六十七、 不満と理由と決心と その二
驚いた表情を浮かべて、光絢が訊ねる。
「い、いつから聞いて……?」
「たった今よ」
「具体的には?」
「んー、言い返すとか言い返さないとかのあたり?」
けろりとした顔で言われて、天香はがくりと脱力する。
椅子に座っていなかったら床に崩れていたかもしれない。
むぐぐ、と言葉にならないなにかを漏らす光絢に代わって、天香は口を開く。
「結構前じゃないですか……もっと早く入ってきてくれてもいいのに」
その言葉にため息が混じる。
「そのつもりだったのだけれど、なんだかお邪魔かしらと思って」
「そんなわけないじゃないですか」
「だって膝の上に乗ってたし」
目を見合わせて、そこで天香は初めて自分と光絢の距離を自覚する。
そして二人してあわててぱっと身を離した。
その様子を見て、麗瑛はいたずらっぽく笑う。
「別に乗っててもかまわないけど」
「乗ってません! 近かったのは、その……認めますけど」
「近くにいてもいいのよ」
「だから、そうじゃなくて――」
光絢のささやかな抗議を気に留める様子もなく、麗瑛は手近の椅子に腰を下ろした。
これくらいからかえば十分と思っているんだろうな、と天香は見て取る。そもそもそんなに不機嫌にもなっていない。それくらいのことはわかる。
「……瑛さま、割ってはいれる隙を待ってましたか?」
「あらまあいやだ。わたしが盗み聞きしてたっていうつもり?」
「いや、してたでしょう」
心外だ、なんて顔をわざとらしくしてみせられても、それ自体が答えのようなものだった。
天香の反応を見て、麗瑛はつまらなそうな顔になって話題を転じる。
「それで天香? 何を悩んでいるんですって?」
「聞いてたんじゃ……?」
「あなたたちの間では通じていたのかもしれないけれど、わたしは途中から、それも切れ切れにしか聞いてないもの。説明してもらわなくちゃわからないわ」
軽くすねたような口調でそう言う。
一人だけ部屋の外にいて、文字通り蚊帳の外に置かれたような思いをしていたのかもしれない。ちなみに本物の蚊帳はまだ時間が早いので吊っていない。
それはともかく。
麗瑛にそう思わせた元凶は光絢が口に出した言葉だったけれども、しかし天香本人はそもそもそこまで深刻には思っていない。
「べ、別に悩んでいるというほどのものでは」
「あら、わたしに聞きたいことがあるんじゃなかったの?」
「ですからそれは、どちらかって言えば光絢が聞きたいことで、私はそこまでは――」
言いかけたところで、光絢の不満げな顔と目が合った。
また一方的に妥協している――と言いたいのだろう。そんなつもりはないのに、光絢にはそう見えてしまうらしい。
「――全く、何一つない、とまでは……申しませんけど」
自分ながら歯切れの悪い言葉遣いだと思う。光絢ならずとも、何か含むところがあるのではと勘繰りたくなってしまいそうな歯切れの悪さだ。こういうところがよろしくない。
けれども、天香が訴えたいのは、光絢の言うような単純な不満などではない。それどころか自分の中でも整理がついていないようなことがらを口に出しても、麗瑛にも光絢にもわかってもらえないかもしれない。
当の自分でさえよくわかっていないのに。
「そんなむにゃむにゃした言い方をされたら、逆に気になるじゃないの」
「お姉さまが言いにくいのなら、わたしが代わりを務めましょうか」
案の定、二人からそんな言葉を投げかけられる。
意気込んでいる光絢に少し悪いかなと思いつつ、天香は自分を奮い立たせて口を開く。さっきよりいくぶん落ち着いているから、聞き入れてくれるだろう、と思った。
「さっきも言ったとおり、光絢が瑛さまに聞きたいことって、私のとはその、ちょっと違うように思うんだけど」
「じゃあ、わたしはお姉さまのとは別に殿下にお尋ねします」
ひとつ間を置いて、光絢は言う。
「わたくし、失礼ながら今、殿下に対して憤りを覚えていますので」
――全然落ち着いてなかった。
「想定はしていたし、だからここのところ天香をわたしにつけていなかったのよ」
質問と言うよりも詰問に近い勢いだった光絢に対して、麗瑛はそう答えた。
知っていたから、自分のことも遠ざけようとしてくれていたのだと、洪妃の桃清殿で抱いた想いが確信に変わって嬉しい気持ちになる。
そんな天香の内心を知るよしもない光絢が、さらに言葉を繋いだ。
「ご存知なら、なぜあんな噂をそのままにしておくのですか? 根も葉もない噂とわかっていても、だからと言ってお姉さまが何も思わないわけがないじゃないですか。いい気はしないはずです」
「と言っているけど、そうなの、天香?」
「いちいち聞かなくたっておわかりになるはずです」
「わたしは天香から聞きたいの」
「わたしの言うことだけでは駄目ですか?」
「天香の言うことでなければ……って、なんで笑っているの、天香?」
二人のやりとりの途中で、それを聞いていた天香は吹き出してしまった。
それを見とがめた麗瑛に問われ、笑いながら答える。
「だって二人とも、前とまーったくあべこべじゃないですか言ってることが」
光絢と再会して、初めてこの部屋に連れてきたときのこと。麗瑛と自分の関係を問いただされたあの時。ほとんど同じ会話が、ただし発言した人間は逆で、麗瑛と光絢の間で交わされていたのを思い出したのだ。
天香のそんな思い出し笑いに、麗瑛たちも毒気を抜かれたように顔を見合わせる。
ややあって、麗瑛が口を開いた。
