八十、 お見舞い
李妃が病を得たのは、月が変わる十日ほど前だった。
病といってもちょっと体調を崩した程度で、騒ぎ立てるほどのものでもないという。
とはいえ二人しかいない妃のうちの一方が伏せったとなると。
「お見舞いに行かなくちゃいけないわね」
麗瑛の提案を受けて、二人は李妃の住まう栄寧殿へと足を向けた。もちろん見舞うことを知らせた先触れを出している。軒先で侍女の出迎えを受けて殿舎の中へと入る。
天香は栄寧殿に入るのは実は初めてだった。
というよりも李妃と直接言葉を交わすのも、改めて思えばほとんど初めてに近い。茶会のときは麗瑛の侍女扱いだったし、披露宴では祝いの言葉をかけられたのだが、天香の緊張を見てほとんど麗瑛がやりとりをしていた。洪妃とは何度も直接喋っているのだけれど。
だから天香は、今日も少し緊張している。
栄寧殿は天香たちが暮らす蓮泉殿よりも一回り――もしくはそれ以上――大きい。その分部屋も多く、一つ一つも大きい。その各室を飾る調度は材質も装飾も明らかに手が込んでいて、相当の財でもって用意されたのだろうとわかる。大貴族かつ大臣家の財力を考えれば当然というところだろうが、天香には少し落ち着かない。
やがて侍女がやって来て、李妃の臥室に招き入れられた。
「両殿下にはわざわざお運びいただきまして、まことに申し訳なく……このようなかたちにて、相すみませんが」
「お気になさらないで、李妃さま」
似たようなやり取りを海嬪とも交わしたような気がする。
そんな定型のやり取りのあとで、天香と麗瑛は寝台の横あたりに置かれた椅子に腰を下ろした。
さっきのとはまた別の侍女が冷茶を運んでくる。その茶杯も白磁の上物だった。味については……いや、比べるのは相手が悪いだろう。
寝台の上で半身を起こしたままの格好で二人を迎えた李妃こと李香陽は、確かに大病人には見えなかった。頬もふっくらとして血色も悪くはない。パッチリとした目じりの下がり気味の瞳は熱のためか少しうるみ気味で、それがむしろ艶っぽい。もともと整った顔かたちが、薄く頬紅を差したようになっていた。
ふわりと空気を含む髪を寝台の背に流して、李妃のほうから口を開いた。
「こうして改めてお話するのは初めてになりますね……妃殿下?」
「あ、はい、その、披露宴の節は、無作法なことをいたしまして」
「ええ……それはいいのです。お手紙のお返事も頂きましたしね。けれどもこのような体調では、妃殿下にお茶を頂くことはできなさそうです。せっかくお誘いいただきましたのに」
「いえいえいえ、本当にその、お気になさらずにと言いますか、お大事になさってくださいといいましょうか……」
返事の手紙はもちろん光絢が代筆したものだ。その中で、天香は李妃をお茶に誘った。
それは天香が自分から言い出したものだった。天香と麗瑛の仕事である後宮の差配のために、妃嬪一人ひとりと言葉を交わしたかったのだ。
とはいえここでその返事が来ると思っていなかった天香は慌てて言葉に詰まりかける。
そんな醜態を見かねてか、麗瑛が話題の向きを変えた。その助け舟に天香はほっとする。
「それはまた重陽の節句の折か、そのあとにでも改めて席を設けましょう。……それより、ご病気と聞いて心配しましたけれど、あまり悪いというわけではなさそうで安心しました」
「ええ。太医どのの見立てでは、暑さで腑の気が乱れたのであろうと。妾もただの傷風と思っていましたし」
李妃はわずかに困ったような顔で微笑む。
その声は落ち着いていてかすれたりやつれたりはない。彼女の言うとおり傷風、つまり夏風邪ならば、ゆっくり寝ていれば大事にはならないと思う。
重陽節まではまだ間があるから、十分に間に合うだろう。
ちなみに太医とは、医局の中でも皇族と妃嬪を直接診察する上級の職である。
「いいえ! 李妃さまは大事なお体なのですから、いかに太医の見立てとは言え無理は禁物です! ――それに、大きな声では言えませんが、わたくしの姉は風邪と思っていたらその、ややこの兆しだったことがございます」
困ったような顔をする理由は間違いなくこの人だよな、と天香は思い、その言葉の主を見る。
天香たちとは逆側の枕頭に侍っていたのは、あの茶会のときも李妃のかたわらをひと時も離れず、最後の挨拶にも同席していた寧嬪だった。
言葉の後半はわざとらしく声を潜めているが、もちろんその実は真逆、この体調不良がまるで本当は赤子の兆し――いわゆる悪阻だと声高に言い放ちたくてたまらないのだろうと、天香にさえありありと透けて見える。いや、そもそも元から隠そうともしていない。
