七十三、 盃
時間は少しだけ遡る。
「何なのだ、あの女は!」
青元は高膳に盃を叩きつけるように置いて、吐き捨てるように言う。
膳の上で盃がガンと音を立てた。
「ご機嫌斜めのご様子で」
「良くなる材料があったか?」
年下の主君にとげとげしい視線を向けられて、宰相絡月勝は苦笑を返す。
「怒り出したいのは、陛下よりも殿下がたのほうではありませんか?」
その言葉に、青元は意外そうな顔をして言う。
「珍しいな。そなたが女の心を推し量るようなことを言うとは」
「これでもいちおう、妻と娘を持つ身ですので」
むう、と唸って青元が黙り込む。
宴席で奏でられている楽の音が聞こえていた。
披露宴を、しかもその出鼻をくじかれたという憤りが青元の中から消えたわけではない。だがたしかに月勝の言うとおりでもある。
青元は夜気に当たると称して公主妃披露の宴を中座して、小部屋に引っ込んでいた。
そこでも酒を口にしていれば夜気に当たる意味もなさそうなものだが、もとより口実のようなものだから二人とも気にしていない。
青元など冠を外して足を崩しているほどだ。
「前々から思っていたが、そなたがどうやって細君と結ばれたのか気になるのだが」
「話しても面白いことなどありませぬゆえ――来たか、通せ」
小者に耳打ちされて、月勝がそう命じた。
ややあって、室内に一人の男が入ってきた。
見た目はまだ若く、青元と変わらない年頃だ。糸のように細い目、口元には硬質な微笑みが浮かんでいる。
「御史室長、高栢里、御前に参りました」
拱手して男は名乗った。御史とは公卿官吏の監察に当たる官であり、御史室長はその頂点だ。
青元は月勝に端的に問う。
「呼んだのか?」
「臣には呼びつける権限はございませんので、ただ知らせただけです。――鄭家の当主姫が来ているぞ、と」
そう教えれば動くだろうと読んで情報を流したのだ。
それにはいともいいえとも答えず、栢里は落ち着いた声で切り出す。
「鄭家当代当主、鄭姫こと鄭玉柚殿、……ですな」
「率直に聞く。――真にあの女が当主なのか?」
「おそらくは」
簡潔に答える栢里に、呆れたような口ぶりで青元は言う。
「なんだそれは」
「なにぶん末姫ということで外に出たことも少なく、某も直接対面したことはありませぬゆえ……ですが、否定できる材料もないのも確か。李妃様が面通しされたとも聞きましたが?」
「彼女にしたところで長いこと会っていないような口ぶりだったからな」
月勝が手をあごに当てて視線を横のほうに投げながら言う。
「身分の確かでない者が、呼ばれてもいない宮中の宴に押し入って陛下と直答。それだけで十分不敬に問うこともできますな」
「……しない」
「されてもよい、と思いますが?」
「そなたと答え合わせがしたいわけではないぞ。師傅と弟子ではあるまいし」
失礼を致しました、と宰相は軽く謝罪して頭を下げる。
言葉ほどには失礼とは思っていないし、青元も承知でやっている。
師傅と弟子ではない――今はもう。
「鄭家に関しては気になることが一つ」
「なんだ、言え」
「部下をひとっ走りさせて鄭家屋敷の様子を見させましたが、夜にもかかわらず人の出入りがあり、どことなく騒がしかった、と。もちろん、宴などを催しているようでもなく」
青元は首をひねる。
当主(玉柚が本人だとして)が外出しているのにその邸が騒がしいというのは、奇異なことに感じられる。
大騒ぎするような出来事があったのなら、邸から使いの者が来たとしてもおかしくはない。しかし今のところそれは来ていない。
あるいは――。
「行き先を告げずに出てきたのか?」
「何のためにです」
何のために、といわれても、鄭姫本人でもない青元にわかるわけがない。
「……御史室長、頼めるか」
「御意のままに」
言うが早いかすっと立ち上がる栢里を青元は呼び止める。
「何か?」
「その、なんだ、一杯どうだ」
「……ありがたいですが、まだ仕事の途中ですゆえ」
「我が妹の結婚の祝い酒だ。飲んでくれ」
固辞しようとする栢里に、青元は重ねて言う。
観念したように栢里は応じた。
「では、一杯だけお受けします」
栢里が出て行った後、
「たったひとりの女相手に、余は気をかけすぎだと思うか?」
