六十八、 不満と理由と決心と その三
あ、と声を漏らした光絢に麗瑛と天香が揃って目を向けると、光絢はおずおずと切り出した。
「ちょっと、思い出したのですが」
「どうしたの?」
「徐嬪さまによると、李妃さまが蓮泉殿の御方のことをはっきりと名指しして何かを言ったのは一度だけだったそうなのですが……その時李妃さまは『まるで鄭姫どののよう』と仰った、と」
耳慣れない名前――おそらく名前だろう――を聞いて、天香は首をひねる。
「ていき?」
「わたし?」
そろって首をかしげる婦妻に、呆れ交じりの声で光絢が言う。
「殿下のは帝の姫って書くほうの帝姫でしょう。そんな殿下しかできない惚けかたやめてください。――それに、殿下はどなたのことかご存知でしょう? お姉さまはともかく」
「知ってるわよ。鄭家のいまの当主でしょう。和ませてあげようとしただけじゃないの」
「それで和むのはお姉さまくらいです」
「ならちょうどいいじゃない」
「……ああハイ、そうですね」
なんだろう。ともかく扱いとか和むのは自分だけとか、特に理由もなくなじられたような気がする。
「そんな人がいる――いらっしゃるんですか?」
天香が言うと、麗瑛が説明を返してくれた。
鄭家というのは大貴族の一角。李妃の実家と格としては変わらないくらいの富戸権門……だった、と麗瑛は言う。
「先の難で当主とその息子たちが全員死んで、当主の一家でひとり残った娘が後を継いだそうよ」
先の難――それは青元が帝になるきっかけになった出来事のことだ。
思いっきり簡単に言ってしまえば、貴族たちが舟遊びをしていた大船が沈み、多数の死者が出たのだ。いちばんの問題は、その死者の中に当時の太子――青元と麗瑛の異母兄にあたる人が含まれていたことだった。
とはいえ、宮廷が混乱する中その混乱をいち早く収めたのが青元だった、ということまでしか天香は知らない。あまり声高に言って回れる話でもないから、誰かに聞くというわけにも行かず、密かに交わされる噂は例によって例のごとく尾ひれ背びれ胸びれがついていて、結局何が正しいのかどうかわからないままだ。
天香は素直な感想を漏らす。
「それは……大変でしょうね」
「男手がいなくなって娘が家を継ぐというのは、それ自体はあるといえばあることですけど。ただその鄭姫という人、外にもほとんど出てこないとか」
「どうして?」
「もとから体が丈夫ではないとか臥せっているとか、父親と兄たちの喪に服しているとか聞くわ。だからわたしもお会いしたことはないの。お名前も知らないのよね。だから単に鄭姫としか呼べないのだけれど」
光絢の補足を引き取って、麗瑛が言う。
「話だけは聞こえてくるけれど、本当はどうなのかは誰も知らない……たしかに『蓮泉殿の御方』みたいですね」
麗瑛と光絢の説明を聞き、李妃がそんな感想を言うのも当然だと天香は納得した。
確かに聞くだけならそっくりだ。いや、外に出てこないというところだけの気もするけれど。
「お小さいころに遊んだ人とか、いないのかしら。わたしには天香がいたけど」
麗瑛が疑問を言う。
貴族の娘の遊び相手として親交のある家の娘が呼ばれたり、あるいは貴族同士なら互いの家を行き来したりはよくあることだ。天香の場合は前者に近い。ただし家だけではなく外でも遊んでいたけど。
その一方で、光絢相手にわざわざ自分たちの例を持ち出さなくたっていいのに、とも思う。付き合いが長いということはそれだけ、なんというか、触りたくない思い出とかもあるわけで。
天香にとってはさいわいなことに、そちらに話を持っていこうとはせずに光絢は応じる。
「そう言われましても、わたしだって直接は知らないかたですし……」
「徐嬪からは聞き出せなかったの?」
「あの人は後宮に上がるまではずっと故郷暮らしですから、鷲京の貴族にそんなに詳しくないはずです。……ただ」
「ただ?」
「妃として入内していてもおかしくない身分と年頃だったそうだから、気の毒なことだ、とは言っていましたね」
「それは……たしかに、お気の毒ね」
まんざら嘘や社交辞令ではない口調で麗瑛が言う。天香も同感だった。
上流貴族の娘となればその将来はまず後宮入りが上がる。帝や太子との齢の差があまりにも大きければまた違うが、とはいえ現在これくらいの年ごろの娘ならば、先の難で死んだ太子か、そうでなくてもその弟たちのいずれか(もちろんその中には青元も含む)への輿入れ話が持ち上がっていただろう。