傷風と思っていたら悪阻だったという例ならば、天香も直接見たことはないまでも知っている。とはいえ医者も李妃本人さえも否定しているというのに、勝手にそんな可能性とやらを振りまこうとする寧嬪の言動に眉をしかめざるをえない。この様子では他で何と言っているやら。
「ですからわたくしたちとしては、李妃さまにはしっかりとお体をお休め頂いて――」
「ええそうね寧嬪、わたしたちもそんなに長居するつもりはないわ。けれどせっかくここまで参ったのですもの、もう少しくらいお話してもいいわよね? ねえ寧嬪?」
言葉を途中で遮られた上に二度も名を呼ばれて、そこでやっと寧嬪は、自分の態度が公主の機嫌を損ねかねないと――実際にはもうじゅうぶんに損ねているのだが――気づいたらしかった。口を閉じてわずかに後ずさる。
そんな寧嬪にはもう目も向けず、麗瑛は李妃に向き直る。
足りないものはないか、必要なもの、欲しいものはないかとあれこれ聞いていく。天香にも話を振りながら。
その間も、麗瑛の威迫をうけて口を閉じた寧嬪は、退出せずにまだ李妃の枕頭にたたずんでいた。
きっと口元を引き結んだ顔には、反省のような表情は見えない。
(――本当にこの人、侍女なんだかどうかわからないな)
天香はこっそりとそんなことを思った。
李妃自身の侍女もそこに控えている。茶会のときと同じだ。しかし寧嬪の振る舞いはまるで本職の彼女以上に侍女のようにどうしても思えてしまう。
自分も妃嬪のひとりなのを忘れているのではないかとすら思えるくらいだ。
「本当に――」
ふと、何かに気づいたように李妃が声を上げた。
その瞳が自分と麗瑛の間の辺りを見つめていることに天香は気づいて、その先を追う。
「おふたりは仲がよろしいのですね」
その視線は、天香と麗瑛が繋いでいた手に注がれていた。
指の一本一本が絡み合い、しっかりと握られている。
顔面にいつものとおり朱が走る。いつからだ。天香は自問する。
栄寧殿に入るときは繋いでいなかったはず。では廊を歩いているときは? この部屋に入るときは? それとも、喋っている最中?
全くもって何一つ意識していないうちに手指を絡めてしまい、または麗瑛の側から絡められているのに気づかず、平然と受け答えをしていたのか。ついでに寧嬪の評なんかしてみたりして。なんだそれ恥ずかしいやつだな。天香は混乱している。
仲を冷やかされることも含めて、なかなか耐性がついてくれない。でも慣れてしまうのもそれはそれで恐ろしい気がする。
考えがあちらこちらに飛んだまま、赤面のままで固まってしまった天香の手を、そっとぬくもりが包んだ。
もちろんそれは麗瑛の手だ。
「もちろん。わたしの愛しい愛しい天香ですもの」
何恥じることなどあるかと言わんばかりに天香の手を擦りながら、麗瑛は手だけでなく体ごと天香に寄りかかる。
そして天香も、おずおずと彼女のほうに体をわずかに寄せた。
もちろん人前でこんなふうに振る舞うのは麗瑛ほどには得意ではないけれど、今はそれが必要なのだと感じたし、麗瑛もそう考えたのだと思った。
(――いや、瑛さまはただ見せ付けたかっただけかもしれないけど)
照れ隠し、かもしれない。
まあ、照れているのは自分も同じだし。
「な……何か?」
しかし、李妃の反応はあまり大きなものではなかった。
どこかぼんやりとして、もっと言えばそう、不思議なものを見るような顔をして。
ぎこちない問いかけに、その表情のまま李妃は答える。
「いえ、その……ふしぎだな、と思って」
「不思議……?」
「李妃さまはわたしたちの仲睦まじさが不思議なのですって」
「いや、そうじゃないと思いますけど」
麗瑛の叩いた、あまり上手くない(と天香は思った)軽口。
しかし李妃はその軽口にはっきりと肯く。
天香は、そして麗瑛も、李妃のその反応に一瞬戸惑ってしまう。
気を取り直してからも、首を傾げてみせることしかできない。
口を開いたらなんだか間抜けな声が漏れてしまいそうだった。
そんな二人をよそに、李妃は口を開く。
「女同士のめおとというものはいったい、どうしてそうなったのですか?」
「どうして……?」
天香は鸚鵡返しに繰り返す。それから麗瑛と顔を見合わせる。
どうしてと言われても、説明に困る。
もちろん理由もあれば経緯もある。けれど、それをどこまで、どのように言うのがいいのか。
二人の戸惑い困惑をどう見たのかはわからないけれども、本当に、ただ不思議そうな表情で、彼女は続けて尋ねた。
「殿方とはご結婚なさらないのですか?」
と。




