七十六、 結婚祝い
一行は蓮泉殿の応接間に場所を移した。
やがて則耀が冷茶を持ってやって来て、三人の前に置く。
「ああ、ありがとう。嬉しいね、貴女の淹れるお茶は後宮でも随一だと評判ですから」
「……どうも」
いつでも冷静な態度を崩さない則耀にしては珍しく、反応が少し遅れた。部屋を出て行く足取りが少し軽やかに思えるくらいには。
ああ、こういうところも女官たちからの人気の高さの理由なのかな。と天香は考える。
どうもこの湘王殿下に対して、なんとなくいじわるな見方をしてしまう。どうしてかは自分でもわからない。
冷茶を口に運ぶ。すっとした冷たさが、喉を滑り落ちていった。
「それで兄上、お祝いの品とは何を持っていらしたの?」
待ちきれないように麗瑛が訊ねた。
そういう言い方は、何か催促しているようで天香としては気が引ける。
だが柳宗はあまり気にした様子もなく穏やかに微笑みながら、手にした箱をことり、と卓の上に置いた。黒く艶のある漆塗りに蒔絵で梅と躑躅の花が浮かび上がっている。箱だけでも手が掛かっているのがわかる。
そっと蓋を取って中を覗き込んで、天香はあっと声を漏らした。
中に入っていたのは、一揃いの書道具だった。硯箱だったのだ。
文房四宝と呼ばれるもののうち紙以外の硯、墨と筆。それから書をするのに必要な小物、筆筒に筆置き、水注に文鎮、墨置きも。
ただの書道具ではない。いずれも一目見ただけでわかるような一級の品だ。
たとえば硯は艶さえ見える見事な緑石。硯の材料にもいくつも種類がある中で緑石は上級に数えられる。筆置き、墨置き、水注は鮮やかな彩陶で、ゆるく線が波打つような意匠で揃えられている。ずしりと重い細長い文鎮の背には線の細やかな鳳凰紋が刻まれている。そのほかのものも、みな手が掛かっていることが見て取れた。
「こんな――立派なものを?」
天香は恐る恐る柳宗に訊ねた。その声が少し震えてしまう。
「麗瑛殿下に聞きました。白妃殿下は私の手蹟を手本に書を練習していたそうですね。殿下が昔、私の手蹟をねだったことがありましたが、それを贈った相手があなただったと。その頃から想いあっておられたというわけだ」
「あ、いえ、まあ……はい」
ああいけないと天香は思う。奥歯に物の挟まったような物言いになってしまった。どの頃から想いあっていたかはもう定かではない。ずっと大切な人だったし、これからもそうだ。
「驚かれ……ましたか?」
「結婚のことですか? それはまあ、驚かないほうが難しいでしょうね」
さらりと言われてしまい、うっと言葉に詰まる。
「宗室に生まれた姫君、公主なれば、いずれはどこかに嫁ぐものと覚悟はしていましたから。私だけではありませんよ、青だってそうです。それが、いざその年頃になってみると妃を娶りたいと言い出した、と。……しかし青も青だ。それを私にも明かさないで、ただ宴を開くというんです。相手は誰なのかと訊ねてもその場に呼ぶの一点張りでね。それで実際に出てきたあなたたちを見て、そりゃあ驚きますとも」
「それはええと、なんと言いますか……」
訊ねたはいいけれど、どう反応していいかわからず天香はしどろもどろになる。
驚かせてすみません、というのも何か違う気がするし。
「いえいえ。そういうわけで、驚いたのは事実だとだけ言いたかっただけです。ああそうそう、さっきのあの蔡王にはからかわれるしね」
「からかわれた……?」
「殿下に不相応な男だったなら、宴のその場で異議の声を上げてやろうと思っていたのです。青、いや陛下に、この婚姻を再考しろと詰め寄ってやるつもりでいました。――まあ、そうはできなかったわけですが」
柳宗はいたずらっぽく笑ってみせる。どこまで本心だったのかはわからないけれど、少なくとも麗瑛の望まぬ結婚を阻止してやろうという人がここにもいたようだ。もちろん第一はこの国の帝なのだけれども。
