七十八、 隠された公主
事件が起きたのは、青元の即位の直前だった。
たまたま侍女たちが出払って誰もいなかったそのとき、あるいはそれを見計らってか、ともかくその合間に瓏音公主は乱暴され、辱められたのだという。
目撃者は、もちろん公主本人を除いて、皆無。
その瓏音も心を病んで、あのとおり一声も発せない状態になってしまった。
「わたくし達が悪かったのでございます。あの日ひめさま――瓏音さまをお一人になどしなければよかった。たとえ何と言われても、誰か一人でもお側についていれば。何度もそう悔いております」
侍女が声を引き絞りながら言った。彼女は当時から筆頭格だったと名乗った。
帝の代替わりとなれば、儀式や行事、宴などが連日連夜行われる。
常にも増して人の出入りは多くなるし、準備も進行も後始末にも大わらわになる。
当然人手が必要になり、瓏音付きの侍女たちすら他の部署から助けを求められた。
もちろん最低限の人員を残そうとしたのだが、公主自身がそれを断ったのだ、と彼女は言った。
今日このあとは、特に侍女の手を煩わせるようなことは残っていないから、と。
「常日頃より、ひめさまは控えめに慎ましくお過ごしでいらっしゃいました。ご自分のことは出来る限りご自分でと仰せになっておいでで」
だからその時も、最終的には押し切られるような形で侍女たちは側を離れてしまった。
宴の手伝いが終わり、夜更けというよりも明け方に近い刻限になってやっと帰ってきた彼女が、一番に異変に気づいたのだと。
沈黙した彼女に代わり、麗瑛が口を開く。
「そしてお姉さまの心は深く傷ついてしまった。わたしや侍女の声にはわずかに反応を示してくださるときもあるのだけれど、お兄さまや兄上の声には全然。それどころか、姿も見えているのかどうか」
「もしかして、襲ったのと同じ、男性だから……?」
「わからないわ。医官が言うには、魂魄の動きは複雑でとても解き明かせるものではないのですって」
切なさげに、麗瑛は言う。
温かく触れ合った人、姉と慕った人がああなってしまうのは、ひと言で言って辛い。
それでも麗瑛や柳宗は折を見ては定期的に足を運んで見舞っている。姉の、そして恋人の回復を信じて。
けれど、天香はそこでひとつの疑問に行きつく。
「ですが瑛さま。あのように牀上を離れられないのでいらっしゃるなら、こんなふうにその――」
「離宮などに封じておくことはない、と仰りたいのですか、白妃殿下?」
礼を失するかと天香がわずかに言いよどんだ内容を、柳宗が的確に表現する。
口も聞けず、寝台を離れられないのであれば、後宮の一隅の離れでも状況はさして変わらない。と思う。ここまで厳重に姿を、その存在を隠さなければいけないほどなのか。
「確かに、見方を変えれば閉じ込めているように見えるかもしれない。けれど」
「ひめさまは、立ち歩くことが出来ないというわけではないのです。……時にはお部屋を抜け出されることもございまして」
「それに何よりも、私が望まない。あんなふうになっている彼女を、他人の耳目に、好奇に晒したくはないのです。宮雀のさえずりに通じていらっしゃる妃殿下には、お分かりいただけると思うのですが」
柳宗の言葉にも一理はある。
彼に促されて発言した元・筆頭侍女(いや正確には今も、だけれど)は言葉を濁したが、つまり徘徊するのだ。その状態で後宮の人目に付いてしまい、その上あれこれと根だか葉だかも不詳なまま噂されるのは、彼女を想う柳宗には耐え難いのだろう。
侍女の低い声色を聞いて、天香は思い至った。
「もしかして――あちらの門の先あたりで騒いでいた侍女や女官を追い払ったことがありませんか? こう、もっと低い声で……そう、まるで幽霊のような振りで」
幽霊騒ぎのとき、雨華舎の侍女のひとりが言っていた。
