六十九、 不満と理由と決心と その四
言ってしまった。
言葉を出し切ってから、天香は胸がきゅっと締め付けられるような感覚を覚える。
どんな反応が来るのか。視線を知らず知らずのうちに下に落としてしまう。
言い切ったことは誰にも恥じることのない本心だったのに、いたたまれなくて、その場から逃げ出したくなる。
「天香……」
麗瑛に名前を呼ばれて、びくりと体が震える。
後に続く言葉を待ち構えて一瞬目を瞑ってしまってから、言葉がないことに気づく。
天香は麗瑛に視線を移す。いや、移そうとして。
その瞬間、どっ、と衝撃をお腹の辺りで感じて、体がやや後ろに傾く。背中に腕が回されて、ぎゅうううと強く締められる。
胸元にその頭を、いや全身を押し付けるように投げ出して密着されて。受け止める格好になった天香の周りに、いとしい人の匂いがふわりと香った。
「瑛さま?」
名を呼びかければ、胸にぐいぐいとその頭を押し付ける力を強めて応じられて。
天香はその行動の意味を考える。考えて口に出す。
「喜んで……いらっしゃいます?」
ぐいぐい。ぎゅう。
ふたたび頭を押し付けられて、腕に力がこめられる。
それは否定の動きではない。天香にはわかった。
「嬉しくて……声も出ない?」
ぐい。ぎゅううう。ぐりぐり。
背中に回した腕と押し付けられた額で抱き締められる。
これもやっぱり否定ではない。が、全面肯定もしゃくだ。というあたりかもしれない。
麗瑛の整えられた黒髪が左右に揺れて少し乱れる。その下から覗く白い首筋がいつもよりもほんのりと朱色に染まっているように思えるのは、少しうぬぼれが過ぎるだろうか。
(よかった)
喜んでくれた。嬉しいと思ってくれた。そしてそれを伝えてくれた。
天香はホッとする。心臓をきゅっと締め付けていたものがほぐれて行く。なでおろしたい胸は麗瑛に占拠されているけれど。
安堵が奥に下がって不安を連れ去ると、それに代わって愛おしさと、そして嬉しさが胸を満たす。
天香も麗瑛の背中に腕を伸ばして添えて、その体をそっと抱く。自分の胸の中の幸せなあたたかさがそこから溢れて彼女にも伝わればいいと思う。
少しの間お互いの体温を楽しんで、そこで、あ、と天香は気づく。
ふっと顔を上げて、そこにいたはずのもう一人を見ると。
そのもう一人――光絢は、とても一言では言い表せないような複雑な、微妙な顔をしていた。
怒ればいいのか笑えばいいのか、悲しめばいいのか呆れればいいのか。安堵、あるいは満足も少し覗かせて。
「えっと、光――」
「別に、結構です」
途中でそう遮られてしまった。何かを言おうと天香がもう一度開いた口は。
「でも」
「さっきの話は!」
軽く広げられた左手で押しとどめるような格好の、強めの語気にまた遮られる。
「……お姉さまと殿下の間を割こうとか、そういう意味で言った言葉じゃなくて、でもなんか、今のそのお姿は正視に堪え、いえそういう意味ではなくてその、個人の感覚といいますか」
視線を落ち着きなく左右に振りながら、光絢はまとまりのつかないようにそう言う。
混乱というより、戸惑いが大きいらしい。
「いいわよ」
胸元から声が聞こえた。
もちろんその声の主は麗瑛で、やや首を持ち上げて光絢を横目で見つつ、天香の胸元、衫の前身頃から口を離して言う。
「あなたは別に、そのままでいいわ。むしろそのままでいなさい。いまさらあなたに何か言うくらいなら、そもそも最初から天香の周りになんて近づけさせないでしょ」
「あの瑛さまちょっと」
「いまさら決まりが悪くなったなんて言い出しても知らないわ。望んだのは光絢で――わたしが受けて立ったんですからね」
そう言い切って、麗瑛はふたたび天香のからだに顔を埋めたのだった。
* * *
「――というわけで、天香を正式に公主妃としてあつかいます」
翌日の昼。
蓮泉殿の広間に殿付きの侍女たちを皆集めて、麗瑛が宣言した。
筆頭格の則耀、英彩たち、それに途中加入組の光絢、燕圭。それに、伝えたいこと有りと呼ばれてきた丁夫人。
みな、麗瑛と天香の関係を知りながら、ここまで他には漏らさなかった、信頼と実績の侍女軍団。
「問題ないわよね、丁夫人?」
「もとより、白妃殿下が後宮に慣れるまで――そして御自らのご意志あるまでというお話でありました。問題など、あろうはずがございません」
そう言って、丁夫人が恭しく礼をとる。
「おめでとうございます、公主殿下、妃殿下」
則耀が代表するように言って頭を下げると、ほかの侍女たちがそれに続いて声を揃えた。
天香としてはなにか申し訳なく感じてしまう。
「あ、ありがとうございます、皆さん」
「あらあら、わたくし達も我がことのように喜ばしいんですよ? だからお礼なんてよしてくださいな」
「でも」
「じつは、天香さまをあるじと胸を張って言えるよう、待ち焦がれておりましたから」