「気になりますか」
「ならないわけがないだろう」
「それは喜ばしいことですな。主上が女性に興味をお持ちになったと伝えておきましょう」
「なんだそれは」
決してそういう意味で気にしているわけではない。そもそも女に興味がないわけでもない。いやそういう話ではなく。
李妃の実家の李家を始め、主だった貴族たちの尻尾は押さえている、と青元は自負している。即位してから三年目、国内は幸いにして平穏だが、だからこそ策謀好きな一部の貴族たちがなにやら蠢きだすのも時間の問題だろう、と踏んでいた。
しかしその中で、鄭家には付け入る隙がなかった。当主は外に出てこないし、親族連中に話を向けても要領を得ない答えしか返ってこない。大規模な不正なら栢里とその配下たちが見逃すわけはない。それくらいには、青元は栢里の視野の広さ深さは信用していた。目は細いが見通す能力には秀でている、と。
――そろそろ、探りを入れてもいい頃合いだろう。
青元はそう思っていたし、月勝もそれを知っている。だからこそ、軽口を叩く余裕もあるわけだ。
「そうですか? なんだかんだと理由をつけては渡御の回数を減らしておられるそうですな」
「誰がそんな事を」
「もちろん殿中監どのですが。両妃以外の寝所からは足を遠のけられているようだと」
「……今までだってまったく無視してもいなかっただろうが。見るところは見ているぞ」
「例えば?」
月勝が間髪を入れずに聞き返す。
「……あ、あー、李妃と洪妃は相変わらずのようだな。――こんな日まで色で張り合っていただろう」
妃嬪席の一番前に、間隔をあけて並ぶ青と赤の上衣を思い出しながら青元は言う。
強制も言明もするつもりはないが、青元としてはやはりこのような日には、麗瑛や天香を引き立てる色のほうが好ましく感じられる。婚礼衣裳で赤をどこかに身に纏うことはわかっているのだから、と言ってやりたい。
もちろん赤の上衣のほう、つまり洪妃もさすがに婚礼衣裳に用いられるような目の覚めるような赤は外していたが、それでも深緋というのかややくすんではいたが赤である。洪妃は李妃が悪いというのだろうし、李妃にしてみればそんなことは知ったことかというのだろう。
だがそれならそれ以前に、今日くらいは手打ちをするとかしてくれればいいものを、と思う。それだけの情報も猶予も与えたはずだ。はずだった。
そんなことだから、どちらかを選ぶ気にもならないというのに。
青元はひとつ深くため息をついた。
* * *
一方、蓮泉殿では。
朱塗りの盃を手渡された天香が麗瑛を見返すと、彼女もまた手に同じものを持っていた。
「ふたりがそれぞれ相手の盃に注いで、同時に飲み干すの」
「でも、さっきも一度やりましたよね」
宴の初めに、結婚した二人が盃を干すのが決まりだ。
とはいえあくまで儀式のひとつだから、盃も小さいものだった。例えるなら、料理のときに味見に使う小皿程度。
それに比べて二人が今手にしているのは、ごく普通の酒盃だった。
いや、どこまでが普通なのか天香もよくわかってはいないが、父親がたびたび傾けていたのもこれくらいの大きさだったのはわかる。
「それに、前のときはやりませんでしたよ?」
「これは宴で飲むのとは違って、宴のあとで部屋に入ってからふたりだけでやらなくっちゃいけないんですって。前のときはそこまで気が回らなかったし――宴というほどのことでもなかったじゃない?」
確かにあのとき列席していたのは青元だけ、それも途中でいなくなったから、宴とは呼べない。
褥子(敷布団)にこぼしてはいけないと思って、天香は寝台から起き上がった。
卓のほうに移動して、それぞれ順に酒を注ぐ。
注がれた酒の水面(と呼んでいいのか)が揺らめいて、灯りが踊る。
注ぎ終わると、どちらともなく視線が合った。そしてふたりは同時にくい、とその盃を煽った。
喉元から奥のほうにかっと熱くなるような軌跡を残して酒が落ちていくのがわかる。
さっきも宴の場で同じものを飲んだはずなのに、あの時は緊張していたのか、そんなには酒の味も酒精の強さも感じ取れなかったのだ。
ほう、と息をつく。その息もなんだか熱いように感じる。
「さあ、もう一杯」
麗瑛が酒杯を捧げ持つようにして酒を勧めてくる。
