七十五、 不良中年あらわる
晴れてはいても、暑くてぐったりとしてしまうというほどではないある日の昼下がりのこと。
夏の終わりが近づいていることを感じさせる乾いた風を心地よく感じながら、後宮の一角を天香と麗瑛が連れ立って歩いていると、どこからかきゃあきゃあと騒ぐ声が聞こえてきた。
その声に二人で視線を交わす。
女官にしろ侍女にしろふざけて戯れあうくらいのことは珍しくはない。けれどもその声の中には明らかに男の笑い声があったからだ。
青元の声ではない。そもそもあの義兄は女たちと戯れるようなことはしない。
庭師や例の近衛のように、後宮の中に勤める男の官人がいないわけではない、が。
ちなみに天香たちは二人きりではなくて、一歩控えて侍女たちが日傘を差しかけていた。それも一人に一つずつ。
麗瑛がその侍女のどちらかに様子を見てこさせようと口を開きかけた――英彩あたりなら言うより前に飛び出していそうだけれど、あいにく今付いている侍女は違ったので――ちょうどその時、少し離れた建物の角から女官が一人飛び出してきた。
裳裾を翻したその女官の楽しそうに崩れた顔から、天香たちを視界にとらえてさっと顔色が変わる。
公主とその妃だと彼女が見て取ったかどうかは定かではない。けれど日傘を差した侍女が付いている女など貴人に決まっている。相手が誰であれ、女官にしてみればまず頭を下げなくてはいけない相手である。
慌てたように拱手して頭を下げる女官の後ろから、砂利を踏んで影が現れた。
足を止めた女官を不思議そうに見てからやっと天香たちに気づくと、その影の持ち主の男は笑みを浮かべて。
「おお? これはこれは、そこにいるのは我が麗しの姪御殿ではないかあ」
天香が疑問符を浮かべる間もあらばこそ、その男は両腕を広げながらすたすたと大股で近寄ってくると、麗瑛の体を包み込むように抱き――。
「駄目です!」
体が勝手に動いていた。
広げて踏み込んだ両の手のひらに、どかっと何かが、いや間違いなくその男の体がぶつかる感触がした。
おわ、ともうわ、とも聞こえる悲鳴が上がって、ずしゃっと砂利の鳴る音がそれに続く。
「……そうやって、いつまでもわたしを見るたびに抱きつこうとしないほうがよろしいですわよ、おじさま? わたくしももう子供ではないんですから。人妻の身ですし」
「……良い嫁御を貰ったようじゃのう、公主殿下。ううっ」
麗瑛におじさまと呼ばれたその男は、突き飛ばされて砂利の上に倒れこんだ状態から、片手だけついて起き上がる。そして天香にもそれとわかるあからさまな、わざとらしい泣き真似をしてみせた。
恐縮するばかりの女官を男と麗瑛が下がらせて(あわせて他に騒ぎあっていた女官達にも解散を命じて)、こちらはこちらで仕切りなおしになった。
「それであの、瑛さま、こちらのかたは……?」
天香が訊ねると、麗瑛は軽々と言い切った。
「見てのとおりの女の敵よ」
「はっはっは、身に余る過分な称号をいただいて至福の極みだねえ」
とくに傷ついた様子もなく、柳宗とは違う向量に整った顔をへらへらとにやけさせたまま、彼は言う。
そのにやけ顔に天香は見覚えがあった。確かあの披露宴のとき。湘王こと柳宗の隣でやっぱりこんな顔をして、柳宗に何かちょっかいを出していた中年の男がこの人ではなかったか。では帝の一族――宗室の一員ということになる。つまりは麗瑛とも親戚だから、おじと呼ぶのもわからなくはない。
けれど、あまりそういう意味での威厳というか気魄は感じられない。歳は青元たちより二十近くは上だろうか。その年にしては体型は崩れていない。整った顔とあいまって洒脱な風体だ。
あごから下頬には無精ひげを蓄えているが、口や鼻の下はさっぱりと剃っている。無精というよりそう見えるように手を入れているのかもしれない。
目を引くのはざっくりと羽織った明るい緋、いや桃色に近い袖の短い背子とその下に見えるすみれ色の帯で、それらは仕立てといい花の図柄といい明らかに女物だった。
「――で、紹介はしてくれないのかい?」
「女の敵以外にですか?」
ばっさりと切り捨てる麗瑛。