そのからかわれていたのが、天香が見たときの姿だったらしい。
柳宗は言葉を続ける。
「気を取り直して、結婚となれば祝いの品を選ばなくてはいけないと思ってそこではたと悩みました。麗瑛殿下に贈るだけならまだわかるのですが、お相手には何を贈ったらいいのか、とね。それで、どのような人なのかと殿下本人に問うたのです」
「それで、書の練習の話を?」
「仕方ないじゃない。そういう流れになったのですもの」
少しだけ恥ずかしげに、麗瑛が弁明した。
「女人への贈り物となれば、事前に調べをつけるのは当然の礼儀ですよ」
気負いもなくそう言われると相槌を打つしかできず、天香はもごもごと言う。
「とはいえ、こんなに良いものを頂いてしまって……何か悪いというか」
「あなたの控えめなところはよいことだけれど、お祝いの気持ちをそういう風に言うのは逆に失礼よ、天香?」
そっと麗瑛にたしなめられてしまう。けれども天香にしてみればこんな高級品をどう扱っていいのかと腰が引けているのだ。町育ちの貧乏性と笑わば笑え、くらいの心持ち。
「悪いことはないし、気負われることもないのです。貴女は公主に――帝の一族に嫁いでいらしたのですから。もちろん値が張るばかりのものを使えとは言わないが、質の良くないものを使うのも、それはそれでよろしい事ではない、と理解していただきたい」
高価なものだから使うのではなく、質の良いものだから使いなさい、と。
それを聞いて、天香は凉亭の一件を思い出した。結局、無駄遣いではなくなるようにするのが重要なのだ。市中風に言えば、ただ安いからとがらくた市で古い茶碗を買っても、使わなければまったくの無駄だろう。
考え込んでしまった天香を見て、柳宗はひとつ軽く笑って言う。
「それに、質の良いもので練習したほうが上達も早いものなのですよ。不思議なことにね」
「そう……なのですか?」
「もちろん、真面目に練習すればという前提はつきますけれどね。形だけ真似ても心が入っていなければ上達も何もないし、それこそ無駄になってしまいましょう。私の手蹟を手本に練習されていたのなら、いわば私はあなたの師ということになる。……まあ、私とてそこまでの達人というほどでもないので、自分でそう言ってしまうのも少し面はゆいのですが」
照れくさそうに笑って、柳宗はさらに続ける。
「けれど、そんなかりそめの師でも、弟子には少しでも上達して欲しい。そのために少しでも良いものを使って欲しいと思ったわけです。もちろん、後宮であまり粗略なものを用いるというわけにもいかないでしょう」
天香は穴があったら入りたい思いに駆られる。手本の件など自分でも忘れかけていたほどだったのだから。
ふうと一息ついて、柳宗は外に目をやりながらぽろりとこぼした。
「そう――物だけでなく人も選ばなくてはいけませんし」
「もしかしてこちらの侍女が、何か……?」
「あっいえ、蓮泉殿のことではないのです。申し訳ない」
どきりとした天香が問いかけると、本当にふと出てしまった言葉だったのだろう、柳宗は慌ててそれを打ち消した。
ああ、と麗瑛が思いついたふうに言った。
「兄上、またどこかの女官か侍女から恋文でも届いたのでしょう」
「えっ」
「湘の兄上はこのとおり美男でいらっしゃるでしょう? たまにあるのよ、付け文がね」
「それは……なんというか、大胆な……」
やってはいけないという法があるわけではないけれど、しかし相手は諸王の位にある人間だ。そこに自分から恋文を送るのはやはり大胆で、真似はできると思えない。
同じ王でも蔡王のように女人と戯れたがる人もいるわけだけれど。
そしてそれを嘆くということは、彼は恋文が送られてくることを良いこととも喜ばしいこととも思っていないのだろう。