「――うわさ話を一つ一つ取り上げて潰していくなんて無理だと、ついこの間もそんな話をしたばかりじゃないの。光絢だってそれはわかるっているでしょ?」
やれやれという口調で麗瑛が引き合いに出したのは、幽霊騒ぎの一件のときのことだ。
一度広がってしまった噂を否定して回ってもどうせ根絶は難しいから、という理由で、噂そのものは放置することにしたのだった。
「それは……ですが!」
「あちらのときは納得して、天香が噂の対手となると納得しない――というのはおかしいのではなくて?」
「あちらの噂は別に誰かを悪しざまに罵ってたわけじゃありません。お姉さまは……お姉さまは、か、姦婦などとまで言われているのですよ!」
「光絢待って、私そんなこと言われてないんだけど」
光絢は諦めずに食って掛かる。しかしその話の中にさすがに聞き過ごせない言葉が出てきて、慌てて天香は割って入った。陸嬪や蘭嬪たちから投げかけられたのは当てこすりの範囲からいくらも出ていない言葉で、さすがにそこまで棘のある言葉はそこに並んでいなかった。
「いいえ、わたしは言われたのです。いえ、正確にはそういうふうに呼んでいる人間もいると言われたのですけど」
「姦婦ですって。ずいぶんと高く評価されてるじゃない?」
「面白がらないでくださいってば」
天香は麗瑛に呆れを混ぜて言葉を返す。
そんなふたりの様子に苛立ちを募らせたように、光絢が声を荒げた。
「ですから! どうしてお二人ともそんなに落ち着いていられるのですか!」
もっと反駁してもいいはずだ、するべきだ。という光絢の気持ちはよくわかる。でも天香の感想はさっき光絢に対して言ったことと基本的には変わらない。
「だって、それは私じゃなくて蓮泉殿の御方への言葉だから」
つけ加えると、先ほどからなぜと繰り返し聞かれた結果、たぶんこうだろうという結論に天香はたどり着いてもいた。
それはとても単純で、だからこそ天香には重要なこと。桃清殿で敵意に直面しても平静でいられた理由も、たぶん同じだった。
なぜなら――さっきも言ったとおり、彼女たちの噂に出てくる『蓮泉殿の御方』は、自分ではない。
ということはすなわち、公主妃でもない。
だから、いくら彼女が悪しざまに言われても、その悪名汚名は麗瑛には降りかからない。関係があるのは麗瑛ではなく、どちらかといえばむしろ青元のほうだ。
もちろんそのぶんのあれこれが青元に降りかかっていいとは思わないけれど、天香が優先に考えるのはまず麗瑛のことなのだ。
いちばん大切な人間は麗瑛。そこは何があっても変わらないし変えられない。
怒る気にならない、いやなれない、それが理由だった。
「ところで、そんな話ををしていたのは徐嬪さまなの?」
納得できないというむくれた表情のままで黙り込んだ光絢に、天香は訊ねた。
「いえ、姦婦がどうこうの話は他のところで……それが何か」
「どんなことを言われてるのか、気にしちゃいけないの?」
私のことなんでしょう、と軽くからかうように付け加えながら、さすがに嬪の地位にある人が棘々しい言葉をむやみとは使わないか、とも天香は思う。
「今日の今日そういう話を聞いたばかりの私よりは、光絢のほうがよく知ってるんじゃないかな、って」
「わたしも知らないわけじゃないけど」
「やっぱり殿下は――」
麗瑛の挟んだ余計な一言に再び声をあげかけた光絢を、天香は手のひらを向けて制する。
言葉を飲み込んで姿勢を正した光絢は、不満げな顔のままで言う。
「……たとえ聞いた話とはいえ、お姉さまを悪しざまに言うことばなんて、わたしもあまり言いたくははないのです。おわかりですか、お姉さま?」
「わ、わかってる……わよ?」
「そうですか? どうもお姉さまはちゃんと言葉にしないとおわかりにならないと思うのですが」
「同感ね。よくわかってるわ光絢」
「その褒められ方はあまり……いえなんでもありません」
むくれ顔から微妙な顔になって言葉を切る光絢。
自分には『たぶんよく似てるんです――』なんて言っておきながら、当の恋敵たる麗瑛からそう言われても認めたくはないらしい。
「とはいっても、さすがに姦婦などとまで言う人はそうはいないようで。あ、もちろん目の前で言われたらその場で――いや、そうじゃなくって。ええと……大半はさっきお姉さまが言っていたようなことがほとんどで、あとは『御方』は陛下のご寝所に潜りこんだ鼠とか、寝込みを襲ったとか、酔い潰したのだとか……」
「ずいぶん具体的な方法論ね……」
麗瑛が感心したような呆れたような声で言う。
しかも妙に庶民っぽい。
仮にも帝の寝込みを襲えるのかどうか、とか、適当にもほどがあると思う。噂につじつまを求めても意味はないのかもしれないけれど。
「そのほかにはまあ……礼儀知らずだとか、顔も見せないとか、二目とみられないような顔をしてるのかとか、逆にそうして憐れみを請うたのだ、とか」
「そんな人間に負けたご自分はいかがなのかしら、と言ってやりたくなるわね」
「別に勝ってませんけど」
「あら、あなたじゃなくて『御方』の話でしょう?」
「それはわかっているんですけど……」
自分の言葉を引用して返されて、天香は口を濁らせる。
その程度の陰口で勝ったの負けたのというのもなんとなくおかしな話だというのは本心でもある。
するとその横で、記憶を探るように眉根を寄せていた光絢がぽつりと声を漏らした。
「あ」
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