鄭家が李妃の実家に並ぶほどの家であったというのなら、当然だ。
李妃などは生まれたときから将来の後宮入りが決まっていたというし、逆に洪妃は彼女自身が言っていたとおり予想もしなかった後宮入りだったという。思えばそんなところも対照的な二人だ。
その未来が失われたとき、彼女はどう思ったのだろうか。もしかして、屋敷に引きこもって出てこないというのもそこに理由があるのだろうか。
いや、そもそも自分達だって同じだ。と天香は思う。
事件がなければ、青元が帝でなかったなら。今の自分はどうしていたのだろう。
そっと麗瑛の顔をうかがってしまう。その視線に気づいて麗瑛が言う。
「どうしたの、天香?」
「いえ、その……難がなければ、どうなっていたかと思って」
いったんは口ごもって、けれども結局は思ったことを天香は言ってしまう。麗瑛の黒目がちの瞳に見つめられるとどうしても隠せない。瑛さまはずるい。
「難がなかったら、陛下が帝にならなかったら、こうして瑛さまと暮らせていたかどうかもわからないんじゃないかって、そんな事を思ってしまって。もしそうだったら――難があってよかった、なんて」
さすがにそれは、あくまでも天香個人にとっての話というだけ。
死者の身内はそんなこと言ってはいられない。その鄭姫という人も当然そうだろう。
自分と麗瑛の将来が変わったように、彼女もそうなのだ。
「ばかねえ」
呆れと慰めが混ざったような口調で、麗瑛が柔らかく言った。
「そんなことを気に病んでどうするの? だいたい、そんなこと言わなくても、今のあなたは公主妃。わたしと契りを交わしたわたしの妃でしょう? 起きなかったことを心配していたら切りがないじゃない」
「そうなんですけど、わかってはいるんですけど」
わかってはいるけれど、どうしても言わずにはいられなかったのだ。
「それでも言いたいほど、お姉さまは不安でいらっしゃったんじゃないんですか」
「またその話なの?」
光絢が話を蒸し返すように、いやむしろ本筋に戻してそう言って、麗瑛が応じる。
「何度でも言わせていただきます。僭越ながら申し上げれば、あの噂のいくつかのもとは、殿下が湘王さまと仲睦まじく戯れていらっしゃったことにもあると思います。お姉さまだっていい気はしていなかったはずです」
「そもそも天香とわたしの結婚はお兄さまも直々にお認めになった正式なものよ。いくら噂が上がったからって、お兄さまがそれを反故にするなんてあると思う? 何を不安に思うことがあるというの」
公主の婚姻には帝の許可がいる。
例え湘王がそれを望んでも、青元が認めなければそれは実現しない。そして青元が帝である限り、麗瑛の望まぬ結婚をさせることはない。――そもそも、すでに人妻なのだ。
それは道理だった。
道理だったけれども。
そんな言葉を幾度聞いても、胸のもやもやは晴れなかったのだ。
道理が受け入れられないわけではない。麗瑛の心を信じないわけではない。どちらも痛いくらいにわかっている。
ではなぜ、自分の心は曇ったままなのか。天香は戸惑っていた。
「それでもご不満だったから、お姉さまは――」
「お姉さまがお姉さまがと繰り返さないで。それに湘の兄上は――」
何かを言いかけて、首を振って一度やめて、麗瑛が言い直す。
「だいたい、いい気をしていなかったのはあなたじゃないの?」
「もちろんわたしもですが、お姉さまもです。ですよね!?」
そんなに堂々と、きりっとした表情で言い切られても、天香は困ってしまう。
すべてを代弁されているとも思えないけれど、全くの見当外れともいえないもどかしさ。
「いや、そんなに怒るほど不安や不満だったわけじゃ……」
気おされるように弱弱しくそう言えば、その五割、いや八割増しくらいの勢いで返され。
「何一つ無いとは言えないって、さっき言ったばかりじゃないですか!」
「それは、言ったけど……」
「どっちなんですか!」
当然のその言葉に、麗瑛が乗る。
「どっちなの? この際はっきりしてちょうだい、天香」
「お姉さま?」
「天香!」
「お姉さま!」
両側からそうまくし立てられる。この状況を両手に花なんて言えるような図太さはもちろん天香にはなくて、かといって追い込まれたままでは落ち着いて考えることもできず、何かを言おうとした口は適当な言葉を見つけられるにまた開いて閉じて。
「う、う、うるさああああーーーーーい!!」
そして噴火した。
「二人とも、黙って!」
