九十、 公主御機嫌極めて悪し
「いったい如何なるおつもりでいらっしゃるのでしょうか、主上!」
麗瑛の、天香でさえ久しく聞いていないほど激しい口調と大きさの声が、帝――青元の執務室に響いた。
采嬪の玉楼舎に御史が踏み込んだ、その一報を聞いた麗瑛はすぐさま青円殿に押しかけた。
一報を受けたのは朝餉の席で、正確にはその食後に茶杯を取ったときだ。
大まかな話を聞くやいなや、麗瑛は猛然と――とはいえ公主、裾をからげて走るような真似はしない。せいぜい早足に二歩ほど及ばない速さで――天香を引きずるようにしながら、青円殿に向かったのだ。
途中から燕圭が流石の身のこなしで追いついてきたが、それ以外の侍女は完全に置いてけぼりだ。
口を差し挟む暇もない早業で、だから天香も事情がうまく飲み込めていない。
やってくる道中歩みを進めながら、後宮の空気がどこかざわざわとざわめいているように天香には感じられた。自分の気のせいではないと思う。
いつもより私語だとか人通りだとかが明らかに多いというわけではない。けれども、浮き足立つといえばいいのだろうか、その雰囲気は昨日とは違っているように思えた。
そんな空気の中、朝餉が終わった時間帯の後宮を、麗瑛が肩で風を切って歩いて、天香は必死にそれについていく。
うっかりすると置いて行かれてしまいそうになるほどの勢いで、天香は何度か人にぶつかりそうになりそのたびに反射的に頭を下げた。
「公主麗瑛から正式に口頭で申し上げたきこと有り、とそう伝えなさい!」
青円殿に着くと、応対に出てきた警衛を気圧すほどの剣幕で麗瑛は青元に取り次げとまくし立てた。その最中にやってきた丁夫人も、やはり麗瑛と同じような険しい、ただし麗瑛ほど怒気に溢れてはいない顔のまま、一行に加わったのだった。
やがて出てきた侍従に先導され、三人は青元の執務室に通された。
そこで麗瑛が口火を切り――青元に食って掛かった。
「主上におかれましては、どのようなお考えでもって今朝のような暴挙に及ばれたのでしょうか! それなりの理由やあるはず、それをここで明かしていただきますように!」
ぱっちりと大きな瞳に怒りを灯して麗瑛は言う。
いつものように兄と言わず改まって主上と呼ぶところに、怒りの一端が見えていた。
怒りに染まっていてもその顔立ちから秀麗さは失われていないが、それがかえって迫力を増している。とはいえ、いつでもどこでもいつまでもそれを直視していたい、というほど天香は被虐趣味ではない。
落ち着かない天香は執務室の中を見回した。
天香は青円殿の中に、ここまで奥深く入るのは初めてだ。足早に通り過ぎてしまってしっかりとは見えなかったけれど、その道中の廊や部屋の装飾が細やかに手が入っていることはわかった。
それに比べると、青元の執務室はどちらかといえば飾り気の少ない、質素にも見える一室だった。
人の出入りはあるから室内こそ狭くはないし、もちろん帝の常用する部屋であるからまったく装飾が設けられていないわけでもないが、これ見よがしというふうに絢爛豪華に盛りたてられているわけではない。まあ、そんな処では気が散ってしまって執務どころではないと思うが。
そんな意味では、天香の知っている中で言えば海嬪の殿舎に似ていた。
あちこちに視線を飛ばしていると、壁際にたたずむ一人の官吏と目が合った。合った……と思う。細い糸目公主一行が急に押し入ったことで退出の機会を失ったのだろうか、と天香は思う。
目が合ったままというわけにもいかないので、天香は軽く頭を下げて会釈してた。彼もそれに応じて頭を下げる。見かけのわりに落ち着いた答礼からは焦りや緊張などは見えない。一介の官吏ではないのかもしれない。
ちなみに天香はうっかりしていたが、本来なら目下に当たる官吏のほうが先に礼をしなければならない場面である。
「――朝から騒々しくなんだと思ったら、そんなことか」
「そんなこと!?」
「理由か、理由ならばあるぞ」
「――それは、わたくしたちを納得させられる理由なのでしょうね?」
「ああ」
麗瑛の怒りを前にして、青元は腰の据わった態度で応じた。その声に天香は意識を引き戻される。
麗瑛はやや怒気を収めて言う。先ほどよりも声は抑えたが、それでも語気は強い。
「そうですか。ではその理由とやらはあとでお伺いするとして、その前にもう一点。ならば、わたくしか丁夫人に先に一言あってしかるべきではなくて? 後宮の中に官吏を、それも内官や侍衛の類ではなく御史を入れるなど、後宮を預かっている身として見逃せないことです。――そうよね、丁夫人」
言い切って、麗瑛は強く息を吹いた。
