八十七、 采嬪の相談
その日、蓮泉公主こと麗瑛は嬪たちと茶卓を囲んでいた。
と言っても公式なものではない。数人の小さいものだ。
天香は同席していなかった。なにも四六時中常に一緒にいるわけではないのだ。
――そう言ったら、嬪たちに驚いたような顔をされたのが少し心外だった。
会話の途中、采嬪こと采祥雲が麗瑛の胸元に目を留めた。
「わたくし少し気になっていましたのですけれど、その首飾り――公主妃殿下とお揃いのものなのでは?」
「え、本当に?」
「そう言われてみれば」
「……よく気づくものね」
麗瑛は感嘆半分という感じで答えた
いつかのように服の下に仕込んだりはしていなかったけれども、これ見よがしにさらけ出していたわけではない。
「つつましさの中に気品のあるお一品とお見受けしましたわ。選ばれたのは殿下が?」
「いいえ、お揃いを思いついたのはわたくしだけれど、選んだのは公主妃のほうなの」
采嬪の質問に、麗瑛はそう答えた。
玉飾りをいくつか繋ぎ合わせたようなそれは、天香の旧友の店で買い求めたものだ。
あのときどちらかそれに目を留めたのだったか、正確には覚えていないが、ここはどちらかではなく二人でやったことだと答える。采嬪が品を褒めたから、その品を選んだのは天香だと自慢してみたのだ。
もうひとつ言えば、自分自身が褒められるよりも天香が褒められたほうが気分がいい。
「そういう貴女も、その髪飾り、よくお似合いね? 蝶、かしら」
「え――ええ、そうです」
「殿下もそう思われます? いい意匠よね、やっぱりご自分で選ばれたの?」
「いえ、これは侍女が選んだもので――」
一転して采嬪が問いかけられる側になった。
どうやら他の人間も訊ねてみたかったらしいと麗瑛は思う。
蝶を模したその髪飾りは、大きさこそ大ぶりではないものの、細やかな仕事が目を引いた。羽は黒い骨組みで出来ている。その間の幕の部分には螺鈿細工が施されているようで、采嬪が頭を傾けるとそのたびにきらりと色を変える。
「どちらでお買いになったの? 紹介していただけない?」
「采嬪さまはいつも質の良い小物をつけてらっしゃるものねえ」
嬪たちが続けざまに畳み掛ける。
采嬪は好奇心が強くて目ざといことで知られている。似たような場面でしつこく問いかけるのを見たことがある。
そんな采嬪を逆に問いただせるのが、彼女達も少し楽しいのかもしれない、と麗瑛は思った。
茶会、というほどかしこまってもいない集まりが緩やかに終わると、麗瑛は礼を言って立ち上がった。
やや歩いたところで、後ろから追いついてきた人間がいた。
つい先ほどまでいっしょに卓についていた采嬪だった。
「わたくし何か忘れ物でもしたかしら?」
それで引き止められたのかと思い、麗瑛は訊ねる。
しかし采嬪は、先ほどまでの朗らかな顔とは違う、どこか思いつめたような――あるいは切羽詰ったような顔で言った。
「殿下に、その、ご相談がありまして……」
* * *
そのころ天香は書の練習をしながら、光絢を相手に話を聞いていた。
「それで、次は?」
「こっちはどこかの妃嬪の侍女が言っていたそうですが、公主妃は仮の姿、じつは時期を選んで正妃として冊立されるのだ――あ、お姉さまそこ力入りすぎです。もっと力を自然に抜いてください」
「こ、これは聞きながらつい力が入っちゃっただけだから! ――名前はわからないの? そのばかばかしい噂の元」
「言ってた人ですか? でもお、こういう言い方って普通じゃないですか。友達の友達が聞いたんだけどーみたいな感じで」
「それは……そうだけど」
天香は口ごもる。
そんな天香に光絢は続けざまに言う。
「お姉さま、気にしすぎるのもよくないと思いますよ。殿下も仰ってたじゃないですか」
「そうだけど、それだけじゃないの」
「といいますと?」
「噂を打ち消すのが難しいのはわかってるけど、どんな噂が流れてるかわかれば真逆の振る舞いが出来るじゃない」
「それが気にしすぎてるってことだと思いますけど」
「そうかもしれないけど……」
気にしすぎているのだろうと自分でも思う。
けれども、あからさまに悪い噂を流されていたとしたら、そちらのほうが天香には許せない。自分のことはともかく、例えば麗瑛のものなどは――考えるだけで胸の中にもやもやとしたものが広がる。
今のところ、そういうものは耳に入ってきてはいない。
「まあさっきの、いずれ正妃に――って噂だって、ずっと前から言われてたような話じゃないの。それこそ私がここに来てからずっとよ。いまだにそんなこと言ってる人いるのかしら?」
目論見はいったん脇に置いておいて、天香は口を尖らせる。
何をやっているかといえば、噂を集めさせていたのだ。
今はその報告を聞いている。
きっかけは鄭玉柚との会話だった。
彼女が例として挙げた、天香たちについての噂だ。
半分くらいは天香をからかうためだったようだが、座視できるばかりでもなかった。
光絢を引き込んだのはまあ、事実である。矢印の向きが逆なのを除けば、だけども。
だが勤めている侍女たちが天香か麗瑛かあるいは二人両方の毒牙に――毒とか自分で言うのもどうかと思うけれど――かかっているというほうは見過ごせない、というか。
正妃候補が一方で女官を片端から手篭めにしているとでもいうような、矛盾しているような無責任な噂に、天香が最初に抱いたのは憤りだった。
――麗瑛が帰ってきたのは、そんな会話をしている最中だった。
「ただいま、天香」