「「は、はい」」
思わず出てしまった声は思ったよりも大きくて、部屋の中で小さく反響する。
自分でも珍しいと思う天香の剣幕に気おされて、二人は口を閉じる。
はっと我に返って、自分を見る麗瑛のきょとんとした目と、光絢の軽く見張った目を、ほとんど同時に見てしまったその瞬間、頭のてっぺんから火が吹き出しそうな勢いで血が天香の顔を駆け上った。
猛烈な恥ずかしさにくたりと脱力して、天香は椅子の上で体を丸めてしまう。
真っ赤になった頬が熱い。
とりあえず、謝らないと。頬の熱が伝わったように熱い内側のどこかでそう思う。
大きな声を出してしまったことを謝って、それから、自分を悩ませているこれがなんなのかを二人に問えばいい。でも、どう言えばいいのだろう。
口を開こうとしたそのとき、脱力した天香の頭の中で、とつぜん閃くものがあった。
例えるなら、かみ合わなかった組み木がはまったような感覚が、パチリという音と共に訪れたような。
そしていきなり、すっと胸が軽くなる。
目を覆っているというのに、目の前がさっと明るくなったような気がした。
けれど、これを言ってもいいだろうか。
つい今まで悩まされていた、もやもやとした想い。その正体を。
言うことが突然変わってしまうことを、おかしいと思われないだろうか。
我が侭だと、あるいは遅すぎると、あまりにも手前勝手だと、呆れられてしまわないだろうか。
――言っていいんです。それくらいで、殿下はお姉さまを嫌いにならないはずです。
ありがとう、光絢。
天香は光絢の言葉を飲み込んで、それに感謝した。
「瑛さま」
「はい」
顔を伏せたままの天香に呼ばれて、虚をつかれたように麗瑛が応じる。
「……私、今から我が侭を言います」
「え?」
顔を上げて、麗瑛の目をしっかりと捉えて、天香は言った。
唐突な宣言に、麗瑛が戸惑ったような声をあげて首を傾げる。当然だろう。自分だって戸惑う。もっと上手い切り出し方があったと思う。でも、それを探している間にまた、言い出すきっかけをなくしてしまうのは嫌だった。
「光絢が教えてくれました。たまには言ってもいいって……瑛さまは聞いてたと思いますけど」
「たしかに言っていたけれど……」
何を言い出そうとしているのかともの言いたげに麗瑛は言葉を途切れさせて、光絢もまた話の行方を見守る。二人の視線を受けながら、天香は口を開く。
「もやもやってした気持ちが、さっきまで、つい今の今までここにありました。声を上げてしまったときでさえ、わかってなかった。不安なのかとも思ったし、怖いのかとも思いました。でもどれも何かが違っていたんです。さっきまで、それが何かわからなくて、何も言えないでいました」
ひと息を入れて、言葉を繋ぐ。
「でも、そうじゃなかったんです。不安とか怖いとか、そんなの全然関係なかったんです。……ここからが、私の我が侭です」
麗瑛を見る。天香の姿を映したその瞳を見る。
「私、私は――言いたかったんです」
一度あふれ出した言葉は止まることはなかった。
止めようとも思わない。たとえ何を言われても。
「瑛さまに何かを言ってもらいたかったんじゃなくて、私が言いたかったんです。否定してほしかったんじゃありません。私が、私の口から、その場で、否定したかったんです」
あの噂を。
自分の目の前で言い交わされていた、自分ではない自分にまつわる、根も葉もない噂を。
「私は、公主妃です。瑛さまの妃です。私がいる限り、瑛さまは誰のものにもならないし、瑛さまがいる限り、私は誰のものにもならないって。そう言って――噂を消してしまいたかった」
そうだ。
自分は公主妃だと。麗瑛のものだと。そして麗瑛もまた天香のものなのだと、伝えたかった。
湘王のものでもないし、青元のものでもない。他の誰のものでもない。
「大きな声で、あの場で、はっきりと、そう言いたかったんです」
そのことを、精一杯の大きな声で。宮中じゅうに。城じゅうに。都じゅうに。国じゅうに。地が続く限り、天が続く限りのすべてに。誰にも間違えられないように。そう、宣言したかった。
我が侭だ。あまりにも。天香は思う。
もやもやしたあの想いは、それだった。
つい数寸前まで、それを自覚すらしていなかった。自覚しないで、封じ込めていた。
そんな自分が、昼は侍女として、夜は妃として、麗瑛の側に侍り続ける生活に浸りきっていただけの自分が、ひどく――ひどく頼りなく思えた。
天香さん、ついに自覚する。