天香は盃でそれを受けながら。
「あ、あの、酔っ払ってしまわないようにしなければ……」
「大丈夫よ、美味しいのだから」
それは大丈夫の範疇に入るんだろうか。
麗瑛はにこにこと笑いながら酒を注いでいる。その顔が幸せそうに輝いているので天香としては言い出しづらい。
確かに飲みなれない自分でもすっと飲めてしまうのだから、これは良い酒であるのだろう。
「って、瑛さまが御自分で注ぐことはないじゃないですか。私がやります」
「大丈夫大丈夫」
くい。と傾けて更に注ぐ。
「……まさか、もう酔ってませんよね?」
「酔ってなんかないわ。気持ちいいだけ」
いや、それを酔ってると言うのだ、たぶん。
三、四杯だ。宴で注がれた分も含めても大した量ではないと思う。自分もぽっぽっと暖かくはなっているような感覚があるが、頭もはっきりしていれば視界がゆがむこともない。こんなもの、といわれればそんなものなのだろうかと思う。その程度。
酔っている人ほど自分では酔っていないと言うものだが。
「……」
「なによ、何か言いたいことでもあるの?」
「いえ、別に……」
「そう? わたしにはあるわ。いいこと天香」
あっこれ何か言っても駄目なやつだ。天香はそう察して膝をそろえる。
どうぞなんなりと仰ってくださいと待ち受ける姿勢を取ったのだ。
今の麗瑛に通じているかはともかくとして。
「いい天香。わたしは不満です」
「はあ」
いきなり何を言い出すのかと天香はどきどきする。
「わたしはねえ天香? いつもあなたがそうやってわたしに畏まるのが不満なの」
「そう言われましても、これはなんていうか、癖で……」
物心ついたときにはもう丁寧に呼びかけなくてはいけないと思っていた。その頃はまだ麗瑛のことを皇族と思ってはいなかったけれど、それでも家柄は違ったし、そうでなくても麗瑛は年上で、子供たちのまとめ役で、天香にとっては保護者のようでもあって。
その関係がはっきりと変わったのがいつだったかは置いておいて、今ですら言葉遣いはあまり変わらない。むしろこれでも砕けてきたほうだ。
「言葉のことだけじゃないの。貴女はいつも控えめでしょう。だからねえ、天香、わたしはねえ?」
「はいはい」
なんで酔っぱらいは語尾を伸ばすんだろう。大人たちがそうだったのを天香は思い出していた。
だから、麗瑛の次の一言への反応が遅れてしまった。
「わたしはね、わかる天香? だから天香にい、……押し倒してほしいのよ?」
「はい……はい!?」
言うなり麗瑛はころん、と牀に仰向けに寝転がる。
そして言う。
「さあ!」
さあ、と言われても。
押し倒す以前にもう倒れているし。いやそこじゃなく。
と言うか押し倒すって。押し倒してほしいって、つまりそれは。
天香は麗瑛の言葉を反芻しながら、暴れる胸をどうにか押さえつけようと試みる。顔が火照る。頭がくらくらぐらぐらと回る。火照りが顔から首へ胸へと降りていく。
違うこれはお酒が、そうお酒が回ってきたからで、おかしいなさっきまでは冷静だったのに、決して悶々としているとかそういうわけでは、違う違う。そもそも押し倒すってどうやって、いつもはええっとどういう風にされていて、ああ違うええっと。ああ熱い暑い。暑いから服を脱いでもいや脱ぐってそういうことじゃなくって。
天香は混乱、いや錯乱している。
がたりと椅子から立ち上がり一歩二歩、くらくらの頭のままふらふらと寝台に歩み寄り、膝をつき、手をつき、真っ赤な顔のままぎくしゃくとくちびるを麗瑛の口元に寄せて。
そこで、気づく。
「……瑛さま?」
くうくうと安らかな寝息を立てる麗瑛に、天香はどう反応すればいいのかわからずに。
酔いの熱か違う熱かはわからない、そんな炎に身の内側からじりじりと炙られるような錯覚に襲われて。
「えいさまのばかあああ」
翌朝のこと。
「わたし何かした? ……なんで怒っているのよ天香。ねえってば」
「……」
「天香にお酒を注いでもらったところまでは覚えているのよ」
「知ら――知りません!」
首をひねるばかりの麗瑛と、ひたすら目をあわせようとしない天香の様子に、侍女たちは目を丸くしたのだった。
麗瑛は弱い。天香はたぶん強め。青元も同じ。
宰相閣下はザル。