同意を求められた丁夫人も、同様に深く頷いてみせる。
基本的に後宮に男は許可なく入ってはならないと定められている。出入りする場合には身体を検められるし、中では常に侍衛がつく。下働きの人間でさえ、常にその挙動を見られている。
そんな場所に、事前に通告もなく、御史が踏み込んだ――つまり、それは帝の指示で行われたこと。青元自身が、後宮の規則を大規模に破ったのだ。
麗瑛が怒りをあらわにしているのは、それが原因だった。そして丁夫人もまた、それに同調している。
「そうか」
荒れ狂う妹を正面から受けきったところで、青元が返したのはその一言だった。
「では、こちらの番だ。ちょうどいい、あれを見てもらう。栢里」
制限の呼びかけに、は、と短く返事をして、さきほどの細い目の官吏が執務机に近づいてきた。
栢里と呼ばれた彼は、布に包まれたなにかを取り出して机の上に置く。布を取り払ったものが、机を囲む面々のもとに晒される。
それを見て、天香は首をひねる。
「これ……髪飾りですか?」
蝶の形をした、大振りな髪飾りだ。羽の部分には螺鈿が施されている。手の込んだ品に見えた。
一方、麗瑛の反応はそれとはすこし違っていた。
「あら、采嬪のものじゃない。つい先日もつけていたわ」
「そうか、公主の前でも平然とつけていたと言うか。ますます度し難いな」
「何が問題だって言うのよ――仰せなの?」
「瑛さま……」
常の口調に戻っているあたり、気が削がれて怒気は抜けかけているらしい。慌てて言いなおす姿に、天香は呆れとも頬を緩めるのともつかない微妙な心持ちになる。
青元は髪飾りを示しながら、
「この髪飾りはな、司工で作っていた細工品だ。正確にはその試作品だが。――つまり、采嬪はこれを手前勝手に自分のものとした疑いがある。手っ取り早くいえば、窃盗だ」
淡々とした口調だったが、それがかえって天香の背筋に寒気を這わせた。怒りまではいかないが、少なくとも義兄がこれをかなり不快に思っているのだと、伝わってきたからだ。
司工は後宮の一部局で、後宮で用いる小物を製作する部門である。そこで作られたものは帝に献上される。妃嬪が持つとしてもそれはその後の話である。
青元はもともと後宮を快く思っていない。粗雑にこそ扱わないが、かといって史上に名高い何人かの帝のように後宮に入り浸ることはない。節度があるといえば聞こえはいいが、放置といってしまってもそれほど実態と変わらない。だがそれゆえに、そのために宮中を乱されることは不快以外の何物でもない。しかも妃嬪が、言葉は悪いが皇族の持ち物を掠め取った、ということになる。不快感をあらわにするのも当然の理だ――と青元は言いたいのだ。
補足するように、官吏――栢里が言う。
「自分で手を下したとは限りません。誰かに命じて持ち出させたのかもしれません。いずれにしても、采嬪さまがこれを所持していたのは事実です」
「押収したのは栢里だ。ここに持ってきて検分していたところだった。瑛の証言で手間がひとつばかり省けたな」
栢里、という名に天香は思い当たる。玉柚が口にしていた、御史室長の名だ。
つまり――この糸目の青年が、御史室長・高栢里。その室長自らが、青元の指示の元で玉楼舎に踏み込んだ、ということだ。
けれども、青元は重要なところを飛ばしていた。麗瑛が問題としているのは、そこではない。
青元は采嬪を頭から疑ってかかっているようだった。ゆえに御史を踏み込ませてもよい、と思っている。しかし、麗瑛が一番怒っているのはそこだ。天香でさえわかる青元の手落ちであり、そこを突かない麗瑛ではない――はずだが、ここで彼女は一歩だけ引いてみせた。
「事情は理解しました」
麗瑛がだいぶ落ち着いたような声色で言う。けれど天香にはわかる。それは表面で、内側にはまだ赤く燃えた薪炭があるのを。
「それで、采嬪はどこ? まさか、そちらの御史のみなさんが寄ってたかって無理やり口をこじ開けようとさせたりは――」
「するか! そもそもこんなこと、むやみに外に出せるか。俺が自分で取り調べる心算だ」
妃嬪自らが盗みの下手人として疑われている、それはたしかに醜聞だ。触れ回ろうと思えるものではない。だからこそ栢里たち少数精鋭の御史を踏み込ませたのだと、青元は弁解がましく言う。
青元がいくら後宮そのものに隔意を抱いていても、規則を破っても平然と思っていても、さすがにそこは弁えているらしい。
「そう。それは都合がよかったわ」
「何をする気だ、瑛」
麗瑛の言葉に、怪訝そうな顔になって青元は言った。
「決まってるじゃない。采嬪はわたしが取り調べます」
「お前が!?」
帝の素っ頓狂な声が、執務室に響いた。