「殿下にそう言われるのは嬉しいけれども、同じことを顔も知らない誰かに一方的に言われてもそうは思えないのでね。率直に言ってしまえばそう、少し迷惑でもあるかな」
ため息混じりに柳宗は言う。わからなくはない。一方的に岡惚れされてこじれた果てのあれやこれや、なんていうのは物語の中でも、困ったことにそこらの街中でも聞く話だ。ましてこれだけの内外の器量の持ち主ならばなおさらのことだろう。
それを美形ならではの悩みだと切って捨てることは、あまりしたくなかった。
「でも、なんというか、新鮮な感じです」
「新鮮?」
「この話の流れでは怒られてしまうかもしれませんけれど、湘王殿下のような方でもその、そういうことを気にされておいでなんだなっていうか」
天香はそう思う。
常人離れして美しい――と言っていいひとの考えていることなどなにかとても計り知れないような高尚なものではないか、となんとなく思ってしまう。そうであって欲しいしそうでなくては幻滅だ、などという人さえいる。さすがに天香はそこまでは思ったことはないけれど、実際にそういうものを目の当たりにするのは新鮮だった。
「それで新鮮? ……あなたは面白いことを言うのですね。でも残念ながら私はただの人ですよ。笑いも喜びもすれば、悩みも苦しみもする」
「あ、いえ、そんなつもりで言ったわけでは」
「白妃殿下のおっしゃりたいことはわかりますよ。似たようなことを言われたこともあります。青にも、『お前は落ち着きすぎていてつまらない』なんてね。私は自分がそんなに落ち着き払っているとは思っていないし、もっと言えばそこまで女性に持てはやされるほどの人間でもないと思っているのですが」
そう言って軽く苦笑する。
苦心の混じったその顔は、天香さえ不覚にもどきりとするほどに美しく見えた。
浮き足立って、天香は。
「でも、湘王殿下もいずれはそのー、御結婚、されるのですよね?」
「天香」
「?」
そう訊ねた瞬間、麗瑛が身を少し強張らせて天香の名を呼んだ。
もしかして、してはいけない質問だったのだろうか。湘王の気を悪くさせてしまうような。
もしそうなら、いや麗瑛がこんな反応を見せたのだからたぶんそういうことなのだろう。だったら先に謝ったほうがいいんじゃないだろうか、そう思って口を開きかけたとき。
柳宗がわずかに身をずらして、居住まいを正して言った。その声はむしろさらりと乾いていた。
「そう。実は今日こちらに来た理由は、結婚のお祝いだけではないのです」
「と仰いますと?」
「公主の正式な妃となった貴女に、教えておかなければいけないことがあります。それを伝えに来ました」
はっ、と息を呑む音が、隣から聞こえた。
そして麗瑛は身を乗り出すようにして言う。
「でもっ、それは、まだ早いわ! 話の流れがこうなってしまったからってそんな――」
「違うよ公主殿下。話の流れなど関係ない。言ったでしょう、ここに来たもうひとつの理由だと。それに、早いと言うことはないよ。知るのが今でも変わりはしない。どうせ先々知ることになるのだからね」
落ち着いて話す柳宗に、喰い下がる麗瑛。
「天香に心の準備だってさせてあげたいし、それにお兄さまにも許可を取らなくては」
「私が、青の許しもなくこんなことを口にすると思うかい?」
「……ずるいわ。お兄さまたちはずるい」
柳宗の宣告に、麗瑛は背中を長椅子に寄りかからせて、かくりと首をうなだれてぽつりと言った。
麗瑛のしなやかな黒髪が、はらりと首筋から頬を流れて落ちる。
事態についていけない天香は目を白黒させて麗瑛と柳宗を交互に見る。
それに対して柳宗は腰を浮かせながら口を開いた。
「では、行きましょうか」
「ど――どこに?」
「『秘密の場所』ですよ」
柳宗の整った顔を見上げながら、天香は知らず知らずのうちに、つばをごくりと飲み込んでいた。




