八十一、 めおと
「そうは思われませんか?」
小首を傾げながら李妃が言う。
その物言いに一瞬、反射的に声を上げようとして。
しかしそこで、天香は李妃の表情に気づく。
きょとんとしたその顔に、毒や皮肉や悪意みたいなものは見えない。
これが他の人間からの言葉なら、例えば今もそこでぎょっとしたような顔を隠しもしない寧嬪とかの言葉なら、何かしらその裏に潜む真意を考えていただろう。
しかし、派手めな顔立ちの中にやや垂れた目つきの李妃がそう言うと、裏も表もなく、ただ心からの疑問を表しただけ、という感じにしか見えない。
ただ思ったから質問しただけ。そして当然それに答えてくれると思っているだけ。大貴族の娘に生まれただけあって、それが当然だと思い込んでいる。
ある意味では純粋、悪く言えば世間知らずの苦労知らずとでも言われそうな育ちのよさ。そういえば、茶会のときの揉め事の発端も似たようなことだったのではないか。洪妃が激昂したのもそんな振る舞いが原因で――そして李妃はたぶんそれに気づいていないのだ。
天香と麗瑛は、どちらからともなく顔を見合わせた。
ひとつ頷いてみせると、麗瑛は手にした扇をパチリと音を立てて閉じる。
牀上の李妃に、天香は麗瑛と入れ替わるようにして一歩だけ近づいた。
不思議そうな表情を浮かべる李妃に、天香は微笑みかける。
「李妃さまは不思議に思われたかもしれませんけれど、私たちにはこれが一番自然だったんです」
「自然?」
「ええ。何も不思議なことじゃないんです。だって一番大切で一番いとおしい、誰よりも一緒に居たい人は私にとって瑛さましかいない。だから、私は瑛さまの求婚を受けたんですから」
「そうなるのが自然なことだったと?」
李妃の言葉に、はいと大きく肯いてみせる。
いつからそうだったかなんて、もう覚えてないけれど。
「べつに夫婦なんて言葉じゃなくても良かったのですけど、でもそれが一番近いし据わりが良かったんです、たぶん」
ひとつ息を挟んで。
「殿方と結婚したことも、しようと思ったこともないからわかりませんけれど、でも、そんなに大きく違うとは思いません。だって、私の父と母もそうして結婚したんだと聞きましたから」
互いを想いあっているという意味で、自分たちと何の違いがあるか。
この気持ちを自覚したあとで何度も確かめてみたけれど、そんな違いなんて、実はどこにも見つけられなかった。
だから、不思議とかおかしいとか、そんなもの、自分たちはとっくに越えているのだ。
「名前なんてなんでもいいの。わたし達の間にあるものを表せるのなら」
言葉を継いだ麗瑛が、天香の両肩に背後からそっと手が置いた。
麗瑛のほうが少し低いから、どっちかといえば寄りかかっているように見えないかとか、天香は変なところを気にしてしまう。
「友達では断じてない。家族でも、もちろんない」
「家族というのも違うのでしょうか?」
「だって、家族と言ったらお兄さまも入ってしまうじゃない」
李妃の疑問に、麗瑛はふふっと含み笑いをする。
「わたし達が欲しいのは二人だけの名前。それはやっぱり、めおと、と呼ぶべきではないかしら」
腕を絡めても抱きしめても、口を吸っても体を寄せても重ねても、それに勝る、名前。
よりよい名前を、天香は他に知らない。
いっぽう、麗瑛の問いかけに、李妃は考え込んだまま答えない。
その隣で居心地悪そうにしている寧嬪。そんなに居心地が悪いのなら何かと理由をつけて下がってもいいだろうに、そうしないのは彼女なりの矜持なのか。
「……やっぱり、よくわかりませんわ」
ようやく出た言葉に、天香は少しだけしゅんとなってしまう。
一度でわかってもらえるようなことではないとは思っていたけれども。
しかし、次の台詞にそれを振り払う。
「考えてみれば、男女の夫婦もどうしたものか、妾にもよくわかりません。国帝陛下の正妃となるのだと、言い聞かされて育ちましたから」
麗瑛と自分は幸運にも、あるいは当然のように、互いを伴侶として選んだ。そうしたいと思えた。例えば柳宗も、瓏音を妻に望むことができた。
けれど、生まれながらに帝の後宮に入ることが定められていた彼女は、そもそもそんな思いを持たないまま、持たせられないままに後宮に入った。
そんな彼女の前で自分や麗瑛が語ったことは、彼女にとってはどう聞こえたのだろう。
不愉快な思いを与えてしまったのではないだろうか。
そんな天香の心配と裏腹に、その声色には怒りとか悲しみとか嫉妬心とか、それ以前に快か不快かさえ含まれてはいない。
淡々と事実だけを述べているような、もうちょっと踏み込んで例えれば、今日のご飯は何にしましょう、あら炒め物になさるの? うちは蒸し物にでもしましょうか、そんな感じ。隣の家の夕食の菜譜にケチをつける人などまずいない。
そんな屈託のない、なさ過ぎる声色で、彼女は言葉を続ける。
「でも――」
「でも?」
「お二人はとてもお幸せそうですし、そういうこともあるものなのでしょう。それはそれで良いものなのですね、たぶん」
天香はぱちりと目を瞬いた。
「幸せそうなら、いいのですか?」
さっきは不思議だ何だと言ったくせに、と思わないわけではない。
その屈託のなさが、先ほどの言葉は特に何の裏もなく、ただぽろりと漏らしたものだと語っている。
「だって妾は妃として、皆が幸せになるように願っているのですもの。それが誰でも幸せそうならいいことだわ。誰かを泣かせているわけでもないし」
「さすがです李妃さま。お慈悲が深い」
やっと自分にも口を挟めるところがあったと思ったか、すばらしい反応速度で寧嬪が李妃を持ち上げる言葉を口にする。
唐突なそれに全く動じないあたり李妃も慣れているのか、それとも逆になんとも思っていないのか。後者だとしたら寧嬪も報われないことだ。まあ天香には関係ない話だけれど。
李妃の元を辞して、栄寧殿の階を下りかけたところで、唐突に麗瑛が口を開いた。
「わたしはいま嬉しいのよ、天香」
「何がですか?」
歩みを止めて、自分だけ一段上にいる麗瑛を仰ぎ見る格好になる。
言葉通りの顔をした麗瑛が、天香の頭に手を乗せてくる。そのつもりでこの場所を見計らって言葉に出したのだろう。バレバレだ。少なくとも天香には。
「――天香が人前で、あんなに堂々とのろけてくれたのが」
「……いや、あれは――」
顔を赤らめて反論しかける。瑛さまは平然とこちらの顔を赤らめさせてくる。不公平だ。
――と、そこで、どこかから声が聞こえた。
何かを言い合う声。あまり遠くはない。しかし殿舎の中ではない。
案内役の付いていた李妃の侍女も何事かと首をかしげている。
それは気のせいか、入り口のほうから聞こえてくるような気がする。
天香と麗瑛は視線を交わすと、そちらのほうへ歩を進めた。といっても、元から帰るのと同じ方向なのだけれども。
果たして予想通りというか、栄寧殿の表側、門の外側に人が溜まっていた。その内側から声が聞こえてくる。
その光景に天香はとても既視感を覚えつつ、二人は門柱の一つに隠れるようにして様子を窺う。
「もう一度言ってごらんなさい。わたくしが何をするというの!?」
その声は、ついさっき李妃を見ていて思い出したその当人、洪妃こと洪昭華――昭華と呼んで構わないと彼女が言ったのだ――のものだった。




