八十二、 口論と謎の女
胸を張って凛とした声色で、洪妃昭華は相手に詰め寄る。
今日も目に鮮やかな真っ赤な上衣で、裳は薄い色だったが髪飾りすら赤い。
その背に一本通った姿勢は、凛としたというより仁王立ちと形容したほうがしっくり来た。
「返答次第によっては我が愛刀の錆にしてくれるわ、とか言ってくれればいいのに」
「何を期待してるんですか」
聞こえるかどうかの声で麗瑛が耳打ちするように言う。
いや、確かに武技を嗜んでいるのも知っているし、たぶん刀剣も扱えるのだろうけれど。
呆れてみせつつ、天香は昭華の相手に視線を転じる。
そこにいたのは二人、いや昭華の前面に立っている二人と、その二人よりも何歩も後ろ側、人垣の前列にいるのがもう一人。その三人を囲んでいるのがそれぞれの侍女たちで、さらに遠巻きにするその他の女官たち、というところか。
三人の妃嬪はどれも見覚えがある顔だった。
まず一人は光絢の伝手をたどって幾度となく探りを入れてきた、あの徐碧桃。どことなく洪妃相手に気後れしているようにもみえる。
残りの二人のうち、人垣側の一人はよく人目を引く。胡人の血を引く栗色の髪と白い肌をもつ劉嬪、劉蒼姫。茶会で牛酪を所望した彼女に応対したのが天香だった。目前で怒っているにらみ合いを、彼女は小首を傾げて眺めている。一本線を引いた態度だった。
「あとひとりは、采嬪さま……ですよね」
「よく覚えてたわね」
えらいえらい、と子供をあやすような付け足しをされる。
采祥雲は一番最初に蓮泉殿に『ご機嫌伺い』――要するにあれは偵察にやって来たのだが、天香は途中で麗瑛の声色の冷たさに動揺して逃げ出してしまったのだった。その声色が過保護からのものだったと今ではわかっているから笑い話なのだけれど。
ともかく、三人の中で、采嬪が一番昭華と張り合っているように見える。
采、徐、そして劉――いずれも貴族の家であり、つまりは李妃に近い嬪たちだ。もちろん寧嬪も含む。
そんな嬪たちが、劉嬪は少し違うような気もするが、昭華とにらみ合っている。
「わたくしが何をすると言うの!? 答えなさい、さあ! ――あら?」
髪に差した歩揺をしゃらりと鳴らしつつもう一歩詰め寄った昭華と、様子を伺っていた天香の目が――合ってしまった。
あっと思い反射的に身をすくめようとした天香よりも早く、昭華はぱっと顔色を変える。そして必要以上に大きい、と天香には感じられた声で、
「あら、公主妃殿下じゃないの――殿下ではございませんか!」
語尾を律儀に言い直したところでたいして変わらない。その声で視線がいっせいに集まってしまう。麗瑛からも、咎めるほどではないけれどつんつんと突っつくような視線を感じる。
そんなことを言われても柱が元から細すぎるのだ、と抗ってみても意味はない。
覚悟を決めて、天香と麗瑛は門から外に踏み出す。
ざわざわ、と人垣の中から声が上がる。「公主妃?」「あれが噂の?」「初めて見た」とか、密やかに言い交わされる声が漏れ聞こえてくる。当人たちは密やかのつもりなのだろうが、聞こえている時点でどうなのだろう。というか、聞こえているだけならばまだしも。
「絶世の美女で陛下と殿下を同時に誑しこんだって言ったの誰よ」
「私は逆に二目と見られない醜い傷跡があるって聞いたわよ」
そんな噂があるとか知りたくはなかった。
二つ目のはどこかで聞いたような気もするけど。
「ごきげんよう洪妃。わたしと妃はいま李妃のお見舞いに行ってきた所なのだけれど……これは何の騒ぎなのかしら?」
ざわめく周囲を気にした様子もなく、表面的にはにこやかそのものの声で麗瑛は訊ねる。
洪妃は剣呑な目つきを三人の嬪に投げて。
「わたくしも李妃……どののお見舞いに来、参ったところなのです。が、そこの方々はわたくしにはお見舞いする資格がないなどとふざけた、あ、いえ、失礼なことを仰るのです」
端々から不満が漏れているのがありありとわかる口調だった。
次いで李妃派の嬪の側に視線を移して訊ねる。
「と、洪妃は言っているけれど、それは本当なのですか?」
「……」