「天香が深く付き合う必要のないひとだからその程度で結構です」
「いやはや、我が姪御殿はいつからこんなにつっけんどんになってしまったのやら。昔はおじさま~とか寄ってきてくれたと思うんだけどなあ」
「正確には姪じゃないのですけれど」
「細かいことは気にすんない。そもそもおじさまって最初に呼んできたのは君のほうじゃあなかったかな?」
「さあ、そんなことがあったかどうか」
「一度だけだって忘れないさ。麗しい貴女のことだからね」
きざな科白を恥ずかしげもなく吐いて、彼は片目をつぶってみせた。
もちろん天香にも麗瑛にもたいして効果はない。
「自己紹介がなさりたいのでしたら御自分でどうぞ」
「ホントつれないねえ。そのうえ手厳しい。ねえ?」
「はあ」
こちらに話を振られても、と天香は戸惑う。
飾りのない口調は動きは帝の一族というよりもむしろ城下の中年男だ。
はっきりしない反応に落胆した様子もなく、むしろ楽しんでいるように笑みを崩さず、一礼して彼は言った。
「お目にかかるのは披露宴以来、二度目になるかな。蔡王、江聞亮という。公主殿下とは……あー、従叔父だったかな」
「そのようなものです」
「ようなものだってさ。まあ、よろしくお願いするよ、公主妃殿下」
つまり麗瑛の父、先代の国帝の従弟ということだ。血筋だけなら柳宗よりも麗瑛に近い親類になる。
そんな身分の人物にしては慇懃に礼をされて、天香も頭を下げる。
「こ、こちらこそ。公主妃、白天香です。改めて、よろしくお願いいたします」
「……うんうん、初々しくていいねえ。新妻っていう響きがもうねえ」
「おじさま?」
半目になって麗瑛が蔡王――聞亮に圧力をかける。
「じょ、冗談だよ。……はい」
「……?」
はい、と手を差し出されて、天香は反応に困る。
ちらりと麗瑛のほうをうかがうと、麗瑛が何か反応を返す前に聞亮が言った。
「あれ? 握手だよ握手。ただの挨拶さ。仲良くしましょうって言うね」
「仲良くなさるおつもりなの?」
力をこめて麗瑛が睨む。
「いやだなあ長公主殿下。宗室の妃に手なんか出したら宮刑にされちゃうだろう?」
へらへらとした態度を崩さずに、聞亮が答える。
宮刑とはまあ、いろいろと有名だが、要するに去勢である。
「したほうが泣く女はいなくなるんじゃないかしら」
「自慢じゃあないが女性を泣かせたことはないんだなあ。あ、牀の中は別だけど」
「あまり品のない言葉をわたしの天香に聞かせないでくださる。お、じ、さ、ま?」
「自分たちだってやることはやってるんだろうに」
「何か仰って?」
「いいえ何も。……ところで、握手くらいしてもいいだろう? それとも妃殿下には男の手指の一つも触れてほしくはないかな?」
右手を差し出したままの姿勢で、冗談めかして聞亮は訊ねる。
天香はといえば麗瑛と聞亮のやり取りを、やや頬を赤らめながら、まるで置いてけぼりを食らったみたいに呆然と聞いていた。
さっきから見ていれば、聞亮という人は麗瑛がどんなにつっけんどんにしても堪えた様子がない。青元だったらもうちょっとわかりやすく落ち込むだろう。麗瑛の側があまり快く思っていないのはわかるが、対する聞亮はどう思っているのか、考えが読めないところがある。
ちなみに赤面は牀の中どうこうの前後の会話が原因だった。
初対面の人にあまり胸を張って言いたい話題でもない――それに先日のこともあるし。
「本音を言うならばそうです」
「瑛さま……」
大事に思ってくれているのは痛いほどわかるのだが。
「でも、そういうわけにもいかないのもわかっています」
「そうかそうか、じゃあまあ、お許しが出たところで改めて握手だ。――すまないね、どうも女人相手にはこんな口しか利けない無粋人らしいんだ。この僕はね」
「はあ」
「心の底から軽蔑するのならやらなくてもいいのよ」
「そういうわけにはいかないって、たった今言ったじゃないですか」
正式に妃としてお披露目したのだから、親戚付き合いもやらなくてはいけないだろう。
宗室となればまた違うのかもしれないが、少なくとも天香は当然のようにそう思った。
だから、手を差し出す。
