七十四、 代筆
「鄭玉柚は、しばらく後宮に留めおくことになった」
朝餉の席で、青元が唐突にそう切り出した。
披露宴の二、三日ほど後のことだ。
「はい?」
「……お兄さま? それは妃として、というわけではないのですね?」
「当たり前だ、なぜあんな――。……いや、そういう話ではない」
語気を強めて反射的に返してから、気を取り直したように青元は言い繕う。
天香は麗瑛と顔を見合わせた。
「はっきり言っておくがな、余はそのようなこと認めるつもりはなかったのだ。いや今も認めるつもりはない。ない、のだが……」
「丸め込まれたと」
「いや違っ……そうとも取れるかもしれないが――余もよくわからんのだが……そういうことになった」
青元は言いにくそうに、奥歯に物の挟まったような言い方でもごもごと弁解する。
「とか言いつつ、空いている舎を一つ下げ渡したと聞いたのだけれど」
「安秀舎をな。……仕方ないだろう。『ところでわたくしは今日どこで寝ればいいんですか?』なんてしれっと聞かれてみろ、なんと答えればいいんだ。妃嬪の面々の目の前でだぞ」
「……何がしたいんでしょうね、あの人」
天香は疑問に思っていたことを漏らす。
「私たちの披露宴に狙い済ましたかのように現れて、段取りを壊して、そもそもどうやって披露宴のことを知ったのかもわかりませんけど――それに加えて今度は後宮に滞在するって、なんなんでしょう」
言ったところで、本人に聞かなければ答えなんて出ないだろうとはわかっていた。けれど天香と麗瑛は披露宴以来彼女には会っていない。聞きに行くというのもなんだか間抜けだし、素直に答えてくれるとも限らない。顔を合わせた青元なら何か知っているのではないか、と思って話を向けてみる。
「後宮というものを見てみたくて、とか言っていたぞ」
「露骨に誤魔化されてますね」
「最初はもっとひどいぞ、見物と言ったんだ。見世物ではないというに」
宴の間、天香たちが立ち去った後でのこと。
「で、そなたは結局なにをしにここに参ったのだ?」
そう訊ねた青元に、玉柚は答えた。
「結婚をお祝いに、と申し上げたではありませんか」
「本当にそうか? 祝いに来ただけか?」
重ねて訊ねる青元。
玉柚は心外だというような顔をして。
「お疑いになる? わたくしの言葉を?」
「ああ」
「そうですねえ、なんと申し上げればよいか……ああ見物、そう、見物に来ました」
少し間を置いて、良い言葉が見つかったと無邪気に微笑いながら玉柚は前言を翻してみせた。
逆に、その言葉を聞いた青元の返事には、新しい棘が生えていた。
「ほう見物。見物か。我が妹の結婚を、か? 余はこれでも妹の結婚を祝っていて幸あれかしと思っているのでな。――ただ興味本位に面白がりにきたというのなら、相応の覚悟をしてもらうぞ」
低く押さえつけるような声で青元は言う。侍女たちはおろか妃嬪の中にさえ、つい身をすくめてしまう人間が出たほどその声は地を這って響いた。
青元はその回想を手短に、台詞だけを思い出しながら妹達に聞かせた。
麗瑛がそれを引き取って言った。
「それで、わたし達ではなく後宮を、と返されたと」
「俺に――余に向かって平然と返してきたよ。それ以上はなにを考えているのかわからん。李妃とは昔、顔見知りだったようだが」
「旧交を温めに来たと言うわけではないようですね」
こちらは天香。
「温めるほどの旧交もあったかどうかな。御史室にも今、鄭家について探らせている。真意を問い詰めるのは、やるとしてもその報告を待ってからだ」
その言葉を聞いて、思いついたように麗瑛が言う。
「そうよ、その御実家……いえ、今は彼女がご当主なのだから彼女の家だけど、その鄭家は彼女が後宮にいることに何と言っているの?」
「いちおう使者を送っておいたが――主だったものと相談して返答いたします、とそれだけだ」
「好きにさせておこうってことなのかしら。こういうことに慣れているとか?」
「でも、めったに外に出ないことで有名な方だったのですよね?」
天香が発した問いに、ああ、と青元が頷いて。
「だからあれは逆だな。どうすればいいかわからない、途方にくれている、そういう感じだったという話だ」
やや合い間が開く。
そして天香が見ている前で、麗瑛はまたあの笑みを浮かべた。
ああ次の一言が想像できる。
「お兄さま。あの方――玉柚さんの件、わたしに任せてくださらない? 後宮に留め置くと言うことは、そういうことよね?」
「ああ。言われるまでもなく、お前達に任せるつもりだった。だからここで話に出したのだ。――頼むぞ」
「仰せのままに、陛下」
「お、仰せのままに」
麗瑛は微笑んで軽く頭を下げて、天香もそれに続いた。
* * *
「新しい仕事が増えましたね」
「仕方ないわ天香。これも後宮差配の一環でしょう」
「後宮の住人じゃない人の事情を調べるのも差配のうちに入るとは、あい知りませんでした」
「いいじゃないの。それにあのお兄さまの口ぶりなら、わたしが言わなくても向こうから仕事が来てたわよ」
「それはそうかもしれないですけど」
そんな会話を交わしつつ、ふたりは蓮泉殿の廊を歩いていた。
陽の光にきらりと庭院の水面がきらめいて、天香は少し目を細める。泉の蓮はやや盛りを過ぎて、数を減らした花が風に揺れていた。
