七、 決定と停滞の問題
「白妃様自身のご意向はいかがでしょうか?」
麗瑛の反応を承諾と見て取って、丁夫人は今度は天香に向かって問いかける。
「……謹んで、お受けいたします」
天香はそう答えて頭を下げる。少々突飛な気もするが、現状を考えればそれは魅力的な提案だった。少し殿下と一緒にいる時間が少なくなってしまうけど――それは麗瑛が渋っていたまさにその理由だったのだが――その代わり、自分がその横に立つために必須の知識を得られるのだから。もともと何か仕事を望んでもいたわけだし。
しかしまだ彼女には気になっていることもあった。
「ただ、気になることが……」
「何?」
「なんでしょう」
「女官のお話はともかく、『蓮泉殿の御方の噂』はあまり放置したくないのですけど」
手遅れかもしれないが、すでにわりと尾ヒレ背ビレに胸ビレまで付いていそうな噂が広まってしまっているのは、昨日の女官房での会話からも推測できる。むしろ――というか確実に、采賓の来訪もその真偽を確かめに来たようなものなのだろう。だからこそ公主は冷たく素気無くあしらっていたのだと今はわかる。
それに、端的に言って麗瑛以外の誰かのためにここにいるという噂そのものが天香にとっては不愉快なものなのである。
「お二方の御婚姻が広まればいずれ消える噂ではありますが」
「それなら、広める席を設けましょう」
ここで身を乗り出したのは麗瑛だった。
「城下にはそういう宴があると聞いたわ。だから、わたしたちもそれをやりましょう」
つまり披露宴のことだ。皇族ではそういうものはやらないのか、と天香が尋ねれば、国帝が正式に正妃を迎えるとき以外には特に宴を開くというようなことはないと返事が来た。
「もちろん、天香の『勉強』が終わったあとのことになる……のよね」
「つまり、まだしばらくは我慢していただくしかないでしょう」
「わたしはすぐやってもいいのよ?」
「殿下あの、それではさっきの提案の意味が」
「……名前は?」
「い、い、いちいち言い直さなきゃ駄目ですか?」
どうしましょう。
先ほどの名前呼びが公主殿下の何かに触れてしまったみたいです。
「いいわ、天香」
「はい?」
「宴の席であなたがわたし以外の誰のものでもないことを誰の目にも明らかにしますからね」
「……はい」
麗瑛の言葉は、いつも天香の不安を吹き飛ばすのだ。
「あと名前もね?」
「えっ…………はい」
***
いくらなんでも今日からというのはさすがにできない相談だったため、二、三日の間を頂戴しますと告げて辞そうとする丁夫人を、天香は呼び止めた。
わからないことは聞いたほうがよい。できれば持ち越すことなくこの場で。
具体的には、なぜ自分を女官として働かせる気になったかだ。数度は断られていたのだから。
そう問えば、彼女は短く答えた。
「お望みでしたでしょう?」
それは確かにその通りなのだが、聞きたいのはそういうことではなく。
「妃賓方のお望みを可能な限り叶えるのが女官長の務めですし、そもそも実地で見なければ納得できない性質のお方だとお見受けしましたので」
「それは確かにそうなんです、けど……」
説明するよりも体感させて覚えさせたほうが早いと見た、ということか。
完全に当たっている。
「あえて言ってしまうならば、そうですね――」
そこでひとつ、言葉を選ぶように区切りを置く。
「この後宮は停滞しているのです」
「停滞?」
「今上陛下は後宮にあまり関心をお払いになりません。栄寧殿と桃清殿の御方も含めて皆さまに平等に、十日かそれ以上に一度と言うお渡りでは」
栄寧殿は李妃、桃清殿は洪妃に与えられた殿舎だ。これに蓮泉殿を加え、五殿は残り二つ。そのどちらにも現在まだ妃賓はいない。
機会だけは平等な寵愛、と言えば聞こえはよいが、その実は顔を見るのも稀、月に二度、よくても三度か。ある意味では誰か一人や二人に寵愛が集中したほうがまだ張り合いもあるだろうに。
