を見た。
二人に真正面から見返され、国帝陛下はひとつため息とともに。
「いや、それで結局、お前と天香のどちらが尋問するんだ?」
天香と麗瑛は顔を見合わせる。
「私がやります。私にやらせてください。――その代わり、瑛さまは横で見ていてください」
「わたしはそれでもいいけれど……天香はそれでいいの?」
麗瑛に問われて、天香は一つ大きく頷いた。
結局、はた目には二人でやるのと変わらないだろう。
けれども天香にしてみれば、気の持ちようが違う。
「瑛さまがいればそれだけで、心強くいられます」
「わかったわ。――いいですわね、お兄さま」
「いいと言ってるだろ……好きにしろ」
うんざりした顔で、青元は眉間を押さえていた。