いや彼女だけではない。英彩だって噂の中身をこう言っていた。
――立ち去れという声を聞いた。と。
しかし丹慧はそちらについては否定したままで、むしろ彼女に幽霊が口を聞くなんていう発想はなくて、だからそれはもしかして本物の幽霊の声では……なんて盛り上がったけれど。
「……わたくし達の務めは、ひめさまの暮らしを穏やかなままお守りすることです」
ぽつりと彼女は言った。
それは、肯定だった。
できるだけ寄り付く人がいないほうがよい。だから、粗忽な侍女が自分勝手に流した噂を利用した。この場所、禁足地の中には祖霊を祀った祠があるという話も、それには好都合だったかもしれない。
天香は重ねて気づく。
「じゃあ、瑛さまがあのとき幽霊話に首を突っ込んだのも、瓏音さまのためですか?」
幽霊が怖かったはずの麗瑛が、一転して幽霊の話に興味を示したのはいつだったか。
それは――幽霊が出る場所を聞いた後ではなかったか。
歩けないわけではない。庭に出ることもある。けれど言葉は通じない。
薄い色の短衣は、暗がりで見ればあの目撃談のような、白い人影に見えるのではないか。
ふらふらと徘徊していた瓏音を、幽霊と見間違えたのではないか。あるいはそうでなくても、それであの場所が注目されては秘密が漏れてしまうのでは。
「――そう思っ、われたから、あのとき幽霊を調べるのに乗り気だったんですね」
そして実際に立ってみて、違うと気づいた。だからその後は露骨にやる気をなくした。
「よくわかったわね。さすが天香」
「瑛さまほどじゃありません」
そう考えれば、丁夫人が麗瑛が首を突っ込むのに一言も言わなかったわけもわかる。
古株中の古株である丁夫人が、瓏音の一件を知らないとは思えない。そのまわりで得体の知れない幽霊が出て、それを調べると公主が言う。公主と同じような疑いを抱いていたであろう丁夫人は、しかし自分が動いては逆に耳目を引いてしまう。逆に秘密を保てなくなる。そう考えて。
麗瑛の行動を黙って見ていた。
もちろん後宮の差配を執るのが長公主の仕事のひとつということもあるけれど、なによりも、『幽霊話に興味を持った公主が自侭に勝手に調べる』ことにすれば、それは『後宮の公式な調査』ではないから。
そう、だからこそ――。
「それでも私はやっぱり、事前にそうと教えていただきたかったです」
天香はぽつりと言葉をこぼした。
正式に妃としてお披露目をした後だから、これを知ることが出来た。
お披露目をしたから、皇族の一員だと認められたのだ。
もちろん頭ではわかっている。わかっているけれど。
「申し訳ないと思います、白妃殿下。けれど、私も侍女たちも、まずは彼女のことだけを考えてしまうのです」
「……いえ、湘王殿下や侍女の皆さんをどうこうと言うつもりでは。どちらかといえばその、こちら側の公主さまのほうが悪いっていうか、そう言いたいので――」
「なんですって」
「いひゃいでひゅ」
ぐにぐに、と頬をつままれる。
「本当にあなたたちは仲睦まじくていらっしゃる。……少し目の毒かもしれませんね」
「す、すみません」
目をやや伏せがちに、柳宗が言う。
天香はあわあわとなる。言葉が、それから腰の下あたりが落ち着かない。
「そうやってすぐ顔を赤らめられるところなど、じつに可憐でいらっしゃる」
「兄上、天香をからかいになるのはおやめください。こんな話の流れでは天香も笑えないです」
「からかわれた……んですか」
「からかわれたのよ」
からかわれたらしい。いったいどこからが。
頬の熱を冷まそうと冷茶を口に含み、そこで引っ掛かりを覚えて、天香は呟く。
「そういえば――侍衛、侍衛はどうしたんです?」
「侍衛?」
「先ほどの、その、事件当夜のお話です」