そして――その手をぐいとひきつけるように握られた。
それだけではなくその手を撫でるようににぎにぎとされるのは、これは握手ではない。いや、『握って』はいるが。
「うんうん、殿下に飽いたら僕のところに来るといいよ。もうちょっと肉付きがいい方が好みなんだけどね。まあまだ成長するかもしれないしそこは不問かなあ」
そのままに口から出た彼の科白に、天香は言葉を失った。
「な、な、な……!?」
「おじさま!」
天香の顔に血が昇り、麗瑛が目を吊り上げる。
「いい加減になさらないと、お兄さまに言いつけますよ。前にも女官をからかいすぎて後宮出入り禁止になったでしょう! 追放処分になりかけたこともありましたね!? お忘れですか!」
「追放は土下座して許してもらったさあ」
相変わらずへらへらとした口調は崩さずに言う。
それはそうと。
(追放されかけたのは否定はしないんだ……)
ということは事実あったことなのだろう。
不良だ。不良中年だ。
それは麗瑛もつっけんどんに当たるわけである。
「懲りないなら仕方ない、わたしが自ら宮刑にして差し上げてもいいんですよいえそうしましょう今ここで! そのほうが世の女性のためにも――っ!」
「わあ、悪かった悪かった。勘弁してくれ。この通り! ちょっと、ちょっとだけ口が滑ったんだ! 悪気はなかった! すまん!」
「悪気はなかったですむなら警衛兵はいらないー!」
麗瑛は興奮してだんだんと物騒なことを口走り始める。
自分も怒るべきなのだとはわかってはいるが、いや十分怒っているし不快なのだが、それに何人分も先行して麗瑛が怒り狂っているので逆に少し冷静になってしまった。怒っているのが公主だから、侍女たちも強引に抑えに入れずにおろおろと視線を交わすばかり。自然と天香が逆に麗瑛を抑えるような位置に立ってしまう。
「――落ち着きなさい、麗瑛公主殿下」
そんな状態の中に、やんわりと割って入った声があった。
声の勢いは強くないが、染みとおるように深みのある声。
その方向を向いて、天香はその声の主の姿を見る。
「し、湘王殿下?」
「やあ、公主妃殿下」
にこりと微笑んで会釈したのは、男女の別を感じさせない美貌の持ち主だった。
その表情をわずかに険しく変化させ、麗瑛の肩に手をかけて、彼は聞亮に声を投げる。
「蔡王殿下もその辺になさったらいかがですか。うら若き女人二人をそんなふうにからかって何が面白いというのです。いい加減になさい」
年齢から言っても血統から言っても、こんな言動であってもいちおうは聞亮のほうが長者である。その長者に対する丁重な言葉遣いのままで、湘王柳宗は蔡王聞亮を叱責した。
「あらら、花も実もある貴公子の御登場だ。参ったね。こりゃあ退散退散っと」
言われた聞亮は、どこか芝居がかった動きで頭に手をやり、同じような口調でそうこぼす。
くるりときびすを返して何歩か歩みを進めたところで、一度足を止めてぽんと手をひとつ打つ。
そしてもう一度くるりと向き直り。
「ああっ、そうだ言い忘れてた。――公主殿下に公主妃殿下、御結婚おめでとう!」
ひらひらと手を振って小走りに視界から消える聞亮を、天香は呆気にとられたように見送った。麗瑛も毒気を抜かれたように同じように見送る――肩に置かれた柳宗の手がどれくらい効果を及ぼしたのか、天香にはわからない。
……正直に言えばあまりわかりたくもないけれど。
それはそれとして、柳宗とは違う意味で柳のようだと、蔡王というひとのことを天香は思った。しなやかというよりも、ゆらゆらとした掴みどころのなさというあたりが特にそう思う。鰻か泥鰌でもいいかもしれないけれど、生ではあまり触りたくない。
天香はそっと手を袖口で拭った。
「……ところで、湘の兄上はなぜここに?」
麗瑛が柳宗を見上げて言った。まだ鼻息はすこし荒いが落ち着いてきている。
武官でもないのにいきなり大声で怒鳴ればそうなる。
「会えてちょうど良かった。手紙を出す手間が省けたからね。――両殿下に、私からささやかながら結婚祝いをお持ちいたしました」
柳宗は穏やかな微笑を浮かべて、天香と麗瑛に一礼して見せながらそう言った。