「陛下はお子をお望みではないのか。とか、重臣方もお悩みのようね」
「まさに」
麗瑛が言い、丁夫人が同意する。
明言はしないが、重臣方というよりは李妃や洪妃の父親のことだ。他の賓たちの親も大なり小なりはそうだろう。
女体には月の巡りが関係しており、子を成すためにはそれに適した好日がある。その好日を外せば子を成すことは難しくなる。
そういったことも公主院で学んだ中にある。
天香自身には正直なところ今までもこれからも関係のない知識ではあるが、女たちの間で暮らすのであれば避けては通れない話題だ。
その好日に帝が来なければ意味がないということになる。
月に二度三度ではその好日に合わせられるのかどうかも怪しい。合わせようと思えば合わせられるのかもしれないが、であるならばすでに懐妊の兆候があってもいいはずだ。しかし今のところそれはない。
つまり、特に合わせようとはしていないのだ。
結果として、帝は子を成すことを望んでいないのではないか、という疑念が生じるのは仕方ないのかもしれない。
それはまずい。
何がまずいかと言えば、いちばん直接的には天香と麗瑛の平穏な日々に関係しそうだと言うのがまずい。そうでなくとも何か事が起これば国が荒れる原因になりかねない。
考えているうちに天香は自分の義兄でもある帝に対する苛立ちを自覚する。妃賓は全て――もちろん天香のことは含めない――帝の妻であり、その子を産むことを期待されて後宮にいる。古の賢人には後宮を一個の器官と見立てた者がいたという。時の帝の不興を買って追放されたらしく、その名も文も残ってはいない。それはともかく。
もしも子供を作るつもりのない帝の子供を作ることを期待されて後宮の中に留め置かれているのならば、それは不憫などという話の枠を超えているのではないか。
(まさか子供の作り方を知らないなんてわけはないだろうけど)
なかなか子ができない若い夫婦が困って医者にかかったがどこにも問題は見つからず、詳しく聞いてみれば二人とも子の成し方を知らなかっただけだった。そんな笑い話を聞いた事がある。公主院時代に天香が聞いた噂によれば、上流階級の男子は年頃になるとその手のことを実地で教えるための女を宛がわれるらしいという。皇族でもそうなのかもしれない。ただ、今上国帝陛下は成人の寸前までは市井でお暮らしあそばされていたのだ。他ならぬ天香の実家の隣で。
などなど考えてはみたが、結局帝――青元自身が何を考えているのかなどわかるわけもなく。
ならば、わからないことは聞けばよい。
次に青元が蓮泉殿に顔を出したら、そのときには問い詰めてやろう。
天香はそう心に刻んだ。
「ですから」
丁夫人の言葉が、考え込んでいる天香を現実へと引き戻した。
「貴女なら、その停滞になにか流れを生じてくれるのではないか、と思ったのです」
「…………えっ」
たっぷりと間を置いてから、思わず天香は聞き返した。
それは、期待されている、ということでいいのだろうか。
丁夫人は先ほどのいたずらっぽい笑みはどこへ行ったか、いつもの感情が読み取れない顔に戻っている。
そして天香たちに一礼すると今度こそ踵を返す。房を出る寸前になって、あらぬ方向を見ながらもう一言だけをつぶやくように口にした。
「まあ、あとは単純にそちらのほうが面白そう――いえ、失礼しました」
「はあ……?」
そのまま部屋を辞す。初対面のときと同じように、その挙措には隙の一つも見られない。でも面白そうってなんだ。どう考えても今のはつい口に出たと言う感じではなかったけれども。
では聞かせるための冗談、だったのだろうか。
ますます女官長・丁淑玉と言う人間のことがわからなくなる天香である。
ともかくも、天香はそんな女官長の下で働き始めることになったのだった。