侍女はいなくとも、不寝番の侍衛が要所に立っているし、見回りだってあるはずだ。その目を盗んで公主の住む殿舎に忍び入るなんて、果たして出来るのだろうか。
そのときふっと影が落ちた。陽射しを翳らせた雲はすぐ流れて明るさが戻る。
――その一瞬、一瞬だけ、柳宗の秀麗な顔が、歪んだように思えた。
しかし天香が慌てて見直したときには、そんなものはない。
それは表情が大きく変わったというよりは、剣呑な圧力とでも言うか。武技に精通している、例えば燕圭や李妃なら上手く表現できたのかもしれない。
「聡いかただ。本当に、麗瑛殿下はよい嫁御を貰われたものです」
「お、お戯れを」
変わらない口調にからかいの延長かと思ってみれば、続けざまにさらりと返され。
「本心ですよ。……簡単な話です。もとから、公主の平英舎に配されていた侍衛は少なく、質もあまり……ね」
「ちょっと待ってください。侍女も侍衛も最低限、いえそれ以下って、それじゃあまるで、まるで――」
いくら本人の意志があったにしても、一国の公主の扱われ方にしては、それはあまりにもぞんざいで。
冷遇、除け者、あるいは放置。それに近い有様なのではないか。
「そう。なぜなら、お姉さまは罪人の子だったから」
「罪人……?」
天香の疑念を読み取ってか、麗瑛が答える。いつもこんな風に見抜かれるのは自分がわかりやすいのか、それとも麗瑛の見通す力が強いのか。天香は悩むけれども答えは出ない。
「お姉さまの母親はね、国帝陛下――お兄さまじゃなくて当時の陛下、つまりわたし達の父親だけれど――を呪ったとか、毒を盛ったとか……とにかく害そうとしたとされてね」
「された、ということは」
「どうかしら。もう真実なんて誰にもわからないわ」
端的な言葉。けれどそれだけでも十二分。
つまり、瓏音の母親もまた、後宮の中での争いに負けたのだ。麗瑛と青元の母と同じように。
先帝の、特に末期の後宮は乱れた。
その争いの果てに起きたのが、例の『先の難』だったと言われている。
先帝本人にしても、公式には相次ぐ公子の死去を受けて心労で倒れたとされているが、酒品に仕込まれた毒に倒れたという噂も根強い。
そんな間隙を縫って即位した青元は、そういう経緯のために、今では彼は後宮に関心を払わない――麗瑛のこと以外には。
きゅう、と天香の胸の中のどこかが痛んだ。
「でも、それでは、瓏音さまは族誅となるのでは」
帝への大逆は未遂でも死罪、その罪は本人だけでなく親子兄弟に及ぶ。これを三族誅と呼ぶ。内容によってはさらに他の一族に及ぶ場合もある。
「お母上は、ご自分の罪をすべて認める代わりに、娘の命は永らえさせてくれと懇願したという話よ。そしてお姉さまは生かされた。後宮の片隅で、慎ましく生きることだけを許されて」
少しだけ荒げた声を落ち着かせるように、麗瑛はそこで一度息を吐く。
ここに来たときから気になっていたもう一つ。侍女たちが年かさのものしかいないのも、同じ理由だろう。
「お姉さまが、わたしやお兄さまに良くしてくださったのはそれも一因、だったのでしょうね」
同じく後宮の争いで母を失ったもの同士だから。
けれどそんな境遇でも、瓏音公主が周囲への気遣いを忘れない、あたたかでやわらかな女性へと成長したのは、あるいは奇跡に近いものだったのかもしれない。
それを踏みにじったのが件の不埒者、否、凶行者だ。
麗瑛や青元、それに何より柳宗の無念はどれほどか。
数年が経った今なお、凶行をなした者の手がかりはない。影さえつかめない。
座に沈黙が降りた。ふわりと熱を含んだ風が、房室の空気を揺らす。
茶杯の外側を雫がひとつ、ついっと流れた。
「ここから先は、あくまでも私一人の胸の内のみにあることだと、割り切っていただきたいのですが」
ややあってから、柳宗が口を開いて切り出した。