「瑛さ――」
麗瑛の声を聞いてくるりと振り向いてパッと明るい顔になったのは、天香本人にしてみれば無意識の行動だった。――そして麗瑛の後ろに続いて入ってきた人物に気づいて、真顔に戻る。
「――ええと、采嬪さま?」
采嬪がそっと頭を下げて、天香は顔に血が昇るのを自覚した。
仕切りなおし。
長椅子に腰掛けた采嬪が、改めて頭を下げて言う。
「なんだか、お邪魔してしまったみたいで……」
ああやっぱり見られてた。
いえーとかそのーとか言葉にならない言葉を、天香はもごもごと返す。
顔がまともに見られない。
「采嬪は相談があるというの。内密にと言うから連れて来たのだけれど……」
「相談? ……なんでしょう?」
「これ、なのですが」
大きめの巾着のような袋の中から、布に包まれた何かを采嬪は取り出した。
卓の上に置いたそれを丁寧に開くと、中から現れたものは――人形だった。
とは言っても目も鼻も口もない。ただ人の形をしているだけの、文字通りの人形だ。
――文字で書くならなんだかややこしいなあと、先ほどまで書き物をしていた天香はそんなことを連想した。
ともあれ、人形自体に話を戻すと、それは木で出来ていて、手のひらに乗るほどの大きさだった。
やや汚れているが全体的に白っぽい人形のそのお腹の辺りに、墨でくっきりと『采』と書かれているのがわかる。
「なんだか、まるで呪いの人形みたいな……」
「まるでというか、そのものだと思われるのです」
「……え?」
つんつん、と指で人形をつつこうとしていた天香、慌てて指をひっこめる。
「それが見つかったのは、わたくしの舎の床下でして」
天香は思わず麗瑛と目を見合わせる。
つまり、采嬪は自分が誰かに呪詛を掛けられているのではないか、と言っているのだ。
人形を呪う相手の家の床下に投げ込む――というのは、わりとありふれた話ではある。もっともそれは話に聞くぶんにはであって、こうして実物を見たことなどこれが初めてだった。
とはいえ、相手の名前まで書いて床下に放り込まれていた人形が呪いでなくてなんなのだ、といわれればやはり、これは呪いの人形なのだろう。
それをこうして見せに来たのは――この呪いの人形を仕掛けたのが誰なのか、なぜなのかを調べてほしいと言うことだ。
首を傾げて、麗瑛が言った。
「事情はわかりました。妃嬪に呪いをかけるような人間がこの後宮にいるというのは確かに問題だわ。――でも、それをわたくし達に仰るのはなぜ? 丁夫人に訴え出ればいいのではないかしら」
「それは、その……呪われたなどと噂が立てば――そのような妃を、陛下はお召しになってくださらないのではないか、と……」
「……なるほどね」
得心したように麗瑛が言う。
今度は天香が首を傾げる番だった。
「なるほどとは?」
「丁夫人に比べて、わたくしたちが甘く見られているということよ。いい言い方をすれば、丁夫人に比べれば融通がきく裁定を期待できる、とでも言えばいいかしら」
その言葉を聞いて、采嬪は恐縮したように慌てて頭を下げて言う。
「甘くなど、滅相もない――。ただ、殿下ならば、このようなことでも密に引き受けてくださると――そういう話を聞いたもので」
伏してお願い申し上げます、と采嬪は深く頭を下げる。
普通に訴え出たのではその評が青元に伝わってしまう。といって丁夫人は口止めを頼めるような相手ではない。しかし訴え出なければ犯人を捕まえることもできないし、というあたりなのだろう。
それにしても、また噂かあ、と天香は思う。
頼られるのはともかく、そんな噂になるほど大々的にやった覚えなどないのに。
「そう言われても、ねえ」
と、麗瑛が軽くため息をつく。
「そろそろ重陽節の準備もしなければならないし、わたしとしては気乗りはしないのだけれど」
言葉のままの声色で言う麗瑛。
たしかに言うとおりで、重陽節まであと十日とない。
城を挙げての行事であるからもちろん後宮の中でも祭事があり、その後には宴もある。麗瑛も天香もその準備にあたることになっていた。とはいっても主人の側である二人が自分から身体を動かすということはないのだが。
天香はとりなすように言う。
「けれど、采嬪さまはせっかく私たちを頼りにされてこられたのですよ、瑛さま」
「――あなたは興味がありそうね、天香?」
「え……っと。わかりますか?」
「さっきからそんなに人形を眺め回していてよく言うわ。幽霊のときはあんなに怖がったのに、こういうのは大丈夫なのね?」
皮肉混じりの麗瑛の言葉に、くすぐられるような感覚を覚える。
先ほどは呪いの人形と聞いて思わず手を引っ込めてしまったけれども、やはり物珍しさが先に立つもので。
「なら、仕方がないわね。この件はすべて天香に任せるから。あなたの気が済むようになさい。――いいかしら、采嬪?」
「ありがとうございます公主殿下、妃殿下」
頭を下げられて、天香は頬がむず痒くなった気がして、かるく掻いた。
同時に、なんだか上手く乗せられてしまったような、押し付けられてしまったような感じもする――というか、おそらくその通りだ。
そんな天香に、麗瑛が念押しするように言った。
「その代わり、重陽の準備があることを忘れないこと、つまり長引くようならそこでやめること。それから、わたしは手伝いませんからね。いいわね天香?」
「わ、わかりました――え?」
「すべて任せる、と言ったでしょう」
助言さえ期待するな、と言う意味だったらしかった。