「まあ、あなたにはそれより先にやらなきゃいけないお仕事があるけれどね?」
「それなんですけど」
部屋に入って、椅子に腰を下ろしながら天香は言う。
「本当に、代筆でいい……んでしょうか?」
「構わないわよ。どうせこの中のいくつかだって代筆でしょうから」
卓上の文箱の中身を指しながら、麗瑛はそう言って肩をすくめる。
先にやらなければいけない仕事。公主妃の仕事。
それは、この二、三日で届いた祝いの手紙に礼状を書くことだった。
送り主はあの披露宴に参加していた妃嬪たちだ。
公主妃になって天香の生活の中で一番変わったのは、名指しの手紙が届くようになったことだ。
もちろん白天香という人間がここにいることなど誰も知らなかったのだから、当然と言えば当然、なのだけれど。
さて、送られてきた手紙をそのまま放置するわけにもいかない。特に今届いているものに関しては、自分と麗瑛の結婚を祝うものなのだから、何らかの返事を出さなくてはいけない。
ここで問題になるのが――そう、天香の字の下手さだった。
もちろん練習は続けているが、それでもこうやって妃嬪の流麗な手蹟を見てしまうと、基礎というかなんというかそういうところから違っていることをひしひしと実感する。こういうものは積み重ねが重要で、それを怠っていた自分が悪いのだが。
そうして悩んでいた天香に、麗瑛はあっさりと言ったのだ。
――代筆してもらえばいいじゃないの、と。
麗瑛が言うには、侍女が妃嬪の手紙を代筆するのはごく普通のことらしい。かつては妃嬪同士が自分の侍女がいかに達筆で叙情的な書き手かで競い合ったこともあったという。そればかりか、そういった書に優れた侍女を取り合って引き抜き合戦に発展したことさえあるとかなんとか。
そういうものといわれれば、そう納得するしかない。
そして天香の代筆は、と言えば。
「お任せください! 私はお姉さまのお役に立てるのならとっても嬉しいんですから!」
隣にやって来た光絢が、とっても、のところを力いっぱい溜めるようにして胸を張って宣言する。
光絢の字は麗瑛も認めるほどに綺麗だし、代筆となれば信頼のおける人間でなくてはいけない。
彼女を選んだのは、ある意味で当然の成り行きだった。
力が入りすぎて当の本人がむせているのは御愛嬌ということにしよう。
「今のところは光絢に助けられているけれど、ゆくゆくは天香も書くんですからね」
「わ、わかって……ますよ? 大丈夫です」
なんとなく目を逸らしながら、天香は文面に目を落とす。
脳裏に浮かぶのは、自分たちを目の当たりにした妃嬪たちの反応。
さすがにあの宴の場でどうこうと言う人間はいなかった。けれど何人か、明らかに眉をひそめた人間がいたことも事実だ。もちろん、諸手を挙げて祝福されるとは思っていなかったし、想定の内ではあった。
けれど、少なくとも手紙の文面では、何かの隔意がありそうな書き方はされていない。それどころかこうやって、見たところでは全員から、お祝いの言葉が書き連ねられた手紙が送られてきている。
それが一方では安堵で、一方では不安でもあった。
その頬を、麗瑛の指がむにっと突いた。
「また不安そうな顔になってる」
「だって――」
感じていた不安を、天香は洗いざらい話した。
少し間を置いて、麗瑛はほっそりとした頤に手を当てて言う。
「お兄さまのおかげね。もしかしたら鄭姫も、かも」
「玉柚さん? どうして」
「お兄さまが鄭姫を叱った――というか、あの言い方だとどちらかといえば脅したんでしょう。あれで、少なくともあなたを悪しざまに言うことは自分たちに得にはならない、って後宮のかたがたも悟ったんじゃないかしら。……あの人がそこまで考えて、そう仕向けて持っていったのかどうかはわからないにしても、よ」
「つまりわざと怒らせたの……ですか? で、でも、相手は国帝陛下ですよ?」
「怒ったからと言って命まで取るような暴君じゃないわよ、お兄さまは」
「それはそうかもしれな……しれませんけど」
ますます彼女が何を考えているのかわからなくなって、天香は眉根を寄せる。麗瑛の想像が正しければ、祝福に来たという言葉は少なくとも嘘ではなかったのかもしれないが。
そうしていると、麗瑛に呆れた口調で訊ねられた。
「ところで天香、その変なところで言葉が途切れるのはなんなの? 気になるのだけど」
「いえ、その……何でもありませんっ」
口では否定するが、否定した瞬間にあの夜の麗瑛の言葉がよみがえってくる。あの言葉がどうしても心に引っかかっていて、つい言いよどんでしまったりしているのだった。
(畏まるな、押し倒せって、そんなこと本人に言えるはずないじゃない……)
赤面して、更にぶんぶんと頭を振って考えを打ち消す。
そんな天香を見て、光絢がぽつりと言った。
「お姉さまって、見ていて飽きないですよねえ」
「そうね。……まあ、そんな天香を私は子供のころからずーっと見続けているんだけれどね?」
「なんで自慢げに言うんですか。光絢もそんな露骨に悔しそうな顔しないで!」
「だって悔しいんですものおお」
このところ万事がこの調子なので、なんというか、疲れる天香なのだった。