礼を伝えれば、英彩に砕けた口調でそう返された。
その隣で、則耀が渋い顔で英彩の口調を窘めたそうな視線を送っている。
その時、こほん、とかわいらしい軽い咳払いをして、麗瑛が皆の注目をもう一度集めた。
「ついては――公主妃をお披露目する場を作ります。披露宴というやつね。天香が是非にというし、わたしもそのつもりで――」
「え」
大事になりそうな予感に、天香は声を上げかける。
そもそも是非になんて言っていない。
そう言いたげな天香を見て、不思議そうに麗瑛が言う。
「あら、その内そういう宴は開くつもりでいたのだし、ここがその機会よ。それに、あなたが言ったのよ。誰にも間違えられないようにはっきりと言って回りたい、って」
「いえその、それはわかってます、けど……」
落ち着いたところでお披露目する。
あらためて考えれば、それ自体は麗瑛も元から言っていたことだし、天香も賛成していた。
けれど、いま自分の中で考えていたのは、それよりも前にそれぞれの妃嬪に個別に事情を説明することで。
あれ。
そこまで考えたところで、他でもない麗瑛と、そして丁夫人と交わした会話がよみがえった。
「ひとりひとりを回ると、順番をどうするかっていう話が、また……そういうこと、ですか?」
「やっと思い出した?」
後宮を差配する公主が誰を優先するか、という行動一つで、後宮の順列を決めてしまうことになりかねない。だからそれを避けるために、今までも注意していたのだ。
そもそも、そういうことを学ぶために天香は女官や侍女扱いでうろちょろとしていたのに。
ああだめだ大事なところで何も成長していない。
「宴なら、あのお二人に上下をつけずに扱える、ってことですね」
李妃と洪妃、それにその下の面々、またどちらにも属さない少数派にも。
宴の席なら横並びで、一度に真実を伝えられる。
天香がそこまで気付いたことに嬉しそうに目を細めて、麗瑛は言った。
「はっきりと言いたい、知らしめたいってあなたは言ったけれど――そうしたいのは、あなただけじゃないんですからね」
その耳元がわずかに赤くなっているのに、天香は気付く。
天香はやっとそれを理解して、どきりと心臓がはねた。
「それに――」
緩んだ頬を引き締めなおそうと顔に手を当てた天香の耳に、麗瑛の声が入りこむ。
その声に視線を戻せば、頬に当てた手を取られ、麗瑛の逆側の手、その指先が天香の頬とあごを縁取るようについい、と撫でた。
さっきとは違う種類のいたずらっぽい笑いを湛えたその瞳が、至近距離から天香の顔を捉える。
「ここまで放置してきたのだもの。盛大にひっくり返して差し上げたいわ。ねえ、蓮泉殿の御方さま?」
「……もしかして、最初からそのつもりでしたか?」
吐息の温もりさえ感じられる距離から発せられた、いたずらを楽しむ子供そのものの口調にそれを読み取って、天香は確かめる。確かめずにはいられない。
蓮泉殿の御方にまつわる根も葉もなければ実体もない噂。なぜ放置するのかと光絢が不満に思い、問いただした原因。よく考えればそれを質した昨日だって、上手いことはぐらかされていたようにさえ思えて。
そんな天香に、麗瑛は言う。
「好き放題言っていたかたたちの顔が楽しみね。ねえ天香」
――ああ、そうだ。そうだった。
子供のころもそうだったし、今の自分とのじゃれ合いでさえそうなのだ。
やられたことはやりかえさないと気が済まない。
それが、天香の瑛さまだった。
微笑まれて微笑み返したつもりだったけれど、その口元が引きつらなかった自信が天香にはなかった。
余談。
「ねえねえ則耀ちゃん」
公主とその妃の前から退出しようときびすを返したとき。
ひょこひょこと近寄ってきた英彩に耳打ちされて、則耀は顔を少しだけしかめてみせる。
「ちゃんってつけないで。……なに?」
「あのお二人、もしかして――この後もずっとああなのかしら」
あのお二人と身振りで示す背中側には、披露宴のことでああだこうだと言い交わす二人の姿。
言いたいことはわかる。
仕える身からすれば、二人とも良い主なのは確かだ。
ただ――あまりに仲睦まじすぎるのも、目に毒で。
「……後宮の妃嬪さま方の前ではお控えになるでしょう。それくらい――」
それくらいの分別はあるだろう。
と、不敬になりかねないことを言いそうになって、則耀はそこで口を閉ざす。
ついでに、ニヤニヤと笑みを抑えきれない相方の鼻の頭をちょんとつついておいた。
今回で一応、第三章『後宮編』-終- となります。
恒例の登場人物紹介を挟んで、その次から第四章『来訪者編』が始まります。
披露宴目前の二人のもとに現れた来訪者とは。
そして第三章では気付けば予定より出番が減ってた(こんなんばっかり)湘王の出番は。
そんな感じで、よろしくお願いいたします。