ふたりは目線をちらちらとやりとりして、采嬪のほうがおずおずと声を上げた。
「……お、恐れながら公主殿下に申し上げますが、我々とて何も、洪妃に失礼をなそうとしたわけではなくですね、ただ持ち物を改め――」
「嘘を吐きなさい。わたくしが李妃に一服盛ったと言ったじゃないの!」
「盛ったなどとは言っていません!」
「じゃあ訂正するわ。盛ったか盛ろうとしたか、とにかくわたくしが李妃を害そうとしていると考えていたでしょう!」
「それこそ言いがかり! 李妃さまは大事なお体ゆえ、万一のことがあってはならぬと我々が考えただけのことですわ!」
采嬪はますます張り合うように声を高める。その背後でやや腰が引けながら、徐嬪も何度となく頷いて同意の意を示していた。
二人のその言動に、天香はやはりと思う。寧嬪が触れ回ったか、それとも彼女らも同じように考えたのか、いずれにしても李妃に近い者達の間では、今回の体調不良は懐妊の先触れと思われているわけだ。
対する洪妃はふんと軽く鼻を鳴らして、ややあざけるような口調で言う。
「大事なお体? 子を孕んだわけでもないでしょうに」
「まだわからないでしょう! もし御子が流れたらどうなさいます。御子殺しとなるは――」
「ばかばかしい。夏風邪か何かなのでしょう? 滋養を取るのがいいから、こうやって果物を持ってきてあげたというのに!」
洪妃はそういうと籠の中身を差し上げて見せる。籠の中には、大振りな蜜瓜の周りに梨、杏、無花果といった比較的小さい果物が見えている。そして桃も。すべて旬の果物だ。あと見えないのは西瓜くらいか。
その一方で隣にいる洪妃の侍女――介抱した時にいた筆頭格らしい侍女だ――がまたも額を押さえている。
見舞いの品を自分で抱えて来る妃というのは確かに形外れだ。
「毒でも入っているというなら、これを見なさいな」
言うなり、彼女は梨をひとつつかむと、そのまま皮ごとかぶりついた。
シャリ、シャク、シャクと小気味いい音をさせて満足そうに笑みをみせた。その横で筆頭侍女はますます深々とため息をついているし、周りを囲む侍女女官達も呆気に取られた顔をする。
それは好意的に言えば健康的な振る舞いだけれども、妃の振る舞いとしては奔放すぎる。
勝ち誇るような笑みをされて采嬪が気圧され、代わるように横から徐嬪が割って入る。
「そ――そもそも、李妃さまに、この往来で梨にかぶりつくあなたのような……あ、荒々しいお方をお会いさせたりして、何か失礼があったらどうするのです!」
「そのとおり、徐嬪の言うとおりです。この際ですから言っておきますけれど、あまり野趣に溢れすぎるのもいかがなものかと思いましてよ!」
「なんですって!? さすがに姉さまに対して言葉がすぎるでしょう! 蛮人とでもおっしゃりたいの!?」
「そのものの振る舞いではないの!」
……あれ?
天香は小声で耳打ちする。
「蘭嬪、どこから出てきたんでしょう……?」
洪妃をいつかと同じように姉さまと呼んだのは蘭嬪・欧陽蘭だが、いつからいたのだろう。
「気づいていなかったの? 洪妃の後ろにいたわよ」
全然気づかなかった。
よく見れば、彼女は昭華と同じような赤色基調の裙衫を身につけている。鮮やかに派手な洪妃の後ろ側ではややかすんでしまうかもしれない。
先ほどよりも近い距離でにらみ合う両者――その最前線は徐嬪と蘭嬪に代わっているけれど――の間に割って入ったほうがいいのでは、と天香でさえ思いはじめた、そのとき。
「がたがたうるさいなあもお!」
そんな声が降ってきた。
その場の何人かがきょろきょろとあたりを見回す。
「あ、あそこに」と誰かが指を差して、他の面々もそれを追って、視線を上に向けた。
「だ……誰か!」
おそらく侍女のうちの誰かが身元を質す誰何の声を上げた。その声ははっきりわかるほど震えていて、明らかに怯えが混じっている。それでも勇気を出して声を掛けたのだろう。
道を挟んだ向かいの、殿舎と道、あるいは殿舎と殿舎を仕切る、朱色の壁の上。そこに葺かれている橙の瓦に、異装の女が腰掛けていた。




